菊池俊彦『オホーツクの古代史』

オホーツク文化についての研究史概説本
オホーツクでいつ何があったか、ということを編年で書いているのではなく、研究が進展してきた流れに沿って書かれている(大雑把にいうと、1930年代、こういう仮説があってこういう説が主流になった→戦後、こういう調査がされて、こう考えられるようになった→1970年代、こういう研究がなされた、みたいな感じ)。
歴史学的な研究から考古学的な研究へ、という変遷でもある。
資治通鑑』など中国の歴史書の中に出てくる「流鬼国」は一体どこにあったのか、という話から始まり、流鬼国=オホーツク文化はどこの何民族の国・文化だったのかを考古学的に検証していく。


オホーツク文化、というのはややマイナーだと思われるので少し捕捉しておく
とはいえ、自分もこれまで、名前を知っているだけでよく知らなかったので、今回この本を読んだわけだが。
まず、日本の歴史を紐解くと、その土器の様式から、縄文文化(時代)、弥生文化(時代)があったわけだが、北海道では事情が異なり、縄文文化(時代)のあと、続縄文、擦文が続く。
ところが、この続縄文から擦文にかけての時代、北海道のオホーツク海沿岸部(礼文島など部分的には日本海も含む)には、オホーツク文化という異なる文化があったのである。
続縄文や擦文を担っていたのはアイヌの人々だが、オホーツク文化アイヌとも異なる人々によるものだったとされている。
現在の日本人は、縄文系統と弥生系統が混淆したものであり、アイヌや沖縄の人々は縄文系統であると思われているが、アイヌについては、このオホーツク系統とも混淆しているのではないか、と言われている。


オホーツク文化について、学校では習っていないのではないかと思われるが(少なくとも自分は習っていないと思う。大人になってから北大博物館に行って知った。今の学校で教えているかどうかは知らない)てっきりそれは比較的最近発見されたからなのだと思っていた。
ところが、オホーツク文化の遺跡(モヨロ貝塚)が最初に発見されたのは1913年で、1930年代までにはオホーツク海沿岸部に独自の文化があったことが分かっていたと知って、ちょっと驚いた。
戦前から発掘調査が色々行われており、その後も、おおよそ現代に至るまで研究は続けられているようである。

はじめに
第一章 流鬼国の朝貢使節
第二章 流鬼国はどこにあったのか
第三章 オホーツク文化の大陸起源説   
第四章 オホーツク文化と流鬼
第五章 夜叉国と環オホーツク海交易
あとがき

はじめに

ここで、筆者自身は、流鬼国はサハリンのニヴフの国であると考えていることが述べられている。
この主張が本文で出てくるのは第四章で、そこまでは過去に提案された仮説の紹介が続くという構成になっている。

第一章 流鬼国の朝貢使節

まず、第一章は、中国の歴史書(『通典』『唐会要』『新唐書』『資治通鑑』)にある流鬼国についての記述内容の確認である。
唐の時代(640年)に、長安から一万五千里彼方の流鬼国から使節が来た、という記録が残されている。記録に残っている限りでは、朝貢はこの1回きりである。

  • 流鬼国は、「北海」の北にある
  • 三方を海に囲まれている
  • 島で暮らしている
  • 何回も通訳をかえてきた
  • 馬に乗ったことがなくて、靺鞨の国で乗ったら落馬してしまった
  • 騎都尉
  • 貂の皮
  • さらにその北に夜叉国がある。夜叉国の人はブタの牙が突き出たような容貌である。


『通典』では「北海」と書かれており、「北海」というのは、中国ではバイカル湖のことを指しており、この記述だけだとバイカル湖周辺の国に思えるのだが、他の文献では「小海」と書かれており、おそらくなんらかの書き間違い。そもそもバイカル湖周辺だとすると、海に囲まれていたり、島だったりといったことが分からない。
大きな争点は、「三方を海で囲まれている」という記述と「島で暮らしている」という記述の間の矛盾で、前者が正しいとすると半島、後者が正しいとすると島にあったことになる。
そのため、流鬼国の所在地については、カムチャッカ半島説とサハリン説とに分かれてきた。
黒水靺鞨の東北にあるとされている。
靺鞨民族はさらにその中でいくつかの部に分かれていて、黒水はそのうちの1つ。靺鞨は渤海国となるが、黒水靺鞨だけは渤海国に属さず、唐への朝貢を続けていた、という
で、この黒水靺鞨と流鬼国に交易があった。

流鬼国はカムチャツカ半島か、サハリンか/「北海」はバイカル湖か/一万五千里の彼方にある国/黒水靺鞨の領域/「少海」は「小海」/流鬼の使節の名前/使節長安到着/「三訳」とは何か/騎都尉という称号
  

第二章 流鬼国はどこにあったのか

19世紀中頃から20世紀半ばまでの諸説が紹介されている。
ここでは諸説の詳細には踏み込まず、羅列するとどめる

流鬼国はカムチャッカ、夜叉はチュクチにあったとする

流鬼はカムチャッカ半島のカムチャダール(イテリメン)民族、夜叉はチュクチ民族

流鬼国はサハリンにあり、流鬼はアイヌ民族。夜叉はユカギール民族

流鬼=カムチャッカ半島のカムチャダール。夜叉はコリャークまたはチュクチ民族

流鬼はカムチャッカともサハリンとも特定できないので、夜叉から考える
夜叉=エスキモー説
そこから、流鬼はカムチャッカ半島となる。


史料だけからは、カムチャッカともサハリンとも特定できない。
佐藤の研究は、考古学資料から検討しようとしたことが画期的。しかし、エスキモー説には難がある

第三章 オホーツク文化の大陸起源説

1877年、縄文式土器発見。1884年弥生式土器発見
これに対して、1890年に礼文島で土器、1901年に利尻島から牙製の像、1908年にサハリンで骨製品などが発見されており、これらはのちにオホーツク文化に属するものだと分かる
1914年 網走でモヨロ貝塚発見
→同様の土器が北海道のオホーツク海沿岸、サハリン、千島列島で発見が続く
1933年 考古学者河野広道「オホーツク式土器」と命名
1935年 河野広道が「オホーツク文化」という名称を使用しはじめ、以降この名が定着


もともと、エスキモーの骨製品と似ていると指摘されていた。
が、中国大陸との類似が指摘されるようになる。イヌやブタについても大陸由来ではないか、と
モヨロ貝塚を発見した米村は、遺跡の保全に奔走し、天然記念物指定をうけたり、軍事施設工事を阻止したりして、1941年から42年に北海道帝国大学の発掘調査が行われている。
戦後、モヨロ貝塚の発掘調査は、東亜考古学会が主導
東亜考古学会は、もともと満洲などの調査をしており、モヨロ貝塚から発見される遺物が大陸から発見されたものと似ていることを指摘

オホーツク文化大陸起源説が広まる一方、戦前のモヨロ貝塚発掘調査にも参加していた児玉作左衛門は、人骨の計測から、オホーツク文化人とアリュート民族の類似を指摘し、アリューシャン列島からアリュート民族が北海道に渡来してきたと唱える(1937、1947、1948)
しかし、考古学的な証拠が弱く、河野により批判され、この説は消えていった
(ところでこの河野の批判は『網走市史』(1958)に掲載されていたらしい。本書では、他にも結構、市史や町史に掲載された文献が参照されていている)


河野や駒井和愛は、オホーツク文化の大陸起源説を展開
例えば、駒井は、渤海、遼や金に伴い押し出された弱小民族が、北海道に渡ってきたという推論を展開。渡ってきたのは、中国の歴史書の中に登場する「粛慎(しゅくしん)」ではないかとした(1957、1964)。
また、原田淑人は、『日本書紀』で阿倍比羅夫が討伐した「粛慎(みしはせ)」とはモヨロ貝塚人だったのではないか、と講演会で発言している、と


オホーツク文化の大陸起源説は定着していくが、一方で、考古学資料が不十分であり、推論にとどまっていることを筆者は指摘している。
大陸で発見されたものと似ている、という記述はあるが、それが一体どこで発見されたものなのか特定されていないなど。

      

第四章 オホーツク文化と流鬼

1950~70年代にかけて、ソ連においてサハリンやアムール河中流域での考古学調査が進む
また、1960年代以降、日本でもオホーツク文化の調査が進む(なお、1970年代半ばあたりから筆者自身が登場してくる)
その結果、靺鞨文化や女真文化の遺跡から、オホーツク文化との類例が出土していることが分かってきた。


児玉がかつてアリュート民族渡来説を唱えたが、これだとアリューシャン列島から北海道を経由してサハリンにいったことになる。実際には、サハリンの方が古いので、その観点からこれは否定される
ところで、1959年に、今度はエスキモー民族渡来説がでてきている。これは、エスキモーがオホーツク海北岸を南下してサハリンに至るという説だが、オホーツク海北岸のコリャーク文化とエスキモーでは使っている道具が違っていて、これも否定される。


1974年 山口敏が、オホーツク文化人は、ウリチ民族(アムール河下流ツングース系漁労民)が渡来してきたという説を唱える
1975年 加藤晋平が、オホーツク文化人=黒水靺鞨そのものと主張
これに対して筆者は、確かにオホーツク文化と靺鞨文化で類似はあるが、相違点も多いことを指摘
(1)住居の違い
(2)墓・埋葬方法の違い
(3)生業の違い
オホーツク文化海獣狩猟、靺鞨は農耕中心。オホーツク文化に馬はいない
(4)土器の違い
(5)労働用具の違い
オホーツク文化は骨角器が発達。靺鞨は鉄器が発達。
靺鞨文化の担い手が直接渡来してきたわけではなく、オホーツク文化人は靺鞨文化と交易をしていた別の民族ではないか
筆者は、流鬼国はサハリンにあり、この当時のサハリンはオホーツク文化なので、流鬼=オホーツク文化人だとしている。そして、この当時のサハリンには、吉里迷という民族がいたと記録されているが、吉里迷とは、ニヴフに対する他の民族からの呼称ギレミやギリャークに対応するものであるから、すなわち、流鬼国人=オホーツク文化人=ニヴフ民族説を提案している。

第五章 夜叉国と環オホーツク海交易

最後の章で、夜叉国とはどこかについて


まず、オホーツク海沿岸で発見された遺跡調査についてまとめられている。
オホーツク海北岸からは、古コリャーク文化やトカレフ文化、オホーツク海北西岸からは初期鉄器時代の遺跡が発見されている。
いずれもオホーツク文化との交易があったとみられる。また、古コリャーク文化からは北宋の貨幣も発見されている。


オホーツク海の諸民族について
シュレンクは、シベリア諸民族の分類を行い、ウラル諸語にもアルタイ諸語にも属さない言語の民族を「古(パレオ)アジア諸民族」とした
具体的には、ユカギール民族、コリャーク民族、イテリメン民族(旧称:カムチャダール)、チュクチ民族、エスキモー民族、アリュート民族、ニヴフ民族である
同じ地域には、ツングース諸語の民族もおり、
具体的には、エヴェンキ民族、エヴェン民族、ナナイ民族、ウリチ民族、ネギダール民族、ウデヘ民族、オロチ民族、ウイルタ民族である


ここでいったん、流鬼=樺太アイヌ説が検討される
日本人がサハリンに到達した際、既にアイヌが住んでおり、古くからアイヌがいたのだと思われた。白鳥が、流鬼=サハリンであり、アイヌだと考えたのはその意味で当然だが、アイヌのサハリン進出は13世紀頃で、7世紀の流鬼はアイヌではない
『元史』で、吉里迷からの訴えでモンゴル軍がサハリン遠征して骨嵬を討ったとある。骨嵬は、ニブフがアイヌを呼ぶときの「クギ」に由来。ツングース民族がアイヌを「クイ」と呼ぶのにも対応している。


1995年、奥尻からオホーツク文化の遺跡が発見され、阿倍比羅夫が討伐した「粛慎(みしはせ)」はこの奥尻オホーツク文化人では、と言われていたらしいが、筆者は、奥尻のは規模が小さすぎて、違うのではないか、と。


さて、再び夜叉の話へと戻っていくのだが
流鬼国が貂の皮を朝貢品として持ってきたと記述されているが、これに加えて、別の箇所で、黒水靺鞨からの朝貢品として、貂の皮や骨咄角が多い、という記述に筆者は着目する。
「骨咄角」とは一体何か
これは、どうもセイウチの牙らしい
オホーツク文化でも、セイウチの牙製品が出土している
ところが、セイウチはオホーツク海沿岸ではとれない。セイウチが生息しているのはベーリング海である。
20世紀初頭の民族学調査の中で、コリャークの老人から、セイウチ猟について聞いた話が残されている。カムチャッカ半島の付け根の細くなっているあたりのカラガ川河口でとっていたらしい。ここはベーリング海側だし、古コリャーク文化の遺跡もある。
また、ニヴフはセイウチを名前だけ知っており、北方民族からセイウチの牙を手に入れていた、という記録もある。
流鬼=オホーツク文化人=ニヴフは、夜叉=コリャークからセイウチを手に入れていたのではないか、と。
そして、ニヴフから靺鞨、靺鞨から中国王朝へも伝わっていった、と。
古コリャーク文化の遺跡から北宋銭が見つかったことからも、交易があったことが窺える。