ある画像が何を描いているのか


山川さんの述べていることについて、概ね同意ではあるのだけれど、このツイートを見かけて思ったことをちょっと書いてみる。


ある画像が何を描いているのか、という時に3つくらいのレイヤーに分けられるのではないかな、と
「認識される内容」
「指示対象」
「その画像を用いて示そうとしている意味」

特にこの中で「内容」と「対象」の2つが、ある画像が描いているものが「何か」という時の「何」にあたる部分としての中核を占めていると思う。
そして、「内容」の方は、人間が備える視覚システムを用いることで認識されるもので、文化の違いなく分かるものであるのに対して、「対象」の方は、それなりに文化の拘束を受けるのではないのか、と。

追記(20191229)

obakeweb.hatenablog.com
今回の話は、この記事で、描写の哲学の中の「描写の構成:描写内容はどのような構成を持つのか?」として挙げられているトピックとおおむね重なっているかな、と思うのだけど
「その画像を用いて示そうとしている意味」というところはむしろ、「主張と倫理:画像を使って、なにかを主張する? 画像のわるさとは?」というトピックに関わる話かもしれん
(追記終わり)


例えば、トランプ大統領を描いた似顔絵で考えてみる。
内容は「前髪のなびいた金髪の白人男性」とでもなるだろう。そして、対象は「トランプ大統領」である。
この似顔絵が一体何を描いているのか、という問いに対して「前髪のなびいた金髪の白人男性だ」と答えるのは、間違ってはいないのだが、正解とも言えない。
トランプ大統領だ」と答えられない人は、この絵が何を描いているのかを分かっているとは言いがたいのではないだろうか。


また、このような例も考えられる。
イコノロジーに基づく画像、つまり、アトリビュート(持物)によって誰を描いているかが指定されているというあれである。例えば「葦の十字架」を持っていたら「洗礼者ヨハネ」である、というような。
「葦の十字架を持っている男性」という内容を持つ画像が、「洗礼者ヨハネ」を指示しているということになる。


「内容」は、標準的な人間が持っている視覚認知システム(目、視神経、脳など)が揃っていればおおよそ分かるだろうが、「対象」は、それだけでは分からない。
では、対象は一体どのようにして分かるのだろうか、というと、それはおそらく色々なルートがある。


この「内容」と「対象」の区別については、ロペスが描写についての諸説を、知覚的説明と記号的説明との2種類に大別したことを参照している。
ざっくりいうと、「画像aを見てAが知覚される時、画像aはAを描写している」というのが知覚的説明で、「画像aがAを指示している時、画像aはAを描写している」というのが記号的説明である。


そもそも「指示」というのは、典型的には言葉の意味作用として説明される。
例えば「dog」という単語は、犬と呼ばれるあの四つ足の動物を指示している、というように。
画像の記号的説明というのは、これと同様に、犬の画像は犬という動物を指示しているのであり、また、ある絵が犬を描写しているとは、そのある絵が犬を指示していることに他ならない、とする。
「dog」と犬という動物とのつながりは恣意的なものであり(別に「god」が犬を指示していもよかったはずである)、いわば約束事みたいなものである。
画像の記号的説明にもそういう側面はあるだろう。
イコノロジーアトリビュートの例は、記号的説明にそぐうような例かもしれない。


ただ、これは直観に反しているように思われるケースも多い。
dogが犬を意味していることは、英語を知らない人には分からないが、犬の絵が犬を描写していることは、犬の絵を見たことない人にも分かる。
画像の本性を、ある対象を指示する記号として考える立場は、そういう意味であまり人気がない。


ロペスは、知覚的説明と記号的説明をハイブリッドした説明を行っている。
ここでは詳しく触れないが、画像は知覚的な指示を行っているのだ、という説明をしている。
犬の絵は「毛が生えていて4本足で口吻部が伸びている動物」というような内容を持つが、そうした知覚的内容は、犬という対象が起源となっており、起源から情報が伝達されている。内容から起源が何か同定できるのならば、指示がなされているのだ、と。


「内容」と「対象」に似たような区別は、ナナイの三面性の議論にも見られる。
(そもそもナナイは知覚説の立場をとるので、彼が、指示という側面をどの程度念頭に置いているのかはちょっと自分には分からないが)。
彼は、画像に3つの側面があると考える。
すなわち、
A:画像の表面(二次元)
B:画像の表面を視覚的にエンコードした三次元的な対象
C:描かれた対象(三次元)
である。
Aはキャンバス上・画面上の色や線の配置のこと、そうした色や線の配置をもとに我々はBを見ている。
ここまで述べてきた言葉でいうとBは「内容」に当たるだろう。
ナナイによれば、Bは知覚されるものである。
対してCは、疑似知覚的なものであるとされる。
例として、ミック・ジャガーの似顔絵が挙げられている。Bは「唇が大きく描かれた白人男性」であり、Cが「ミック・ジャガー」となる。
ミック・ジャガーのことを知らなければCは分からないわけだが、ナナイは、この似顔絵がミック・ジャガーの絵だと分かるのは「判断」ではなくて、疑似とはいえ知覚的なプロセスだと考えているらしい(認知的侵入みたいなことが起きると考えているっぽい)。


また、ナナイは全ての画像がCを持つわけではないということも述べている。
指示対象を欠いているような画像というのは確かに考えられるだろう。


まとめるとこうなる。
あらゆる画像は「内容」を持つ。
「内容」は、標準的な視覚システムによって知覚することができる。
一方、画像は「対象」も持つ。
対象がなんであるか、内容から特定されることもあるし、
他の信念からの認知的侵入を受けて知覚されることもあるし、
あるいは、言語などの記号と同じような形で指示されている場合もある。
さらに、そもそも対象をもっていない画像もありうる。
信念からの認知的侵入や、記号的な指示などは、文化からの影響が十分に考えられるところである。


さらに「その画像を用いて示そうとしている意味」というものが考えられる。
画像は、なにがしかの目的に使用されており、その目的に応じて意味が生じる、ということである。
美術鑑賞を目的とした画像だけでなく、宗教・礼拝的な目的で描かれた画像もあれば、道路標識のように人々に注意を促すことを目的とした画像もある。


例えば、洞窟壁画にシカが描かれているとして、それがシカであることは、現代の我々にも分かるが、実際の狩猟を記録したものなのか、狩猟の成功を祈念して描かれたものなのかは分からない。もし、記録画なのだとすれば、実在したある個別のシカを対象として描いた絵だといえるし、祈願のための絵だとすれば、対象をもたない絵なのかもしれない。
他方で、シカの描かれた交通標識は、シカが飛び出してくる可能性を示し、運転者に注意を促すものである。標識を見る者に対しては、描かれた内容がシカであることが分かるだけでなく、その標識が注意を促していることを意味しているものだと分かることが求められる。


チャーチルブルドッグのように描いた絵というものがある。
この絵は、内容としては「禿頭の白人男性の顔をしたブルドック」ということになるが、対象は「チャーチル」であって「人面犬」ではない。
内容だけからだと、人面犬を指示対象としている絵だというふうに考えることができないわけではない。
が、この絵が風刺画を目的として描かれているということを踏まえれば、チャーチルを描いているのであって、人面犬を描いているわけではないということが分かるはずである。
その画像が何を目的としているのか、ということは、その画像の対象が一体何であるかを同定するのに、寄与することがあると考えられる。


ところで、ネルソン・グッドマンは、画像の描写というのの中核は指示にあると考えていたわけだが、指示だけで画像についての特徴が説明しきれないことにはおそらく気付いていて、「〇〇的絵」という謎の概念を作っている。
上の例でいうと、チャーチルブルドッグとして描いた絵は、チャーチルを指示している「(人面)ブルドッグ的絵」だということになる。
ブルドッグ的絵は、必ずしもブルドッグを描いているわけではなくて、ブルドッグ的絵というクラスに分類される絵のことである。
(そういう概念を使った説明することはできなくはないわけだが、どうにも不自然さの残る説明である感じがして、そういう意味で謎概念)


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