プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』(関口英子訳)

1966年に刊行されたSF短編集、日本語訳は2008年。
レーヴィというと、アウシュビッツ体験について書いた作家でアガンベンが論じていたということしか知らなくて、このような作品を書いていることは全く知らなかったのだが、下記のモッタキさんのツイートで存在を知って読んでみた。

冒頭で「SF短編集」と断言してしまったが、レーヴィは普通SF作家には分類されていないと思われるし、版元もSFとは銘打ってはいない。しかし、巻末の解説でもSFというワードは使われていたし、まあSFと言ってしまって全く問題ないだろう。
奇想系の作品が多く、架空論文的な作品もいくつかある。SF的なガジェット(今でいうところの3Dプリンターっぽい装置とかVRのような装置とか、あるいは冷凍睡眠装置とか)が出てくる作品も結構ある。
営業マン・シンプソン氏シリーズなんかは、星新一っぽさがあるし、また、同じイタリア人作家ということでいえば、軽妙な語り口にはカルヴィーノっぽさもある。ちなみに、レーヴィが1919年生まれ、カルヴィーノが1923年生まれ、星新一が1926年生まれなので世代的にも近い。
今さりげなく「シンプソン氏シリーズ」と述べたが、収録作15篇のうち6篇は、シンプソン氏という営業マンが「私」のもとに謎の機械を売りに来るという形式で、連作短編となっている。
出てくる機械の様子(操作UI)とかは、さすがに50年以上前に書かれた作品なのでクラシカルな感じだが、機械の機能自体は、上に述べた通り、3Dプリンターっぽかったり、VRっぽかったりするので、今読んでも、というか今読むことでなお面白さのある作品になっているのではないか、という感じもする。


巻末解説や訳者あとがきによると、レーヴィは化学者として企業で働きながら執筆していた兼業作家(Wikipediaでも化学者・作家とある)(のちに専業作家になったようだが)で、本書にケンタウロスについての短編があるが、レーヴィ自身もケンタウロスに喩えられている。
アウシュビッツでの体験を書いたデビュー長編、終戦後収容所からイタリアまで歩いて帰った体験を書いた第二長編に続き、3番目の作品として書かれたのが本書らしい。前2作とは雰囲気が異なるので、当初は別名義で発表したとのこと。


特に面白かったなと思うのは、「ビテュニアの検閲制度」「天使の蝶」「低コストの秩序」「人間の友」「転換剤(ヴェルサミン)」「完全雇用」とかだろうか。

ビテュニアの検閲制度

ビテュニアでは検閲官がかかる職業病があることがわかり、検閲の需要に対して検閲官が不足する事態となった。
それに対して、検閲を行う機械を導入したが、これは婉曲表現を使われると見落としたり、逆に本来誤植でしかないものを告発したりするようなエラーがあった。
そして、導入されたのは何とニワトリだった

記憶喚起剤(ムネマゴギー)

とある村に赴任することになった若い医者が前任の老医師に会いにいくと、彼の密かな研究結果を披露されることになる。
それは、嗅覚に訴えることで特定の記憶を呼び起こすというもので

詩歌作成機

NATCA社のシンプソン氏初登場。戯曲形式で書かれている。
多くの仕事を受注している詩人のもとに、アメリカのOA機器メーカーNATCA社の営業マンであるシンプソンが、詩歌作成機を持ち込んでくる。
色々な条件を設定してやると、自動的に詩を出力するという機械。
見た目や操作方法などはいかにも前時代的な機械だが、機能自体は最近の自動生成AIさながらという感じ

天使の蝶

終戦後のベルリン、占領軍の軍人たちがある住宅へと踏み込む
そこには鳥類のような骨が残されていた
そこでは、レーブという研究者が実験を行っていた。
ヒトは実は幼形成熟であり、芋虫が蝶に変わるように、ヒトは最終形態へと変わりうるのだという理論を確かめる実験

《猛成苔(クラドニア・ラピダ)》

自動車に寄生する苔が現れたという架空論文だが、そこからさらに、自動車に性別があることが分かってという話に展開していく

低コストの秩序

シンプソン氏が「わたし」に、新商品であるミメーシンを持ってくる
完璧な複製機で、全く同じ書類を複製してくれる
わたしは、書類以外に様々なものを複製する実験を始めた。例えばダイヤモンド、そして食べ物や動物など。
しかし、材料にはいくつかの元素が含まれていないので、動物はうまく複製できないことが分かる。
わたしは、シンプソン氏に動物も複製できないものかと頼むが

人間の友

サナダムシの表皮のパターンが実は詩になっていた、というこれまた架空論文的な作品
雌雄同体としての性愛についての詩から、宿主である人間への敬愛と自らの罪を謳った詩まで
宿主であり、そのサナダムシを提供した人は読まずに捨てた。

《ミメーシン》の使用例

ミメーシンの使用と製造が禁じられる直前にそれを手に入れた男が、妻を複製する
なお、シンプソン氏は登場しない。

転換剤(ヴェルサミン)

わたしはかつて勤めていた研究所に久々に訪れる。そこで、かつての研究仲間のしていた研究とその最期の話を聞く
苦痛と快楽をいれかえてしまう薬のことを。

眠れる冷蔵庫の美女 --冬の物語--

2115年12月19日、テルル家では毎年恒例のパーティが開かれるところだった。
それは、1970年代に開発された冷凍睡眠技術で眠りについた女性パトリシアを解凍する日だった
戯曲形式で書かれている

美の尺度

「わたし」は海水浴場でシンプソン氏に出会う
シンプソン氏は、NATCA社の新製品、美の測定器カロス・メーターの試験をしていたのだった

ケンタウロス

ケンタウロスのトラーキとともに育った「僕」が、トラーキから聞いたことやトラーキとの生活について書き記したもの
三角関係もの

完全雇用

シンプソン氏の家に誘われて、彼の研究を教えてもらう。彼は、この研究をもとに会社と契約を結び、独立することを考えていた。
彼は、ミツバチの8の字ダンスを調べて、ハチとコミュニケーションをとることに成功し、その後、ハチやアリ、トンボとの協定を結び、彼らに労働をさせることに成功していた。

創世記 第六日

戯曲形式で、世界創造を行う担当官たちが、主から実施を急かされているヒトの企画についての会議を行っているという物語
ヒトは果たして魚類がいいのか爬虫類がいいのか鳥類がいいのかなどを、それぞれの専門から、勝手なアイデアを述べ合う。

退職扱い

トリノの展示会でシンプソン氏と出会う。彼は早期退職をしたという。その退職祝いとして会社から贈られたトレックなる機械について、見せてもらうことになる。
このトレックという機械、今風にいうならば、非侵襲型BMIによるVR体験装置とでもいうことになる。
例えば、あるスポーツ選手に収録装置をつけてもらって、試合を体験しているところを記録すると、単にそのスポーツを視聴覚的に体験できるだけでなく、実際にその選手が感じている感覚や感情なども含めて体験できる。しかも、体験中は、自分自身の記憶がリセットされるので、何度見ても飽きない。