飛浩隆『零號琴』

なかなかとんでもなくも面白い作品だった。
惑星「美縟」において、500年ぶりに復活する楽器「美玉鐘」と楽曲「零號琴」にまつわる秘密を巡る物語


年末に読み終わっていたのだけど、ブログにまとめる時間がなく、ずるずるとこんなタイミングになってしまった。
なので、あらすじとかはもうまとめられないので、大雑把な感想だけ

零號琴

零號琴


スぺオペ的娯楽SFの軸と、アニメ・特撮パロディ的な軸と、飛浩隆的な感官に訴える濃い文体及びちょっとグロテスクな質感という軸とが、少しずつ絡まり合いながら転がりだして止まらない、そんな作品
話が進むにつれて、それらの加速度が増していくような感じだった。


まず、スぺオペ的娯楽SFの面というか、普通にここだけ取り出しても、すごく面白いのだが、
というか、そういう素材をゴロゴロと出しながらも、それをそのまま突き進めてくれないというか
やはり面白いのは、「美玉鐘」という楽器によってもたらされる音楽で、あまりにも莫大な音量で鳴らされているというのに無音という代物
音響彫刻と呼ばれており、それは、普通の音楽というのは時間的に向きがあるが、彫刻は時間的に向きがない(対称性がある)。
「美玉鐘」が作り出すのは、時間的に対称性のある音=音響彫刻、だというのである。
そして、この特性こそが、惑星「美縟」の過去に隠されていた、凄惨な悲劇を記録する媒体として機能していた。
とまあ、この設定だけで「芸術SF!!」という感じ


あと、SFとしては、失われた超古代文明が背景にある。人類が宇宙に進出しえたのはその遺物によるものだし、「美玉鐘」という楽器も遺物の1つ
「美玉鐘」は、音響彫刻という芸術作品を生むだけでなく、より直接的に、この失われたテクノロジーに関わってもいる。


アニメ・特撮パロディ的な軸
惑星「美縟」では、楽器「美玉鐘」の500年ぶりの復活を記念して、大假面劇が行われる
假面劇というのは、この星独特の演劇で、假面をかぶった観客みなが演者ともなるスペクタクルである。
500年記念での演目は、その中でも「無番」と呼ばれる古典が選ばれたのだが、脚本を担当することになった劇作家は、あろうことか、かつて全宇宙で好評を博した子供向け番組『仙女旋隊 あしたもフリギア!』とのマッシュアップとして書くのである。
フリギアというタイトルから、読者である我々は明らかにあのアニメを想像するわけだが、実はこれだけではない。
明示的に固有名詞が示されるものはないが、様々なマンガ・アニメ作品からの引用・パロディがちりばめられている。
例えば、非常に鼻の大きな男性の登場人物が出てくるのだが、その鼻の描写からは、手塚治虫作品の猿田博士ないしあの鼻の大きい男性キャラクターを想起してしまう。というか、主人公からして、ブラック・ジャック的なツギハギだし。
假面劇には怪獣*1が出てくるし、ナウシカ巨神兵のような兵器も登場する。また、フリギアも、その内容は、プリキュアだけでなくまどマギ的なところもあったりする。
とまあ、そのあたり、めくるめくイメージの奔流といった感じであるし、そのぶっこ抜き(?)方がすごい


さて、なんで『フリギア』なんだ? 『フリギア』って一体なんだということなんだけど、
これも、その劇作家による、フリギアに対する熱い想いから、というのがある。
あまりにも完璧な最終回。しかし、最終回によってとらわれてしまった主人公。
これをどうにかできないか、という二次創作的な欲望が描かれていくわけで、二次創作に関わる人は読むと絶対くるものがあるのではないかと思うのだけど、では、『零號琴』が二次創作についての物語なのかというと、それもまた違っていて、得体の知れなさがある。


一見、この作品は「廃園の天使」シリーズとはずいぶん違うように思われるのだが、フィクションに対するある種の批評的観点があること、そして、味覚や触覚の描写を伴う濃密な文体でグロテスクな物やシーンを描き出していく点や、凄惨な展開があることなんかは、やっぱり相通じるものがあるなあという感じがある。

*1:惑星「美縟」の假面劇では、怪獣として用いられる大道具が出てくるのだが、これの名前が牛頭で、これは作者自ら、ゴジラから取った名前だと述べている。 日本SF大賞2度受賞の作家が生み出した〝レイゴウキン〟とは 飛浩隆さん8千字インタビュー|好書好日