『現代思想2021年12月号(特集=大森荘蔵)』

大森荘蔵の弟子筋にあたる人たち(前半に並んでいる人たち)は、大森との思い出を述べたのち、それぞれの大森論を展開している。
自分は大森荘蔵には全然触れていないのだが、野家、飯田、丹治、野矢という、現在における日本分析哲学のビッグネームが並んでおり、大森学派なるものがあったかどうかは分からないものの、日本分析哲学における大森の存在感の強さを改めて知った。


多分、年末頃に読んでいたのだが、途中で読むのが止まっていた
全部読んだら、ブログに書こうと思っていたのだが、止まったまま1ヶ月以上が過ぎようとしているので、とりあえず記録のため、記事だけ立ち上げておく。
そういえば、大森特集読み終わったらウィトゲンシュタイン特集買おうと思っていたので、まだ買ってなかったや……

未来の大森哲学――日本的なるものを超えて / 森岡正博+山口尚

東大在学中にまだ大森もいたものの理学部だったので直接教えは受けていない森岡と、さらに下の世代で大森とは直接の面識がない山口による対談。
なお、森岡は当時学生たちのあいだに、大森派か廣松派か、というような対立(?)があったらしいことを述べている。
主な話題としては、「見透かし線」「ロボットの意識とことだま論・ペルソナ論」「自由意志と重ね描き」「日本語で哲学すること」についてそれぞれ話している。

大森荘蔵先生がいらっしゃらなければ /  中村桂子

いきなり中村桂子で驚くのだが、生命誌ということを立ち上げようとしていた際に、大森の本を読んでいたらしい。何度かは会って話しもしているようだ。
特に『流れとよどみ』『知の構築とその呪縛』の2冊の本を挙げている。

移動祝祭日――斜交いからの大森荘蔵論 /  野家啓一

大森との思い出などをいくつか。「パリは移動祝祭日だ」ならぬ「大森は移動祝祭日だ」
大森論文ベストスリーというのを挙げている。

物と記号 /  飯田隆

森雅博から聞かされた大森のエピソードを冒頭に添えつつ、大森の知覚の哲学について、論じている。
大森が論じた物体の知覚論を、記号の知覚論へと拡張する試み

大森荘蔵の衝撃 /  丹治信春

大森にどのような衝撃をうけたのかについて(情熱や常識の突破の仕方など)
ダメットはよく笑う人だったが、大森は笑わない人だった(ただし、楽しそうではあった)というエピソードや立ち現れ一元論についてなど

大森哲学と後期ウィトゲンシュタイン /  野矢茂樹

大森とウィトゲンシュタインの哲学的姿勢の類似
「意味」や「意志」を放逐する点
哲学は事実記述的なものであり、経験を超えた何ものかを打ち立てないようにしている点
ある観点から見た事実の記述としての哲学

〈頑固〉の哲学 /  小林康夫

小林は、パリ留学を終えて東大に戻ってきた際に、大森の講義を少し受けた程度で、ここまで挙げてきた4名とは異なり、大森の教え子だったわけではない。
が、最近、フランスで日本哲学を紹介する文章を書くことになった際に、東大学派ないし駒場カルテットとして、大森をはじめとする4人の哲学者(他に廣松渉坂部恵、井上忠)について書いており、それの再掲を含む記事

日本(語)で哲学をするということ――大森荘蔵細野晴臣 /  青山拓

タイトルの通り、日本語で哲学をすることについて、大森と細野を比較している。
海外の哲学ないし音楽を参照しながらも、それを単に日本語に置き換えているというのではなく、自分の支配権を手放さないで哲学ないし音楽をしていることを指摘している。
また、大森が「声振り」という独特の概念を使ったことにも注目している。
最近、出口尚や森岡正博がJ-popならぬJ-哲学という話をしていて、これもJ-哲学の試みとして大森を位置づけるものだが、そもそもJ-哲学なる言葉を言い出したのが鬼界先生だったということを知って驚いた。

懐疑論・検証主義・独我論から独現論へ /  入不二基義

未読

大森荘蔵の何が画期的でしかし私はその何に不満を感じたか /  永井均

未読

大森荘蔵西田幾多郎――現在と身体をめぐって /  檜垣立哉

未読

言葉で世界を造形する――大森荘蔵の芸術哲学素描 /  安藤礼二

未読

昭和三二年の分析哲学――座談会「分析哲学をめぐって」を読む /  植村玄輝

1957年(昭和32年)、哲学会で発行している『哲学雑誌』に掲載された座談会について
当時の日本の哲学動向としては、伝統的な哲学史研究と現代哲学にまず分けられ、現代哲学においては、マルクス主義実存主義に次いで三番手の位置に分析哲学がいるというような状況だった、と
当時36歳だった大森が分析哲学の側に立ち、実存主義哲学者の原佑と対峙する、という恰好の座談会で、他に、司会役の山本信、中世哲学研究者で参加者の中で最年長47歳の松本正男、いずれも20代で若手分析哲学者の吉田夏彦、吉村融が参加している。
ここでは、この座談会の様子が細かく追われているが、結論だけまとめると、分析哲学者は明確・明晰な議論をするのだと主張しているけれども、少なくともこの座談会の中で一番明確な発言をしているのは実存主義哲学者の原であり、原からなされる質問に対して、大森らは最後までまともに答えられていないのだという。

線形時間なしにいかにして過去を語るか――大森荘蔵ベルクソン /  平井靖史

未読

「過去」はいかなる意味で存在するのか?――大森荘蔵ポール・リクールの交叉 / 山野弘樹

未読

大森荘蔵の時間概念とマンガ /  P・ボネールス(森岡正博訳)

森岡正博が『まんが 哲学入門』で展開した時間論と、大森の時間論とを比較している。
タイトルにあるマンガは、森岡の本を指していると思われ、マンガ論をしているわけではない(冒頭、多少なくはないが)
大森が「風呂敷」、森岡が「土俵」といった日本独自のものを喩えに使っている点を比較している。

大森哲学と社会秩序 /  桜井洋

未読

大森哲学と○○論という問い /  戸田剛文

バークリ研究者である戸田による、バークリと大森との比較。
冒頭と末尾しか読んでいないのだが、戸田は元々大森は特に読んでおらず、今回の依頼がきて急遽読んだということを冒頭で正直に(?)述べている。元々難解なイメージを持っていたが、実際に読んでみたらそんなことはなく(また犬好きなのだろう、というようなことも大森を気に入った理由になったらしい)、また、確かにバークリとの比較が可能だろうということで依頼を受けた、と。
で、末尾には、大森の著作を読んでいたら、巻末に同僚である青山拓央による解説があることに気づき、身近に大森哲学に詳しい人がいるのに依頼を受けてしまったことを後悔している、というオチがついていた

大森荘蔵主要著作ガイド /  山名諒

大森について全然読んでおらず、どういう本があるかもよく分かっていなかったので、このガイドで、前期・中期・後期などの概略がつかめて勉強になった。
前期の代表作は『言語・知覚・世界』(1971)その中でも「物と知覚」という論文が代表的
中期には『物と心』(1976)と『新視覚新論』(1982)がある。前者には「ことだま論」、後者には「過去透視と脳透視」「自由と「重ね書き」」があり、いわゆる「立ち現われ論」が展開されている、と
後期には『時間と自我』(1992)『時間と存在』(1994)『時は流れず』(1996)という三部作があり、時間論と多我問題が扱われている、と。