『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その5

70周年記念で、過去に『群像』に掲載された短編の傑作選が掲載されている号。
2年くらいかけて、いよいよ読み終わり
電子版で買っておいてよかった。移動時間中とかに、「あ、そういえば」という感じで読める。紙だとちょっと分厚すぎですから。といっても、電子版は一番最初の三島のが収録されていないが。

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1997年の笙野頼子「使い魔の日記」から2006年の古井由吉「白暗淵」までを読んだ。
それ以降の小川洋子から川上弘美までは既に以前読んだ。
上に読み終わり、と書いたが、評論はまだ読んでいない。


今回読んだところに限った話ではないが、病気や老い、死について書かれた作品もちょくちょくある。
自分が普段触れているフィクション作品は、小説だとSF、それ以外だとアニメが多く、そうなるどやはり若い人の話が多い。
私小説を普段全然読まないため、ということもあるが、わりと新鮮に感じられて面白い。
ドラマチックだったり、奇抜なアイデアだったり、実験的だったりといった意味での面白さがあるわけではないけれど、日々の出来事や思ったことなどを書き連ねているだけのようなものでも、割とするすると読み進めることがあって、なんとなく引き込まれるところがある。
年齢的に、まだ自分事として経験しているようなことではないけれど、全く別世界のことでもないような感覚。まだ実感がないので新鮮な気持ちで読めるが、おそらくもっと若い頃に読んでも、何か感じるものも少なかったような気がする。


群像 2016年 10 月号 [雑誌]

群像 2016年 10 月号 [雑誌]

〈座談会〉「群像70年の短篇名作を読む」辻原 登、三浦雅士、川村 湊、中条省平堀江敏幸


三島由紀夫「岬にての物語」(1946年11月号)
太宰 治「トカトントン」(1947年1月号)
原 民喜「鎮魂歌」(1949年8月号)
大岡昇平「ユー・アー・ヘヴィ」(1953年5月号)
安岡章太郎「悪い仲間」(1953年6月号)
庄野潤三プールサイド小景」(1954年12月号)
吉行淳之介「焔の中」(1955年4月号)
圓地文子「家のいのち」(1956年9月号)
室生犀星「火の魚」(1959年10月号)
島尾敏雄「離脱」(1960年4月号)
倉橋由美子「囚人」(1960年9月号)
正宗白鳥「リー兄さん」(1961年10月号)
佐多稲子「水」(1962年5月号)
森 茉莉「気違ひマリア」(1967年12月号)
深沢七郎「妖術的過去」(1968年3月号)
小沼 丹「懐中時計」(1968年6月号)
河野多惠子「骨の肉」(1969年3月号)
瀬戸内晴美「蘭を焼く」(1969年6月号)
三浦哲郎「拳銃」(1975年1月号)
吉村 昭「メロンと鳩」(1976年2月号)
富岡多恵子「立切れ」(1976年11月号)
林 京子「空罐」(1977年3月号)
藤枝静男「悲しいだけ」(1977年10月号)
小島信夫「返信」(1981年10月号)
大江健三郎「無垢の歌、経験の歌」(1982年7月号)
後藤明生「ピラミッドトーク」(1986年5月号)
大庭みな子「鮭苺の入江」(1986年10月号)
丸谷才一「樹影譚」(1987年4月号)
津島佑子「ジャッカ・ドフニ――夏の家」(1987年5月号)
色川武大「路上」(1987年6月号)
山田詠美「唇から蝶」(1993年1月号)
多和田葉子「ゴットハルト鉄道」(1995年11月号)
笙野頼子「使い魔の日記」(1997年1月号)
小川国夫「星月夜」(1998年1月号)
稲葉真弓「七千日」(1998年2月号)
保坂和志「生きる歓び」(1999年10月号)
辻原 登「父、断章」(2001年7月号)
黒井千次「丸の内」(2003年1月号)
村田喜代子「鯉浄土」(2005年6月号)
角田光代「ロック母」(2005年12月号)
古井由吉「白暗淵」(2006年9月号)
小川洋子「ひよこトラック」(2006年10月号)
竹西寛子五十鈴川の鴨」(2006年10月号)
堀江敏幸「方向指示」(2006年10月号)
町田 康 「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」(2006年10月号)
松浦寿輝「川」(2009年1月号)
本谷有希子「アウトサイド」(2012年3月号)
川上未映子「お花畑自身」(2012年4月号)
長野まゆみ「45°」(2012年5月号)
筒井康隆「大盗庶幾」(2012年12月号)
津村記久子「台所の停戦」(2012年12月号)
滝口悠生「かまち」(2013年4月号)
藤野可織アイデンティティ」(2013年8月号)
川上弘美「形見」(2014年2月号)


〈評論〉

「群像」70年の轍  清水良典
「群像」で辿る〈追悼〉の文学史  坪内祐三
名物コラム「侃侃諤諤」傑作選
〈創作合評〉奥泉 光+大澤信亮滝口悠生

笙野頼子「使い魔の日記」(1997年1月号)

一時的に使い魔にされてしまった人の話
使い魔というのが一体何なのか詳しい説明はなされていないが、突然命じられ、その命令に従わなければならず、使い魔をやっている期間は、自分の生活が一切できなくなる。
舞台は、それ以外は普通の現代日本っぽい。
使い魔というファンタジックな設定ながら、その内容は苦役としか言い様のないもので、その上、不条理感もある。

小川国夫「星月夜」(1998年1月号)

友人を自殺で亡くしたことを話す(主人公の)兄との会話を、主人公に対して話す先生の話

稲葉真弓「七千日」(1998年2月号)

老いた猫をつれて、旅に出る話
タイトルの7000日は、猫の年齢

保坂和志「生きる歓び」(1999年10月号)

2作続けて猫の話
道で伏せっていた子猫を拾う話
もう既に猫飼ってるからほんとは拾いたくないなー、周りで見てる他の人拾ってくれないかなーという駆け引きから、結局拾ってしまい、動物病院へ連れて行き、(他の猫に風邪が感染らないように)隔離部屋で飼い始めて、と続く。
タイトルは、その子猫がようやくものを少し食べたことを受けて、生きることそのものが歓び(ないし肯定的なもの)であるということから。
人間の心の中には複数の考えが走っていて、それらが論理的には両立しなさそうなんだけど、両立しているものだということを、あの文体で述べられていて、やっぱ面白いなあと思う。

辻原 登「父、断章」(2001年7月号)

父親についてのエピソードを綴ったもの
今まで自作の小説で、父親のことを元ネタにして書いていたものがあったけれど、改めて父親について書いてみるという趣旨
また、父親が亡くなった54歳という年齢を超えたから、という理由も書かれている。
ちなみに、辻原が作家デビューしたのが1985年、辻原の父親が亡くなったのは1971年らしい
父親は、元々教師で、そこから組合運動を経て、社会党から和歌山の県議員となった人物。
なお、辻原というペンネームは、父親のライバル政治家(同じ社会党で和歌山出身の国会議員)からとっている。
父親と家族で東京へ行った話(そして、その際、当時父の秘書をやっていた人物に金を持ち逃げされた話)と、家で引きこもりをしていた時に家の鍵を全てかけて父親をしめだし、包丁をもった父親に怒られた話

黒井千次「丸の内」(2003年1月号)

メガネの具合を見てもらうために、八重洲口へ向う主人公は、その日着ていたお気に入りのジャケットのポケットから、謎のメモを見つける。
電話番号とおぼしき数字が書かれているのだが、誰の番号なのか思い出せない。駅の公衆電話からかけてみると、謎の女が出てきて、一方的に新丸ビルで待ち合わせると言われる。

村田喜代子「鯉浄土」(2005年6月号)

動脈瘤になった夫に精をつけさせるために、鯉を買いにいって料理をする話
鯉は川魚料理屋さんに買いに行くとか、鯉は同量のゴボウと10時間くらい煮続けるとか、主人公も調べて知るのだが、こっちも知らなかったことなので、へーとなった。
「烈しい料理」っていう言い回し、ちょっと面白いなと思った。

角田光代「ロック母」(2005年12月号)

18歳の時、逃げるように飛び出した故郷の島に、妊娠を機に再び戻ってくる話。
舞台は、瀬戸内海のどこか。
帰ってきたら、母親が家事をしなくなっており、父親が仕事ででかけているあいだ、主人公が家に置いていったニルヴァーナなどのCDを爆音でかけながら、人形のための服を延々縫っている
10代の頃、田舎から逃避し都会を夢想するためにそれらの音楽を聴いていた自分と、今の母を重ね合わせつつも、一方で、自分と母の違いも感じさせる。

古井由吉「白暗淵」(2006年9月号)

空襲で母親が死に、親戚のもとで育てられることになった主人公の話。

〈座談会〉「群像70年の短篇名作を読む」辻原 登、三浦雅士、川村 湊、中条省平堀江敏幸

一通り読み終わったので、座談会を読む
「あーなるほど、そういうところに注目して読むのかー」と思ったりして、もっかい読み直したいと思ったり、自分としては面白いのではと思った作品が全然言及されてなかったり
「悪い仲間」「リー兄さん」「鮭苺の入江」が、わりと多勢から評価高かったような感じ。確かにどれも面白かったし、特に「悪い仲間」ね
最初に総評的な感じで、三浦から、戦後70年で日本文学には確実に蓄積があって、表現の幅が広がっていったのがわかるというようなことが言われる。で、基本的にその路線で話が進むけれど、辻原だけは、終始その見方には抵抗するって感じで、評論家vs小説家って感じがある。
辻原は、小説っていうのは小説家個人個人がそれぞれ試行錯誤しながら書いていっているものだから、文学史という流れの中で、よくなっていったとか悪くなったとかそういうことはないんではないか、と。上手い下手という意味では、いつの時代にも、上手い作品と下手な作品があるだけだ、と。
それ以外では、『群像』らしさというものがあるよねという話も。つまり、どちらかというと幻想的・虚構的な作品が多いのが特徴ではないか、と。
直接影響関係があるかどうかは別にして、倉橋「囚人」みたいな作品があるから、川上「形見」とかがあるのでは、と。
家とか、小動物とかをモチーフにした作品が多いとか、逆に、父親とか恋愛とかの作品があまりない、とか。
恋愛物として何があるかという話をしていた時に「丸の内」を挙げていて、「え、あれ恋愛物なんですか。じゃあ、主人公はあの女のこと知っていて知らないふりしてるんですか」とかいう会話が突然ポロっと出てきたりしたのが面白かった。