弱肉強食うんたら

弱者を抹殺する。不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂けれ... - Yahoo!知恵袋
2011年の知恵袋なのだけど、ここ数年の間、まとめサイト的なニュースサイト的なものに拾われて目にすることが、何度かあったので、気になっている。
「この回答が秀逸」というタイトルで紹介されていることが多いのだが、この回答はある意味で正しく、ある意味で間違っていると思う。

詳しい内容はリンク先で見てもらうとして、質問と該当の要約
質問:自然界は弱肉強食なのに、人間社会が税金などを使って弱者を生かしているのは何故か(優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理なのではないか/人権などの話はしないでほしい)
回答:(一)自然界は弱肉強食ではない(二)生物ごとに多様な生存戦略があり、人類の生存戦略は「社会性」である。すなわち、弱者を生かすことで次世代に生き残る数を増やすことである。(三)「優れた」遺伝子はない。障害を生じる遺伝子を残すことは多様性の保持であり、生存につながる。


これに対して、いくつかに分けて論じる必要があるかと思う。
(1)そもそも質問者は何を考えてんの?
(2)自然界は弱肉強食ではないということ
(3)事実と当為を区別すること
(4)社会福祉の正当化について
(5)歴史について
(6)生物学的事実と倫理の関係について


(1)そもそも質問者は何を考えてんの?
知恵袋という場所である以上、あまりできることはないのだけど、こういう質問って、できれば何故質問者がそのように考えるに至ったかのかを掘り下げないと、有効なコミュニケーションがとれないと思う。
厨二的逆張りの一種なのではないか、という気もしている。
基本的には、「弱者を税金で生かすこと」――といちいち書くのは長いので、以下、単に「社会福祉」と述べることにする。ここでの社会福祉は、弱者と思われる者(病者、障害者、老人、子ども等)を国家ないし集団で扶養すること、くらいの大雑把な意味で用いる。――を、質問者には納得してもらいたい、というのがまずある。
で、社会福祉とか何か気にくわねぇなあと思って、とりあえず理屈をつけてみたのか。
含むところはなく、文字通り、このような疑問をもつに至ったのか。
まあ、仮にどっちだったところで、自分が質問されてどう答えるかには大して違いはないのだけど、多分どこに力点を置くかが変わる。
できれば個人的には、理屈とかの前にそういうものなのだと納得いただいた上で、どういう理屈があるのか調べてもらって、その理屈を検討してみるみたいな段階を踏んでいただきたいと思っている。
まあこれは、質問者が若い人であることを前提にしてるけど。
その上で、この回答者はその意味でよい仕事をしたとは思っている。
「なんか納得いかねーなー」と思っているとおぼしき若者に対して、彼/彼女が納得しやすそうなストーリーを提供し、社会福祉についての反発を和らげるという意味において。
ただ、これをあんまり「秀逸だ!秀逸だ!」っていうのもどうなのかなーと思うわけです。

(2)自然界は弱肉強食ではないということ
これについて、回答者の回答は正しい。
適者生存についてのよくある誤解もおおむねその通り。
「強い」とか「優秀」とかも、環境に相対的なものだよ、というのも。
俗流進化論の誤解については『理不尽な進化』でも読んで、と

(3)事実と当為を区別すること
質問者の問いは、「自然界(または過去の人間社会)ではこうなっている、しかし(現在の)人間社会ではこうなっていない。これはおかしい」という構造になっている。
また、これに対して回答者の答えは「自然界はそうなっていない。だから、人間社会もそうなってはいない」という構造になっている。
質問者の間違いは2つあって、1つは前提となっている自然界についての事実が誤っているということ。これについては、回答者が正している通り。
しかしもう1つの誤りがあって、生物学的事実や過去の事実をもとに、現在の社会がどうあるべきかを導こうとしている点であり、この誤りを回答者も共有している。
仮に、自然や過去がどうあったとしても、国家や社会は社会福祉をするべきであるし、その「べき」の部分の正当化は、自然界がどうなっているかとか生物としての人間がどうなっているかとは別のレベルで行われるものである。
この点で回答者の回答は誤っているし、この回答を手放しで「秀逸」とは言えない。

人間の行為は、もちろん物理的なレベルでも制約されているし、生物学的なレベルでも制約されている。しかしそれだけではなく、規範のレベルでも制約されている。
例えば、私たちは光の速度で移動することはできないし(物理的制約)、(道具なしには)空を飛ぶこともできない(生物学的制約)。しかし、それだけではなく、免許なしに車を運転することもできない(規範的な制約)。
規範は、法的なものもあれば倫理的なものもある。法律で罰せられるからできない行為もあれば、法律的には問題ないが倫理に悖るのでできない行為もあるだろう(例えば友人を裏切るなど)。
もちろん、物理的・生物学的制約とは異なり、規範に対して従わないことももちろん可能である。規範を守るか否かは、行為主体の意志に任せられているところがある。だから、同じように「〜できる」「〜できない」と言っても、物理的・生物学的なそれと規範的なそれとでは意味合いが異なる(しかし、そうだとしても、このレベルについて「〜することができる/できない」ということ自体は正しくて、その点でやはり何らかの意味で行為はコントロールされている)。
つまり、人間の行為は、物理的・生物学的なレベルと規範的なレベルとの2つのレベルでその範囲が決められているということになる。
この2つのレベルは、どのようにして働いているかということが違う。前者は事実(「〜である」こと)として規定されているのに対して、後者は当為(「〜べきである」こと)として規定されている。
基本的に、この2つのレベルは隔たっているものであるというのが、近代以降の倫理学が前提している考えである。
この規範のレベルがあるのは、人間特有のことであると見なすことができる(人間以外の動物にも規範のレベルが全くないわけではないだろう。例えば、イヌは「待て」と言われれば待つことができる。ボスの指示には従うべきだから従っているのだろう。規範の存在自体が、進化の途上の中で生まれてきたと考えられるのであり、その意味で、規範の原始的なものが人間以外の生物種にも見られることはむしろ自然なことである。その意味で、規範の有無によってデジタルに人間とそれ以外の動物がきれいに切り分けられるわけではない。しかし、量的な話をすれば、人間とそれ以外の動物との違いは圧倒的なものであろう。近似的な話として、規範は人間に特有のものであると言ってもよいと考える)。
規範について、物理的事実や生物学的事実が全く無縁というわけではない。物理的に不可能なことを規範によって命じることはできないだろう。しかし、全般的には、この2つのレベルは独立していると考えた方がよい。
規範は人間特有のものであり、それがある理由や正当性は、人間社会の中に蓄積にあるのであり、生物学的事実は当面の間、無視してよい。


社会福祉のような行為(この場合、行為主体は個人ではなく集団であることが専らではあるが、やはり行為である)もまた、規範のレベルに属する。
これの正当性について、生物学的事実をもって判断するのは、当を得た議論ではない。
その点で、回答者は、質問者と同じ誤りに乗ってしまっている。
生物学的事実の認識についての誤りは、それはそれで正すべきではあるが、そのことがそのまま規範を正当化するわけでもない。


生物学的な生存戦略になっているから規範としても正当化される、という論理展開はそもそもおかしくて
例えば、人間の生存戦略としては、糖分や油分を摂れるときに摂れるだけ摂っておくというのがある。人間の味覚が、それらを好むのは、生存に必須だが自然界には少ないので、できるだけ摂取するようにさせるためだろう、と考えられる。
しかし、じゃあ21世紀の現在、甘い物や油っこいものを沢山食べるべきかといえば、決してそうではない。生物学的には正しいことかもしれないけど、規範的には全然正当化されない。
もちろんこれは、ここ数百年くらいの環境の変化が激しすぎて、自然淘汰が追いついていないだけであり、いずれ生存戦略としても、糖分や油分を摂りすぎないことが正しくなるのだ、と言えるのかもしれない。ただ、医療の進歩で生存率が高くなっていることを考えると、これらの形質が淘汰されるようにはなかなか思われない。
仮にそうだとしても、それは将来的にそうなるかもしれない程度の話で、現に生存戦略ではないのだから、現在ある規範を正当化しないだろう。


(4)社会福祉の正当化について
では、社会福祉はどのように正当化されるのか。
質問者は、「人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。」と書いているのだが、それは無理な話だ、と言わざるをえないと思う。
回答者は、この指定に従ったのかなと思うんだけど、この部分ばかりは、従ってはいけないところだと思う。
何故社会福祉は行われるのか。
あらゆる人間には基本的な人権があり、その中には生存権と呼ばれる権利があり、その権利に基づいて社会福祉は行われる。
「何だよ、そんな答えは求めてないんだよ」っていう声が質問者からは聞こえてきそうなんだが、少なくとも近代社会はそういうルールで動いているのだから、それはそうなんだとしか言いようがない。
逆に言えば、このルールを共有していない社会は必ずしも社会福祉をしていない だろう。
この基本的人権という規範が成立したから、社会福祉を行うべきだという規範も正当化されることになった。
でも、人権なんて近代ヨーロッパで作り出された概念であってそれに従うべき根拠なんてないじゃないか、という反論はありうる。
全くもってその通りで、まず第一に、人権は人工的概念であって、自然にあったものではない。進化の歴史を紐解いても、どこかで人権が自然的に発生してきたなんてものではない。
しかし、すでに言ったように、人間の行為というのは、物理的・生物学的な制約だけでなく規範という制約にも従うものであり、この規範というのは前者から半ば独立している。要するに、そもそも規範というのは人工物なのである。
人工的な概念だから間違っている・従わなくてもよい、自然なものだから正しい・従うのがよいというタイプの議論はよく見かけるけれど、典型的な誤りであって、自然か人工かと、正しい・正しくない、従う・従わないは相互に独立している。
このことは正直、自然界は弱肉強食であるかどうかということ以上に、汎用的に、様々な議論に適用可能な考え方なので、是非身に付けてほしいと思う。
ある種の自然崇拝的なエセ科学商法に対しては、この種の批判をぶつけるのはよく見かけるんだけど、結論(「人工的な食品は全て身体に悪い」など)が間違っているから、この論法が間違っていることが分かりやすくて受け取りやすいんだと思うんだけど、
今回の知恵袋の回答者のように、「人間は弱者を助け合って生きるものなのだ」というような結論としては正しい(なおかつ前提も正しい)と思われるものに対して使われていると、看過される場合が多いように思える。
似たようなものとしては、同性愛問題とか人種問題とかにも見られるんだけど、「同性愛は自然界にも見られるから人間の同性愛も認められるべきだ」とか「人種という概念は生物学的には誤りだから人種差別はするべきではない」とか、前提も結論も基本的に正しいので、看過されがちなんだけど、前提と結論が正しいからといって、その2つを直接結びつける論法まで正しいとは限らない。
先ほど、糖分や油分を食べることの例で見たように、同じ論法を使って、正しい前提から誤った結論を導き出すことも可能なので。


閑話休題
第二に、確かに人権は人工的な概念であり(このことを擬制と呼ぶことがある)、実はそれ以上の根拠はない。だから、天賦人権と言ったりする。天ないしキリスト教的な神が与えたものとされて、それで根拠を与えたことになっていたりするけれど、無根拠であることの裏返しである。だから、非キリスト教圏は人権に従う理由はないという話もあったりするわけだが、そもそも、キリスト教的な神が持ち出されているのだって無理矢理感あるのだし、キリスト教か否かはあまり関係ない。
人権自体は無根拠なのだが、それは、だから間違っているというよりは、それ以上遡ることができないルールの根源として設定されたもの、として理解する方が正しいのではないかと思う。
野球やサッカーなどを考えてみよう。「点を沢山入れた方が勝ち」というのが最も根本的なルールだろう。あとは、その点を入れるための手段について、できることやできないことが事細かに決められていると言える。さて、そもそも「点を沢山入れた方が勝ち」ってのはどうしてだ、と問うことに意味はあるだろうか。点を沢山入れた方が勝ちであることにそれ以上遡ることのできる根拠はなくて、ただそのように決められただけだ。
しかし、まずそのように決めなければ、野球やサッカーの試合をどのように行えばよいのか何も決まらない。
人権というのも、近代社会というものをどのように運営していくかにあたって、とりあえず決められた原点のようなものだ。
だから、社会福祉の存在理由や正当化について答えるにあたって、人権を避けて答えることはできない。

(5)歴史について
とはいえ、あまり人権の無根拠性ばかり強調しても、というところはある。
そうは言ったって、ゼロから突然人権があると宣言したところで、誰も従わないだろうし、なんでみんな、本来なら「ない」ものを「ある」と言っているのか、と。
これは、歴史的な蓄積によるものだ、ということになる。
正直、自分も人権の成立史なんてものを説明できるような知識はもっていないので、たぶんに概念的な話になってしまうのだけど、「今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。」という質問者の質問に対する、もっとも適切な答えは、おそらくここにあると思う。
ヨーロッパで作られた、というのが1つのポイントなのだけど、ヨーロッパっていうのは結局、人類社会の中でもめちゃくちゃ戦争してきた地域の1つで、それほど広くもない範囲の中に、様々な集団が存在している地域になっている。
国家や民族という意味でも多様であるし、階級という点でもある程度多様で、支配者−被支配者というだけでなく、聖職者、貴族、騎士、商人(ブルジョワ)、平民みたいな感じに分かれている。様々な集団の対立・抗争があって、そんな中で、解決方法が殺し合いばかりだとリスクに見合わないとこもあるしってんで、色々な利害調整のやり方を蓄積させていった世界だと思われる。
で、そういうやり方の1つとして生まれてきた便法の1つが人権なのではないかな、と思っている。
人権のもとになったのは、イギリスの財産権とフランスの自由権なんだろうけど、どちらも、大雑把に言えば、支配者と被支配者の対立があって、被支配者が支配者に対して叛旗を揺るがす革命があった。この時に、被支配者側が革命を正当化する理屈として作り上げた概念が、人権。
理屈の上では、人権があるから革命は正しい、ということになる(つまり人権が先)
ただ、じゃあなんで人権という概念が受け入れられ正しいものだと考えられるようになったのかといえば、革命が成功したから、ということはあると思う。
権利というのは力と結びついていないと意味がないわけで、もともと、土地の所有権なんかはその土地の支配者が持っているというか、その土地を支配する力を持っているから主張できるものだったわけだけど、いちいち殴り合って決めるのも大変だし、それで毎回解決できるわけもないしで、法的なものとして決められるようになっていった。そして、その際に仲裁・調停できる存在ってのは、さらに上位の力を持っている者じゃないとできなかった。これが一般的に国王と呼ばれる存在で、軍事的な実力に裏付けされて、強力な権利も持っていた。
それが長い間当然視されてきたけれど、時代が下るにつれて、ただ支配されるだけの者たちも力を手に入れるようになった。財力だったり団結力だったり知力だったり。それで、国王側もそれらを支配しつづけるだけの実力を有することができなくなっていった。それで、革命が成功したということはあるだろう。
ところで、先ほど、権利は力と結びついていないと意味がないと述べたけれど、その一方で、いちいち殴り合って決めるのも大変だとも述べた。いざという時には行使できる実力が必要だけど、いちいち実力行使するのはコストの無駄遣いになる。だから、実力を行使せずに実力を示すことができる何かが必要。そういう何かを権威と呼んだりする。
絶対王政の時代は、「王権神授説」という考えが、国王の権威を支えた。神によって選ばれたから、という理由。
これに対して、革命の時代以降は、人権がその地位についたとも言える。従来まで被支配者だった民衆が、国王を倒せるくらいの実力を身に付けて、様々な権利を持つことができるようになったわけだけど、それらの権利を行使するにあたっていちいち実力行使するわけにもいかないし、その時に「人権」という概念を作ることで、暴力というコスト高な手段を使わなくてもいい方法が編み出されたのだ、と。


ところで、質問者の、弱者はほっておけば死ぬのに何故わざわざ助けるんですか、みたいなニュアンスをもつ質問なわけだけれど、歴史的に見れば、長い間、確かに弱者はそのまま死ぬしかなかった。が、弱者の側からしてみれば、「はい、そうですか、じゃあ死にますね」とは言っていられなくて、むしろ「死んでたまるか、ふざけんな」ってことで、いわゆる「強者」との間に、度々抗争や対立が起きていたのだ、と。そうした中で「弱者」の側も、ただ座して死ぬだけの存在ではなくて、こっちにも生きる権利をよこせといえるだけの力を獲得してきたのだ、と。
過去において、そういう獲得にいたる争いがあったことを見落としている質問であると思う。
で、「人権」という概念の偉かったところは、「金持ちはみんな人権をもっている」とか「フランス人はみんな人権を持っている」とかではなくて、「人間は人間であるだけでみんな人権を持っている」というものとして作られたところで
このおかげで、どんどん拡大することができた。
いや、元々革命してた人たちは「人間はそりゃ当然金持ちのことだけでしょ」とか「人間というのはもちろんフランス人のことだけだ」とか「人間=男なのは常識」とか「人間とは健常者のことのみだ」とか思っていたかもしれない。でも、人権という概念の中に、そういう制限規定は幸か不幸か含まれていなかった。
貧乏人も外国人も女性も病者・障害者も人間であることには違いないわけで。
人権という概念は、もしかすると、ある時期のヨーロッパの特定の国で特定の争い事を解決するために作られた特殊な概念だったのかもしれない。ところが、「人間」という非常に幅広く適用可能な対象を有する概念だっただめに、どんどん広がっていったのではないだろうか。
「王権神授説」って適用の幅が狭くて、国王にしか使えないけれど、「人権」は人間であれば誰にだって適用できるから、応用の幅が広い広い。
この応用の幅の広さ、一般性の高さが、おそらく「人権」の正しさを支えているのだと思う。
人権は確かに無根拠な擬制でしかないのだけれど、しかし、一方で現代では多くの人が正しいと考えていて、実際に国際社会はそれに基づいて行動している。
それはやはり何かしら理由があるのだろう。
1つには、力を持った民衆と支配者との対立を調整するための装置として有効だったから。もう1つには、一般性の高い理論だったから。
一般性の高さ=正しさ、ではもちろんないのだけど、役に立つ度合いは高いくらいは言えるだろうなあ、と。
そういう意味で、人権概念自体が、ある意味では十分「理に適った」ものであると言えるのだと思っている。


社会福祉について、人権を経由せずに、理に適った説明をする理路もあると思う。
多分、統治のために都合がよい、というものもあったのではないか。
国民国家の成立に伴って、国家にとって国民というのは単に税金をおさめる存在というだけでなく、国力そのものとなった。そこで、それまではせいぜい税金支払い能力程度でしか管理していなかったのが、あらゆる点から管理するようになった。
で、フーコーとかが言っているのは、過去の国家は殺す権力だったけれど、現在の国家は生かす権力であると。殺すことで支配していたのが、生かすことで支配するように変わったのだと。
つまり、福祉というのは、生存権という人権を勝ち取った民衆が国家に対して行使しているのだけど、見方を変えると、国家による別種の支配なのではないか、という考え方がある。近代における統治技術の中では、そういうやり方が統治にとって効率がよかったのでは、という話。
このあたり、「お話」ってところもあって、歴史的にどこまで正しいのか(自分は)よく知らないのだけど。フーコー歴史観って実証史学系からは批判されているっぽいし。


(6)生物学的事実と倫理の関係について
事実と当為ないし規範は区別しましょう、というのが、主な主張なのだけど
本当に、生物学的事実と規範は独立しているの、というと、これは実際のところ、議論含みの話題だと思っている。
哲学の世界では「自然化」という流れがあって、これは、人間社会特有で自然界からは独立していると考えられていた領域のことも、実は自然界の中に位置づけることができるのではないか、という考え方を指す。
僕は先ほど「進化の歴史を紐解いても、どこかで人権が自然的に発生してきたなんてものではない。」と書いた。人権についてはこれは正しいと思うが、規範一般についてもこれは成り立つ主張と言えるのだろうか。
同じく僕は「規範の存在自体が、進化の途上の中で生まれてきたと考えられるのであり、その意味で、規範の原始的なものが人間以外の生物種にも見られることはむしろ自然なことである。」とも書いた。規範は、自然から全く独立なわけではなく、生物学的な説明や、ひいては正当化も可能なのではないか。
もうひとつ、この「自然化」とおそらく平行する流れとして「進化心理学」の台頭がある。
1970年代以降に発展した新しい学問分野で、人間の心について(生物学的な意味での)進化によって説明するというものだ。
例えば、倫理観や道徳観といった規範に属すると思われるものも、進化心理学によって説明されようとしている。
そして、回答者の回答は、進化心理学的な考え方と近いものだと言える。
利他的行為や互恵的行為は、別に近代社会でなくとても人間社会に広く見られるものであるし、利他的感情・道徳的感情も人間という種が有しているものだと言えそうである。これらについて、自然化された説明を与えることもできそうである。
そして、社会福祉を行うことを我々が受け入れているのは、まさに利他的行為や互恵的行為をする性向ないし利他的な感情が我々に備わっているからである、とも言えそうである。
科学の時代に生きる私たちは、こういう物語を好む傾向にある。
批判点は2つ
1つは、進化心理学が提供する説明が、科学的根拠のある説明というよりは「お話」になりがちという点である。物質的証拠が残りにくい「心」を扱っている以上難しいところではあるのだが、進化心理学のネックといえるところである。ただし、進化心理学という学問自体がトンデモというわけではなく、あくまでも、陥りがちなだけである。世の中には、進化心理学っぽい説明が溢れているのだが、それが単にそれっぽい「お話」になっていないかという点で注意が必要ということである。
回答者の回答について、個人的には、デマやトンデモであるとまでは言えないと思うが、しかし「お話」の域を出ていないのではという感じはしている(しかしこの批判は完全に自分にもブーメランしているのは言い添えておく)
2つめは、どのように成立したかの説明にはなったとしても、正当化にはなっていないのではないか、ということ。
糖分・油分摂りすぎてもいいか話と重なるのだけど、結局、どうしてそのようになったのか説明することはできたとしても、今、そうすべきなのかどうかということの答えには必ずしもならない。
人間という生物種には道徳的感情がおそらくあるのだが、では、その感情に従うことが道徳的であるということと言えるのだろうか。
人類は、規範に従う傾向があり、その傾向の基盤として進化的に獲得された感情が確かにあるのかもしれない。
しかし、そういう進化によって獲得された基盤があるから、規範にしたがうべきであると言えるかといえばそうではなく、それはまた別のやり方で正当化する方がよいように思える。
何故なら、他にも進化的に獲得された感情とか傾向性とかはたくさんあって、しかし、それらすべてについて従うのが正しいとは言い切れないからである。
ただ、道徳とその進化的基盤という問題にすぐに答えられるものではなくて、むしろ、今まさに研究の途上にあるところなのではないかと思う。
哲学や倫理学、という学問が一体どんな学問で、世の中に立つのかどうかよく分からないと思っている人は多いと思うけれど、例えば、上のような問題を研究している学問なのである(進化的基盤そのものは進化心理学の研究対象だが、その結果分かったことと、実際に道徳や倫理との関係を問うのは倫理学の仕事)。


もう少し、今回取り上げた質問と回答にそって考えると
回答者の人の答えって、「生存戦略として人は「社会性」を身に付けた」「ゆえに社会福祉生存戦略である」という理路だと思うのだけど
個人的には、前段はまあ多分正しいのだと思う。「社会性」というのを利他行為と読み返してもいいと思うんだけど、生物進化のプロセスの中で身に付けたものだと位置づけられるはず。
ただ、なんというか、いわゆる弱者(病者や障害者、老人ないし女性)を助けるようになったのって、それの副産物なんじゃないのかなあーという気はしている。
利他行為が推進されるようになれば、結果として、病者や障害者のことも助けるようになると思うんだけど、病者や障害者を助けることが、進化的に選択されたわけではないと思う。
ここで、回答者は、障害のある遺伝子も「保険」としてプールされているのだと述べているのだけど、ここはかなり怪しい話なのではないかと個人的に感じていて、もし仮に、障害のある遺伝子も含めてプールしておくことが進化的に役に立つのだとすると、もっと他の種でも見られていいはずだし、もっと別様の仕組みもどこかにありそう。
あと、自然淘汰って基本的には集団的かつ非常に漸進的な仕組みなんですが、生存に影響が出るような遺伝障害は、外れ値みたいなもので、あんまり即していないというか。
障害のある遺伝子が「保険」になるって、じゃあどう保険になるのかがよく分からないし、病者や老人については説明できなくなるので、あまり説得力がないと感じる。
あと、障害のある遺伝子が有利になる場合もありうるが、それは人間には不可知の領域と言ってるけど、これ、万一、ネガティブな方向で説明が可能になってしまった場合に、社会福祉をディフェンスできなくなってしまうので、やはり、生物学的事実を使って規範を正当化しようとすることのまずさが出ているところだと思う。
この論法がまずいの、たまたま、正しいと主張したい規範に沿う事実があったからよかったものの、しかし、その事実が実は誤りであることが分かったりした時に、規範も誤りということになってしまうのか、という問題点があると思う。
いや、結局、障害のある遺伝子が「保険」になる理論は誤った理論だということが判明した場合、障害者福祉をすべき理由もなくなります、という立場なのであれば、一貫しているとは思うけど、しかし、やはりそうじゃないのでは、と思う。