江戸時代から現代に至るまでの、和人側のアイヌ表象やアイヌ政策がアイヌをいかに取り扱ってきたか、そして、それに対してアイヌ側はどのような対応・抵抗をしてきたのか、という本
「滅びゆく民族」から「ネーション」へ、とまとめられるかもしれない。江戸時代から和人からは「野蛮」と思われてきたわけだが、明治以降、日本社会で社会進化論が受容されることで、「劣った人種・民族」とされ、生存競争によって滅びゆく民族と捉えられるようになった。
これに対してアイヌは、もちろん、自分たちが滅ぶものとは考えなかったし、自分たちの伝統文化に誇りを抱いてはいたけれど、大正から戦後すぐくらいまでは、アイヌの運動が求めるものは福祉や同化であった。
アイヌの困窮を、和人はアイヌがそもそもの性質として「劣って」いるからだと考えた。これが、江戸時代以前からの「野蛮」と組み合わさることで、アイヌ差別が生じたわけだが、他方で、「劣って」いるから保護し、教化しようという考えもあって、日本人に同化させることで困窮から救うことができる、というロジックとなる。
アイヌ側からすれば、アイヌは決して性質として「劣って」いるわけではなく、困窮は差別によるものであると次第に考えるようになったが、その困窮から脱出する方法としては、やはり同じく日本人と同化することによって、ということになった。
これが戦後、1960~70年代からアイヌ民族という「ネーション」として自分たちを考えるようになっていく。これは、同時代にネイティブ・アメリカンなどによる先住民族運動が盛り上がったことからの影響がある。
こうして、アイヌの運動は、福祉を求めるものから、エスニック・アイデンティティを求めるものへと変わっていった。
なお、英語原題は”Race, Resistance, and the Ainu of Japan”であり、「通史」というタイトルは日本語訳にあたってつけられたものだと思われる。
本書は、一応古代から扱っていて、それこそ『日本書紀』のエミシの記述などから始まるので、通史というのもあながちまちがいではないが、重きが置かれているのは明らかに明治以降である、ということは念のため書いておきたい。
アイヌについては、過去に以下の本を読んだことがある。
テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める』 - logical cypher scape2
瀬川卓郎『アイヌ学入門』 - logical cypher scape2
瀬川拓郎『アイヌと縄文』 - logical cypher scape2
テッサ・モーリス=鈴木の本については、読んだのが昔すぎて読んだことを忘れかけていたレベルだが……。
北海道出身者として、アイヌについてある程度は知っておかないとなあと思いつつ、なかなか勉強が進んでいない。この本も、出た頃から気になっていたが、漸く読めた、という感じ。
アイヌだけでなく、北東アジアの先住民族全般に興味があるのだけれど、まだ全然分かっていない。
中世・近世の交易の民としての歴史というのもあるし、近現代の植民地化・差別の歴史というのもあり、どちらにも興味がある。本書については、後者の面を主に取り上げている
アイヌの運動は、水平社から影響を受けているところがあるらしい。
水平社については、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で少し読んだりしていたが、近代日本思想史とアイヌの関係とかも観点としてはありうる
また、本書では、近代のアイヌ問題を考える背景として、明治以降の日本で進化論の受容があって、劣等種としてアイヌが位置付けられていったことが論じられていく。
このあたりは千葉聡『ダーウィンの呪い』 - logical cypher scape2とも関係してくるだろう
エドワード・モースはどちらの本にも登場してくる。
そういうわけで、最近読んだ、アイヌとは必ずしも関係ない本とも関係があるなあと思いながら読んだりしていた。
知里幸恵、バチェラー八重子、違星北斗など、名前は知っていたが、本当に名前だけという感じだったので、位置づけが分かってよかった。戦前のアイヌにとって、ジョン・バチェラーという人がものすごくキーパーソンだったのだな、ということとか。
明治・大正・戦前昭和にかけてのアイヌの活動を描いた第五章が、本書の読みどころかなと思うけれど、一方、戦後から高度経済成長期のアイヌの状況の描写は本当に痛ましいし、あるいは70年代以降の話になってくると、まだ自分は生まれていないにせよ、しかし、現代に近い時代だなという感覚(例えば、自分の親はすでに成人しているので)があり、本当に最近までアイヌは先住民族として認められてこなかったのだな、と思わされる
謝 辞
日本語版への序文
序
第一章 「人種」、エスニシティとアイヌ
第二章 夷人と鬼
第三章 旧土人
第四章 滅びゆく民族
第五章 瞳輝く――アイヌの抗議と抵抗(一八六九年~一九四五年)
第六章 アイヌ解放と福祉植民地主義――新しいアイヌの政治と国家の反応
第七章 自らのために歩み始める――アイヌの民族(ネーション)の出現
補 章 画期的な出来事か――一九九七年のアイヌ文化振興法とその影響
あとがき
訳者解題 マーク・ウィンチェスター
参考文献
付録 北海道旧土人保護法/アイヌ民族に関する法律(案)(抜粋)/アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律および附帯決議/アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律および附帯決議
謝辞/日本語版への序文/序
この謝辞や序文、あるいは筆者・訳者の略歴などから、この本の枠組みをざっとまとめる。
まず、筆者のリチャード・シドルは、1959年スリランカ生まれのイギリスの歴史学者であり、本書は彼のキャリアの初期に英語で書かれたアイヌ研究の本である。シドルはのちに、沖縄の研究もしている。
学位をとったのはイギリスでだが、アイヌの研究をするにあたり北海道教育大学岩見沢校に来ていたらしい。また、序文などから、アイヌにルーツがある日本人女性と結婚しているらしいことが分かる。2011年から19年にかけて北大の特任教授にもなっている。
この訳書が刊行された頃には定年を迎えていたようで、日本語版への序文では、既に古くなってしまった本なので……と恐縮しているようなことも書かれていた。
というのも、これは1995年の本で、アイヌ文化振興法成立以前であるからで、本書には、それ以降に書かれた論文が補章として加えられている。
翻訳者のマーク・ウィンチェスターは、1979年生まれで、シドルの教え子らしい。一橋で学位をとっていて、現在は、国立アイヌ民族博物館アシスタント・フェローとのこと。
アイヌの近現代の歴史を扱った本で、人種差別とそこからのアイヌの民族としてのアイデンティティ確立を論じるものだという。
アイヌの辿った歴史が、日本固有のものではなく、他の帝国主義の国でも見られたものとよく似ていることを示す、というのがこの本の一つの目的だったようである。
この本の執筆当時、日本ではまだアイヌが先住民族とみなされておらず、人種差別の問題として捉えられていなかったというのが背景とあるようだ。
また、「人種」と人種化の理論を用いたというのもポイントらしい。これは、この頃に歴史学に導入されてきたものらしい。
第一章 「人種」、エスニシティとアイヌ
- 近代日本における「人種」と国民
まずは、日本が明治維新において、これまでの幕藩体制や儒教的な価値観から、近代西欧的な国民国家へと変わっていく過程で「人種」概念がどのように受容されたかが見られる。
日本が西欧の知を受容する時期と、西欧で進化論ないし社会進化論が流行していた時期が重なっている。まず、モースによって日本にもたらされ、また、スペンサーの本が多く翻訳されたことで広まっていった。
「優れた民族」と「劣った民族」という考えが広まる。
劣っているから支配されている、支配されているのは劣っているからだ、という循環論法が当然のように使われるようになっていく。
「人種」と「国民」が結びつけられ、後に「人種」と「民族」が同じような意味で用いられるようになり、次第に「人種」よりも「民族」という言葉が使われるようになっていく。
「民族」「国民」という言葉は、陸羯南や三宅雪嶺らが使うようになっていき、さらに、単に支配下の住民というより、血統が重視されていくにあたって重要なのが、穂積八束
戦後に至るまでの、日本における「民族」「国民」言説
- 先住民族、創られたインディアン――競合する歴史
特に1960年代以降の、世界各地での先住民族運動とその運動へのアイヌの合流
戦後、脱植民地化の流れがあったのに対して、国内的に植民地化された人々はその流れからはおいて行かれた。
その後、北米、オーストラリア、北欧などで「先住民族」運動が生じる
「先住民族」は政治的なカテゴリーで、実践的には定義は変わりうる。
エスニックなアイデンティティは静的・本源的なものではなく、動的で社会構築的、歴史的な関係の中で定まるもの
もともと、ネイティブ・アメリカンもアボリジニーも複数の部族に分かれているけれど、インディアン性とかアボリジニー性とかを自分たちに見出して、「先住民族」としてまとまっていく。
新しく創造されることで、これまで否定されてきたアイデンティティを涵養していく
「公式の歴史」に対して「対抗の物語カウンター・ナラティブ」
第二章 夷人と鬼
- 初期の表象
『日本書紀』に描かれたエミシから鎌倉時代まで、どのように描かれたか。
華夷思想により、文明化されていない野蛮な人々として、夷人とか蝦夷とか「夷」の字が使われた。毛むくじゃら、農耕しない、文字をもたないなど。「鬼」のように扱われたり。
鎌倉時代以降、意味があいまいな「エミシ」という言葉は使われなくなり、明確に蝦夷ヶ島という異国に住む人々を「エゾ」と指すようになる
12世紀頃から、和人が蝦夷へ到達するようになり、15世紀には和人の交易拠点がたつようになる
1457年 コシャマインの戦い
→和人を北海道から追い出し、1世紀ちかい断続的戦争状態に
1551年 蠣崎季弘による講和
1599年 蠣崎氏は松前に改姓→1604年徳川幕藩体制に組み込まれる
城下交易体制 交易の主導権はアイヌに
17世紀初頭 商場知行制
稲作できる土地を持たないので、アイヌとの交易が財源。アイヌもまた和人との交易に依存
1648年 日高ではアイヌの地域コミュニティが二つに分かれていて、その間に紛争が起きる。そのうち、一方のコミュニティの首長としてシャクシャインが出てくる
和人商人への不満がアイヌの中で高まり、シャクシャインはアイヌコミュニティ間の和解に成功し、1669年、和人を攻撃しはじめる(シャクシャインの戦い)
この戦いについて、和人対アイヌという単純な図式ではなかったことに、注意が促されている。この当時のアイヌは必ずしもアイヌとして一体のアイデンティティが形成されていたわけではない。また、和人側もそうで、松前側にアイヌの兵士がいたり、シャクシャイン側に和人がいたりもした。
しかし、いずれにせよ、この戦いののち、松前藩による支配力が増す
18世紀初頭 場所請負制
商場が、本州の商人の直接経営下におかれるようになっていく。アイヌの生産品からアイヌの労働力が搾取の対象となっていく。
1789年 クナシリ・メナシの戦い
クナシリと根室で起きた、アイヌ最後の武力抵抗。37人のアイヌがノッカマップで処刑
- 夷人を教化する――蝦夷地における幕府
ロシアからの脅威により、幕府の直轄地に
江戸幕府は、アイヌを教化し日本人化しようとした。アイヌの風習の禁止などをしようとするが、これはうまくいかなかった。これは、現地の和人からも抵抗されたため
- 犬と人間
アイヌへの規制は、穢多・非人と同様で、アイヌの人間性は否定された
アイヌの子孫は犬である、という考えが広められる
和人男性とアイヌ女性とのあいだの混血児
- 一九世紀のアイヌの表象
未開で教化可能な対象としてのアイヌと、鬼のような非人間的な対象としてのアイヌ
長い期間にわたって作られてきたものを、支配において補完されていった
第三章 旧土人
北海道の歴史は「開拓」という言葉が使われるが、これは実際には植民地化とそれに伴う暴力があったことを隠ぺいしている
- 蝦夷地の変貌――異域から内国植民地へ
1855年の日露和親条約まで、蝦夷地は幕藩体制国家の外、「異域」だった
琉球が薩摩藩に併合されていたことと対照的
ロシアとの関係の中で、日本の国境内に入ってくる
明治以降も、地方行政の組織は、内地とは異なっていた(当初は開拓使、県が置かれた後も地方議会がない、など)。地方制度が内地並みになるのは1927年
- 開拓と移民政策
19世紀後半の北海道への移民について
囚人が多かった話など
- 一八九九年の北海道旧土人保護法
保護法の3つの柱は、農民化、教育、福祉
第四章 滅びゆく民族
明治から昭和戦前期にかけて、アイヌがどのように表象・認識されていたか。いかに「人種的な」ステロタイプが形成されたのか
学者、役人・教育者、一般大衆の3つに分けてみていく章
- 学者たち
御雇い外国人によるアイヌ研究
原始的で野蛮な人種ととらえる(毛深さや数を数えられないなど)
フィリップ・フランツ・シーボルト:アイヌを日本列島の最初の住民と推測
エドワード・モース:ダーウィン思想の日本への紹介者。アイヌは土器を作らないので縄文人ではないと論じた
坪井正五郎:モースの弟子。コロポックルを、非アイヌの先住新石器時代人と結びつける
小金井良精:人骨から縄文人はアイヌと論じる
明治の後半、進化論の広まりとともにアイヌ関連の論文が増える
人類学研究では、アイヌの墓を暴くという手段がとられることがあった。外国人研究者がそれを行って、アイヌが訴えた際には、その訴えが認められたが、それは政府役人側に「攘夷」感情があったため。その後、小金井良精が同様のことをした際には、問題にされなかった
一方で、アイヌ語辞典をつくった神保小虎、金沢庄三郎は、アイヌの貧困救済などを訴えた。宣教者であり、アイヌ語とアイヌ民俗学研究をしていたジョン・バチェラーは、人種的偏見に批判的。「アイノ」ではなく「アイヌ」表記を支持した。
「アイノ」という表記がかつて使われており、これは「あいの子」の略と解釈されていた。
アイヌ研究者は、台湾やミクロネシアでの研究にも携わった
血液型分布によって民族の劣等性を分類するという研究がなされ、アイヌや台湾原住民の分析に用いられた
知能テストによって、劣等性が先天的なものだとする研究もあった。
こうしてアイヌにかんする研究は、野蛮人という一般的なステレオタイプを、「自然」な性質であるとして科学的に正当化していく
- 役人と教育者
旧土人保護法の成立や改訂の際に国会で議論されている。
(あと、樺太が編入された際に、日本国籍を持たない先住民の法的取扱い)
「劣等人種」であることは前提、あとはアイヌに対する農業政策がうまくいってないことも前提とあって、その上で、一番極端な考えとしては、放置して自然消滅を待つというもの
次いで、隔離した上で教育を施すという考えと、同化させるという考えがあり、次第に同化政策が優位になっていく。
教育による同化、混血による同化
その一方で、文化の保護
岩谷英太郎→アイヌは劣等人種なので大和人種がアイヌを保護するべきと主張。アイヌ教育を欧化主義、保存主義、同化主義に分け、同化主義がもっとも適切とする。
平岡定太郎(元樺太庁長官)→優生学からの影響。アイヌの文化は保護すべきとしつつ「混化」には否定的
土人学校への皇太子来訪→アイヌの伝統的な儀式を演じさせる。一方で同化による近代化を目指しつつ、他方で、「未開人」「野蛮人」の役をさせられる
1930年「アイヌ協会」設立(訳注によると設立時期について諸説あり)
土人学校という別学教育の解消のため保護法改正を求める
アイヌ福祉に関与していた役人(喜多章明など)からも、大和人種への混血による同化が主張されるようになる
保護法は1937年に改正され、土人学校は廃止される
- 「滅びゆく民族」の表象
新聞においてアイヌが扱われる際は「滅びゆく民族」が枕詞のように使われる
無知、アルコール依存症、汚くて怠惰というステレオタイプ
金田一京助は、アイヌの劣等性や「滅びゆく民族」という表現に否定的で、同化を目指す植民地的政策を支持
アイヌを扱った小説が時折連載された。恋愛や英雄のロマン化された過去を描く。幸田露伴など
アイヌの社会問題を扱った小説として、長田幹彦の作品。宮本百合子の作品は、作者死後に発表された。
鶴田知也は『コシャマイン記』で芥川賞。アイヌの抵抗をロマン化して描いた。
博覧会での「土人村」
1903年内国勧業博覧会、坪井正五郎企画の「人類館」の「土人村」など
教科書の中でのアイヌのステレオタイプ強化
観光先としてのアイヌ
混血による同化が、公式にはいわれても、実際にはアイヌ差別によりすすまなかった。混血児は和人とはみなされず混血アイヌと呼ばれた。
第五章 瞳輝く――アイヌの抗議と抵抗(一八六九年~一九四五年)
- 初期の対応と対抗
金成太郎
1866年生まれ、札幌の師範学校で学び、バチェラーの洗礼を受けた。
アイヌ教育のための陳情・請願を行ったが、伝統的なアイヌ高齢者からの反対もあり、しだいにアルコール依存症となり、30歳で亡くなる。
近文
例外的なケースとして、近文での運動があげられている。
保護法によってアイヌに所有権のある土地について、地方行政当局が規定を無視
第七師団が旭川に来ることになって、軍の請負業者だった大倉組がアイヌの土地乗っ取り
近文のアイヌたちが抵抗し、利害関係が一致した和人の小作農とも団結した
最初は成功するも、保護法の規定よりわずかな土地だけで、アイヌのコミュニティは分裂していく
第二章でアイヌと穢多・非人の類比があったが、アイヌが運動をするにあたって参照したのも水平社の運動であった。
また、この当時の日本には、朝鮮人という人種的マイノリティも形成されていた。
しかし、アイヌの運動は左翼的なものにはならなかった。
こうしたアイヌの活動は、アイヌの中でのインテリ層から始まったが、彼らはアイヌの中では経済的に成功した層であり、彼らにとって、貧困を脱する手段は教育を受けて和人と同化していくことだった。
また、アイヌへの教育や福祉を担ったのは、バチェラーをはじめとしてキリスト教徒であり、そうした点からも左翼運動とは距離があった。
何より、アイヌは都市生活者ではなかった。多くは、地方に点在していて、集まるような機会が少なかったため、労働運動のようなものを起こすことが物理的に難しかったと。
ジョン・バチェラー
1854年生まれ。1877年に函館へ。平取周辺で布教活動をはじめ、その後、幌別、釧路、函館で学校開設。札幌に施療病室開設。1906年、向井八重子を養子にする。
アイヌ語やアイヌの民俗についての研究も行った。
バチェラーもアイヌを「滅びゆく民族」として見ていたが、バチェラーの教え子であったアイヌの武隈徳三郎は、アイヌは滅びない(大和民族の中に同化して生き残る)、と
武隈は、差別的な教育制度の廃止、アイヌ学生への財政的支援などを要請
アイヌは口承文学などの伝統を維持し、次第に若いアイヌにとっての誇りとなるようになった
その試みの一つが、知里幸恵による『アイヌ神謡集』
バチェラーの「アイヌ伝道団」は雑誌を刊行しはじめ、ここに八重子の詩が掲載、『アイヌ神謡集』を読んでいた違星滝次郎(北斗)や、知里幸恵の弟の知里真志保らとともに交友関係が生まれる。
金田一の招待で「東京アイヌ学会」で講演した違星は、そこで伊波普猷と出会っている。
違星は、アイヌを明確に「想像の共同体」ないしネーションとしての集団ととらえた。同化主義には異議を唱え、民族の多元主義を求めた。しかし、左翼的なレトリックや国家への批判はなかった。水平社から刺激を受けていたが、その点、水平社とは異なっていた。
1920年代、解平社というアイヌの組織があったが、活動実態は不明
そのほか、色々な組織があったことがわかっている。
1930年、旧土人保護法の改正を求めて、「アイヌ協会」が結成されるが、この組織には道庁社会課の役人喜多章明が関与していた。
アイヌ協会は、その母体となる旭明社の十勝アイヌが多く、メンバー構成に偏りがあったものの、それでも孤立していた各地のアイヌコミュニティを結び付けた。
指導者層は和人社会で成功したアイヌであったので、協会の方向性は「同化」であった。
ステレオタイプへの抵抗など、アイヌとしてのアイデンティティの確立も進み始めた
とはいえ、やはりアイヌの中のエリート層に限られ、アイヌ社会全体にどれだけ影響したかは不明。
アイヌ協会は、実質道庁の出先機関であり、またバチェラーの影響力もあり、保護法改正の検討は道庁ではすぐに始まる。ただ、東京での進展は遅く、1937年に改正された。
近文では、1932年に土地の貸付が満了した。ここで再び紛争が起きて、上京しての請願などが行われた。この中に、砂澤ビッキの父もいたらしい。
樺太でも、請願活動があり、日本国籍をもっていなかったアイヌに国籍が付与された。とはいえ、表面的なものにすぎなかった。
第六章 アイヌ解放と福祉植民地主義――新しいアイヌの政治と国家の反応
- アイヌ協会の再興
これは、少し興味深いこぼれ話という程度だが、GHQからアイヌ独立の提案があったらしい。とはいえ、アイヌ側は、これを断る。
農地改革が行われるが、アイヌは不在地主に相当し、土地を失うことになった。
1946年の総選挙に立候補したアイヌたちもいた
- 高度経済成長期におけるアイヌ
1962年に、日高でアイヌの社会経済状態に対する調査が実施されているが、アイヌの貧困や差別などが明らかになっている。その中で、アイヌ間での経済格差の拡大、そして、若いアイヌが、仕事のため、あるいはアイヌとしてのアイデンティティをなくすために、和人としてふるまい、都市(東京や大阪)へと移住していた
- 「人種」と戦後日本におけるアイヌ
戦後も日本は「単一民族国家」というイデオロギーをもち、また、海外植民地をなくしたことで、日本は公式に日本には原住民や同化した労働者はいないとILOに報告し、アイヌは「アイヌ系住民」として扱われた。
差別から逃れるためには「アイヌの血を薄くする」しかないと考えて、和人との間に私生児をつくるなどがあり、若いアイヌはアイヌ文化から距離をとった。
経済的な理由で「観光アイヌ」となった人々もいたが、これもステレオタイプを強化するものでしかない。「アイヌという全体は和人のイメージで作られていくばかりだ」(鳩沢佐美夫)
アイヌの間でもアイヌという言葉が嫌われ、アイヌ協会は、1961年に「ウタリ協会」に改称
- 新しいアイヌの政治と国家の反応
1960年代から若いアイヌが、ウタリ協会から独立した動きを見せるようになる
68年から70年にかけて、アイヌ問題にスポットをあてる話題があった
一つは、北海道開拓100年で、ここで北海道開拓という物語から、アイヌはほとんど排除されていた。アイヌからは、静内にシャクシャイン像を立てるというプロジェクトがあった
もう一つは、保護法改正の動きで、厚労省はこれを廃止し、同和対策法に取り込む提案があった。ウタリ協会はむしろ保護法存続を求めた。しかし、ほかのアイヌからはこの協会の姿勢は反発を受ける。
また、72年ころから、銅像爆破事件、観光会社への放火事件、白老町長暗殺未遂事件、道庁爆破事件などのテロが相次ぐ。これらは、アイヌ迫害への批判を動機としていたが、東アジア反日武装戦線など和人によるもので、アイヌは関与しておらず、当のアイヌにとってはいい迷惑でしかなかった。
アイヌ自身の活動としては、結城庄司による「糾弾闘争」があった。これは水平社が編み出した手法で、差別発言をした学者などに公開質問状をおくるなどするもの。また、テレビ局への抗議活動など
また、ほかに裁判での闘争もあった
1970年代には、北海道ウタリ福祉対策という、助成金、補助金等々の政策パッケージが策定された。本書ではこの対策は、「福祉植民地主義」における国家の典型的な反応と指摘されている。
これはアイヌ問題を福祉問題の中に組み込むことで、先住民族であることを隠ぺいする
この時期の政治家の発言がいくつか引用されているが、アイヌの民族性が否定されている。
第七章 自らのために歩み始める――アイヌの民族(ネーション)の出現
- アイヌの民族性(ネーションフッド)の奮起
アイヌの間に統一感がないため、1973年、砂澤ビッキらを中心に「全国アイヌを語る会」が企画される
結城庄司は、すぐに関係を断つことになるが、一時期太田竜*1と交流があったらしい。部落解放同盟との連帯など、結城は左翼活動家であったのに対し、ウタリ協会指導者層は自民党とのつながりが強い
そうした食い違いがある中で、それを埋めるのがアイヌのアイデンティティへのアピール
1972年「二風谷アイヌ文化資料館」会館。観光客のためではなくアイヌ自身のための、伝統衣装、口承文学、舞踊などのイベントが行われた
1974年、ノッカマップで処刑されたアイヌを供養するイチャルパ(供養式(本当は「ル」も小文字))が行われるようになる
多くのアイヌはノッカマップのことなど70年代まで知らなかったし、また、伝統志向のアイヌからはでたらめな儀式だとの批判もあったが、多くのアイヌが新しい伝統を支援した
シャクシャインやノッカマップの物語は、単純にアイヌの和人への抵抗というだけではなく(アイヌ同士の対立や和人への協力などもある)、複雑さがあるが、そうした複雑さが捨象されてしまうという問題もある
1973年、砂澤ビッキデザインで、アイヌの旗が初めて登場する
「アイヌモシリ」というのもこの時期にシンボルとなっていく。1930年代のアイヌ活動家には、この言葉はほとんど使われていない
結城は、ネイティブアメリカンから触発されて「母なる大地」という特徴づけをアイヌモシリに対して行っている
- アイヌ新法――新しいネーションのための新しい法律
先住民族としての権利を求める運動
- 結語――一九九〇年代におけるアイヌ
補 章 画期的な出来事か――一九九七年のアイヌ文化振興法とその影響
この本の原著が刊行されたのは1995年で、アイヌ文化振興法は1997年に成立した。
補章として、2002年に同法について書かれた論文が収録されている。
アイヌ文化振興法は成立当時「画期的」とされたが、実際はどうだったのか、ということが検討されている。
筆者の評価は、わりとネガティブなものである。
アイヌが先住民族であることを認めつつも、先住民族の定義は避けているし、先住民族であることによって生じる権利なども避けている。
そもそも成立過程において、有識者会議にアイヌは含まれていなかった。こうしたケースの場合、当事者は含まれないというのが政府の言い分だが、筆者は、日本政府も当事者だが、と批判している。
萱野茂が国会議員をしていた時期で、村山内閣の時に一気に話が進展した(成立は橋本内閣時)。ウタリ協会も萱野も、問題含みであることは理解していたが、この機を逃すと二度とアイヌ法のチャンスはないと考え、了承した(実際、萱野は自民党議員から、アイヌ側がいやだというならこの話はもうなしで、みたいなことを言われた、と)。
文化と政治をわけて、文化の話のみしている。
アイヌ側はもともと、アイヌの経済支援のためにアイヌが使える基金の設立を要望していたが、この法律のもとでの補助金はあくまで文化振興のためのものである。文化振興以外だと使えないし、逆に文化振興にかかわると和人でも申請ができる。研究者のための予算にしかなっていないという批判もある。
この法をもとに、補助金を管理する財団法人がつくられたが、ウタリ協会(アイヌ協会)がそうであるように、道庁の出先機関である。
また、ここでいう「文化」というのも厄介で、「伝統的な」文化に制限されてしまっている。観光アイヌの収入源にはなりえたが、現代のアイヌの非伝統的な文化活動には使えない。
予算の中で「アイヌ語」の占める割合が高いことが、そのことを示していると筆者は指摘している。つまり、現代のアイヌにとってもはやアイヌ語は使用言語ではなく、この補助金をもとに行われるアイヌ語講座の受講者のほとんどは和人である、と。
文化とそれ以外とに切り分けられてしまったので、社会福祉が必要な貧しいアイヌにとっては全く役に立たない法律となっている、と。
「非公式」なアイヌの文化活動として、OKI(加納沖)などが紹介されている。
自分にとって、中曽根の単一民族国家発言は歴史上の出来事だが、アイヌ文化振興法、萱野茂、横路道知事や堀道知事、あるいは、鈴木宗男や平沼赳夫の単一民族国家発言などは、多少、自分の記憶にある出来事・人名、あるいは自分の記憶と接続可能な出来事・人名で、とはいえ、まだ小学生とかの頃の話であり、「そうか、あの頃のことってこういうことだったのか」
あとがき
訳者解題 マーク・ウィンチェスター
本書は、差別の観点からアイヌ史を論述したものだが、その意義について解説している。
ウポポイオープンの際の荻生田発言や『ゴールデンカムイ』など、近年、差別以外の観点からアイヌを捉えようとする動きに対して、注意を促している(なお、『ゴールデンカムイ』内にアイヌ差別の描写があることはここでも確認はされている)。
本書では、アイヌが自らの民族としてのアイデンティティを成立させていく「創造性」が見出されている。
アイヌは、差別に対して単に受動的だったのではなく、能動的に反応・対応していたということをこそ本書は論じているのであり、ここで見出された「創造性」は、差別があったにもかかわらず発揮された、のではなく、差別があったからこそ発揮されたものなのだ、と。
*1:東アジア反日武装戦線に思想的影響を与え、アイヌ解放論を唱えたりしたが、のちに爬虫類人とか言い出す陰謀論者になった
