久永実木彦「わたしたちの怪獣」(『紙魚の手帖vol. 6 AUGUST 2022』)

先日、日本SF大賞候補作が下記の通り発表された。

樋口恭介(編)『異常論文』(早川書房
荒巻義雄『SFする思考 荒巻義雄評論集成』(小鳥遊書房)
小田雅久仁『残月記』(双葉社
小川哲『地図と拳』(集英社
久永実木彦「わたしたちの怪獣」(東京創元社紙魚の手帖 vol.6 AUGUST 2022」)

この中で「わたしたちの怪獣」は、SF大賞史上初、短編単独での候補作となった作品らしく、ちょっと話題になっていたので、読んでみた。
あと、東京創元社から『紙魚の手帖』なる雑誌が出てるの、知らなかった。
なお、本作が掲載されている号の特集は、翻訳ミステリとホラーで、特にSF特集だったわけではない。


主人公の「わたし」は高校生で、家族にも友人にも隠れて自動車の運転免許をこっそり取得する。
その日、家に帰ると妹のあゆむが父親を殺害し、東京には怪獣が上陸した。
「わたし」は、父親の遺体を怪獣の近くへと遺棄しにいくことにする。


怪獣まわりの描写や展開は、かなりシン・ゴジラ風である。千葉県(というか、作中では名前が違うがディズニーランド)から上陸し、西葛西を経由して東京都を北上していく。自衛隊は、荒川ついで隅田川をそれぞれ最終防衛ラインに設定するのだが、為す術もなく突破される。
このあたりの経過は、ニュース番組や自衛隊の報告書、首相会見、動画アプリでの配信番組の書き起こしといった形式で、作中に挿入されていく。
政府が怪獣と呼ばずに「巨大移動体」と呼称したり、怪獣の進行方向に皇居があったり、最終的に米軍の核兵器使用が検討されたりなど、色々とシン・ゴジラを連想させるシーンが多い。
とはいえ、本作のメインプロットは、そこにあるわけではない。
怪獣の都内侵攻を背景として、主人公の「わたし」のクライムロードムービー的な家族小説が展開される。
シン・ゴジラ的なのは、あえてそうしていて、そうすることで最小限の描写で読者にリアルな背景を想像させることに成功している。
一方で、シン・ゴジラは個人の物語を描かなかったが、こちらは「わたし」の一人称により、あくまでも個人の物語に寄り添っており、また、この「わたし」は部分的に信頼できない語り手であり、その点、小説だからこその怪獣作品になっている。


そういうわけで「わたし」関連のあらすじや設定だが
上述したとおり、運転免許を取得して家に帰ると父親が既に遺体となっており、妹のあゆむが殺していた。
事情は物語が進むに連れて次第に明かされていくのだが、端的に言ってしまうと、数年前に不祥事(SNS炎上)を起こした父親は、再就職に大変苦労した上で、その後、あゆむを虐待するようになっていた。母親は行方をくらまし、「わたし」もあゆむを気遣いつつも虐待を見て見ぬふりをしていた。
「わたし」にとって、あゆむが父親を殺してしまったのは意外ではなく、一方で、あゆむを連れて逃げ出すために運転免許を密かにとっていた。
だからこそ、「わたし」は父親の遺体を怪獣の近辺に捨てることで、証拠、というかあゆむの殺人自体をなかったことにしてしまうことを目論む。
「わたし」は、埼玉から(つまり怪獣とは逆方向から)1人カローラに乗って都内へ向かうのである。
車内でネット番組を聞きながら、警察の質問をかろうじてかわしながら、誰もいなくなったコンビニを彷徨いながら、夜明けに怪獣の姿を見つけながら、「わたし」は「わたしたちの怪獣」について語る。


先ほど、怪獣パートについてはシン・ゴジラを連想させると書いたが、当然、シン・ゴジラとは異なるところもある。
一つはその見た目である。まるで内臓を絡みつけたかのような見た目をしており、ネット上ではその見た目から「白腸(しろわた)」とあだ名される。さらには、触れたものを消滅させるシャボン玉のような球体を放つ。
ところで、こうした見た目や怪獣の上陸地、進路を「わたし」は、家族の思い出に結びつけていく。まだ、4人家族として幸福に過ごしていた頃、西葛西に住んでおり、かのテーマパークにも遊びに行っており、バルーンアート(内臓のような見た目は見ようによってはバルーンアートで作られたようにも見える)やシャボン玉も家族の思い出であり、怪獣は父親が不祥事を起こす前につとめていた勤務地を目指しているのだ、と。
つまり、父親が死んだ直後に現れたあの怪獣は、つまり父親に他ならない。あるいは、娘を虐待した父、その父を殺した妹、何よりそこに至る経緯を見て見ぬ振りし続けた自分……「わたしたち」の姿が怪獣として現れたのだ、と。
いよいよ怪獣を至近距離で目撃した「わたし」は、怪獣の眼が父親の眼と同じだと見て取る。


さて、凡百のSFであれば、まさに怪獣と父親を同一化させてしまったかもしれないが、本作はそうではない。
3年後のことがエピローグとして添えられている。「わたし」は、被災者支援の仕事をするようになっているが、もはやあの怪獣の眼が父親の眼だったようには思えない。
自分が免許をとって妹が父親を殺してしまった日に怪獣が現れたという偶然を、主人公は運命だと捉えて、怪獣と「わたしたち」を同一視したが、しかしやはり偶然であったに過ぎない。個人の事情を一方的に怪獣に投影していたわけだ。
だからこそ、怪獣の姿形や進路に自分たち家族の思い出を反映させていったくだりの彼女は
「信頼できない語り手」であり、また、だからこそ小説ならではの表現だったといえるだろう。そしてそれゆえに、怪獣という巨大な災害とある個人・ある家族との関係が見事に描かれたのだともいえる。
加えて、もう少し怪獣というジャンルからの話をすると、平成ゴジラ平成ガメラシリーズで見られた超能力少女の系譜のことも想起してしまう。
平成ゴジラ平成ガメラでは、ゴジラガメラと通じ合うことのできる超能力少女が登場していたが、しかし、彼女たちと怪獣たちとのつながりは、シリーズが続くにつれて一方的なものに変わっていったように記憶している(なにぶん随分昔に見たきりの話なので、このあたりは話半分で読んでもらえればと思う)。怪獣のことを理解したと思ったが、実際のところ、一方的な思い込みでしかなかったのかもしれないという点で、通じるものがあるように思った。
ところで、シン・ゴジラとの違いをもう一点挙げると、核兵器の使用が挙げられる。というか、シン・ゴジラは、核兵器を使わせないために巨災対が奮闘することが物語をドライブさせていたが、本作はそうではなく、むしろ物語を終わらせるためにあっさりと核兵器は使用されるに至る。ただ、このあっさりとした核兵器の使用は、しかし、2022年現在において決してご都合主義と言えるものではなく、ある種のリアリティを感じざるをえないわけで、そこにも「わたしたち」の怪獣性はあるのではないか。