ジョン・ヴァーリィ『逆光の夏』

ジョン・ヴァーリィ『ブルー・シャンペン』 - logical cypher scapeに引き続きヴァーリィ
傑作短編集ということで、これまで読んだ奴が結構多かったので、とりあえず未読作品だけ
アンナ=ルイーゼ・バッハシリーズ1作と、どのシリーズにも属していない1作で、後者は特にSF要素は薄めなのだが、どちらも隔絶したコミュニティを描いた作品だった。

バービーはなぜ殺される

アンナ=ルイーゼ・バッハシリーズ
殺人事件が発生する。事件現場は監視カメラに撮影されており、犯人もしっかり映っていた。ところが、それが実は思いもがけない難事件だった。
犯人も被害者も統一教という、90年程の歴史をもつ新興宗教の信者。
問題は、彼らは整形手術によって、全く同じ外見になっていることである。性器も除去しており、彼らは他の人たちから「バービー」と呼称され、居留地の中で生活するよう行政と協定を結んでいる。
バービーたちは、個性をできる限りなくし、一人称単数形を使うことを極端に忌避する。仕事もできる限り規格化し、住む家も固定化せず、個々の経験ができる限り一様化するよう努めている。行政的な都合で、個体番号は付与されているが、基本的にバービー同士では自分とそれ以外を区別しない。
バッハは捜査のため、バービー居留区へ訪れるが、早速自首してくる者が現れるも、それは実際に手を下した者ではないし、目撃者を集めても、実際にその場にいなかった者がテキトーに集められたりする(彼らは夜になると互いの経験を共有する会合をもつので、現場にいたものもいなかったものも全く同じことを話す)。
しまいには、目の前で殺人事件が起きるも、犯人ではないものを間違って捕まえてしまう。
しかし、バッハは潜入捜査の末、バービーたちの中に、個性フェチの集団ができていて、彼らが被害に遭っていることを探り当てていく。

残像

こちらは、80年代のアメリカを舞台に、ある中年男性が視聴覚障害者だけで成り立つコミューンで生活する話。
80年代のアメリカといっても現実のアメリカではなくて、シカゴで原発事故があって、汚染除去後もその土地が忌避されていたり、相次ぐ不況が定期的にアメリカを襲っていたりして、中西部に様々なコミューンが林立している。
主人公は、カリフォルニアへ一人旅をしながら、様々なコミューンで生活するが、どこにも馴染めぬまま、とあるコミューンへとたどり着く。
かつて、麻疹の流行によって、とある世代に視聴覚障害の子どもがたくさん生まれた。彼らの中の一部が、彼らだけのコミューンを巧みに作り上げていた。
最初はある種の好奇心から、そして次第に、そのコミューンにユートピア的なものを見出していくものの、最終的に、決してその一員になることはできないという結論(オチはちょっと違うのだが)へと至っていく話
あからさまSF的ガジェットの出てくる作品ではないが、一種の、言語SF・人類学SFのように読むことができると思う。
主人公が、彼らの言語を少しずつ身につけていく過程が主に描かれていくのだが、目も見えず耳も聞こえない彼らは、触覚を用いてコミュニケーションをとっている。
いわゆる指文字もあるのだが、それ以上に、手で身体の様々な箇所に触れあうことで会話をしている。彼らの言語体系には何段階もあって、独自のコミュニケーション体系を作り上げている。
いわゆる健常者の言語とは根本的に違うことが示唆されているが、例えば、(作中では言及されていないが)実際にも、手話というのはかなり独特な言語らしい。手話は、いわゆる健常者が使う日本語や英語を翻訳したもの、ではないらしい。音声言語は同時に1つの単語しか発することができないが、手話はそうではないので、構造(?)がそもそも違う。
このコミューンで使われている言語の違いは、おそらくそれとは比べものにならないのだろう。
例えば、人の名前として特定の名前がない、とか。名前を呼ぶ者と呼ばれる者とのあいだの関係に応じて、動的に変わっていくので、ある人の名前が何百通りもあるなど。
このコミューンでは既に、子ども世代が生まれており、この世代は目も見えるし、耳も聞こえる。基本的に自給自足の生活を送っているとはいえ、外との交流を完全に絶っているわけではないので、彼らは普通の言葉を話すことができる。主人公は、そうした子ども世代の中の一人であるピンクという少女に通訳をしてもらいながら、次第にコミューンでの生活に慣れ親しんでいく。
主人公は、ピンクら子ども世代は、目も見えて耳も聞こえながらも、上の世代により、その優位性を生かすことができない状況を憎んでいるのではないかと間違った推察をしていたのだが、目も見えて耳も聞こえるがゆえに、彼らの真に親密な人間関係のネットワークや彼らの感じている世界を知ることができないことに疎外感を覚えているのに気付く。