的川泰宣『月をめざした二人の科学者』

フォン・ブラウンコロリョフの伝記
稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』 - logical cypher scape2を読んだ勢いついでに、宇宙開発史についての本もちょっと読んでおこうかと。
フォン・ブラウンはまあ知ってるとして、コロリョフの方は最近になって初めて名前を知ったくらいだったので……。
コロリョフについては
【第9回】〈一千億分の八〉スプートニクは歌う 〜フォン・ブラウンが戦ったもうひとつの「冷戦」
この連載はこの回以外も面白い。
また、宇宙開発史については、以前佐藤靖『NASA――宇宙開発の60年』 - logical cypher scape2を読んだくらい。


どちらも少年時代からロケットに憧れ、米ソの宇宙開発競争を牽引していくわけだが、長きにわたってその夢を持ち続ける粘り強さと実行力・調整力がすごい。
かたやスプートニク、かたやアポロを成功させたライバル同士だが、直接相まみえたことはない。
フォン・ブラウンナチス政権下でロケット研究を進め、コロリョフスターリン時代に強制労働を経験しと、どちらも権力に翻弄されながらも、宇宙旅行を実現させることを決して諦めなかった。
また、フォン・ブラウンは、ロケット研究のための予算を獲得するためには軍と近づかないとダメだと判断し、その中で自分のチームを維持し、さらにそれをそのままアメリカまで持ってきて、アメリカの3軍の足並みが揃わない中で、自分の出番をずっと待ちながら準備を整えていたとか、
コロリョフの場合は、戦後すぐの困窮が続く中、チームメンバーからの相談を全部受けて奔走していたとか、フルシチョフの無茶振りに応えたりしていたとか、
個人として技術などの天才だったというよりは、様々な権力の思惑がある中でも自分の夢を実現するためのチームを維持し続けた力がすごいんじゃないか、と。
「夢を諦めない」ってのも、彼1人が諦めないんじゃなくて、他のメンバーにも諦めさせない、という面もあるわけで。


1950年代後半から1960年代は、今からは全く想像も付かない程、熾烈な宇宙開発競争が繰り広げられていたのだな、と改めて思った。
フォン・ブラウンコロリョフに限って言っても、
戦中は、ナチス政権下でV-2ミサイル開発に携わり着実に技術力を高めたフォン・ブラウンに対して、強制労働させられて足踏み状態だったコロリョフ
戦後は、アメリカの3軍の足並みが揃わずうまく進められないフォン・ブラウンに対して、人類初の人工衛星と有人宇宙飛行で先行するコロリョフ
とデッドヒートが行われている。
が、月への有人飛行についていえば、おそらく、当時の情報公開状況であれば、引き続き米ソのデッドヒートが行われていた感じなのだろうけど、ソ連の内情を知ると、表向きは抜きつ抜かれつに見せつつも、実際には、着実にその差が広がっていって、アポロの成功に結びついたという感じがする。
この本はフォン・ブラウンコロリョフの伝記なので、アポロ計画とともに宇宙開発自体が急速にしぼんでいくところで終わり、米ソの競争もアメリカの勝利で終わった感じだが、とはいえ、宇宙ステーションミールや、ソユーズ宇宙船を長期で運用した(している)点は、ソ連・ロシアが、腐っても宇宙大国であるということだよなあとも思う。


人類初の人工衛星も有人宇宙飛行もソ連が先行したわけだけど、全般的には、コロリョフフォン・ブラウンよりも辛そうな生涯を送ったんだなという感じがする。子ども時代もわりと不遇だし、青年期には強制労働させられてるし、壮年期も政治に翻弄させられっぱなしだし。フォン・ブラウンフォン・ブラウンで不遇の時期はあるけど。
コロリョフは59歳、フォン・ブラウンは65歳と早くに亡くなっているのだけど、その中であれだけの実績を残しているので、濃密な人生ではあったのだろうなと思う。


第1章 生い立ち
第2章 粛清とファシズム
第3章 V‐2からの出発
第4章 人工の星をめざして
第5章 有人飛行への先陣
第6章 月への助走
第7章 ジェミニ計画コロリョフの死
第8章 月着陸とフォン・ブラウンの死

第1章 生い立ち

コロリョフは、1907年にウクライナキエフ近郊に生まれ、幼いころに飛行機を見て飛行機に憧れるようになる。全然関係はないんだけど、ウクライナと飛行機で、佐藤亜紀ミノタウロス』をちょっと思い出したりした。
フォン・ブラウンは、1912年に古くからの家柄である男爵の家系に生まれる。兄弟と一緒にロケットを作っていたずらをしていた子供時代。1920年代にドイツにはロケット・ブームがきていて、オーベルトらによってドイツ宇宙旅行協会というのが結成されている。
1930年代初頭に、フォン・ブラウンはドイツ宇宙旅行協会で、コロリョフはモスクワのロケット・グループでそれぞれロケット実験を成功させている。

第2章 粛清とファシズム

1932年、19歳のフォン・ブラウンはタクシー運転手をしていた時に、偶然乗り合わせたドイツの陸軍の要人と出会って、陸軍からのロケット開発協力依頼を受ける。
この時期、ドイツ宇宙旅行協会はみな食べることにも困る時代で会員も減少し、フォン・ブラウンは危機感を抱いており、他の会員の反対を振り切って、陸軍に協力することになる(後、フォン・ブラウンの元に宇宙旅行協会のメンバーが集まるが、実際に陸軍所属となったのはフォン・ブラウン1人だけだったとか)。
バルト海に浮かぶ島の漁村ベーネミュンデに、ロケット研究開発基地が作られる
1942年、ジャイロスコープと電子回路による誘導システムを搭載したA-4ロケットのテストが始まる。A-4成功以後は、ヒトラーやSSがロケットに興味をもちはじめヒムラーから直々に陸軍からSS直属にならないかと誘われるが、フォン・ブラウンはこれを断っている(そのため、一時的に逮捕されるが陸軍の尽力で釈放される)
1944年、A-4はついにV-2ミサイルとなって1万人以上の死者を出している。
一方、フォン・ブラウンは1944年頃から「戦後」のために動き始める。ドイツ敗戦時、SSからの監視をかいくぐり、チームメンバー、家族、文書を守りながら、南へと移動し、連合軍(アメリカ)へと投降している。ソ連による占領をギリギリで回避しての逃避行。
一方、コロリョフは1938年に逮捕され、1944年まで、刑務所で強制労働させられている。
1945年、占領下のベーネミュンデへといっている。

第3章 V‐2からの出発

フォン・ブラウンたちはアメリカへ渡ったが、当時のアメリカ議会はロケット開発にはそこまで意欲的ではなく、またフォン・ブラウンは、ドイツの強制労働について批判の矢面に立たされる。フォン・ブラウンは強制労働の実態は知らなかったと述べている。
1946年、V-2をアメリカで打ち上げて観測機器などを打ち上げている。
そのような中でフォン・ブラウンは結婚し、また彼らにアメリカ市民権も与えられるようになる。フォン・ブラウンはこの時期に人工衛星や宇宙ステーションの構想などを出していたらしいが、実際には陸軍からミサイルを開発するよう言われ、ハンツヴィルでレッドストーンミサイル開発を行う。ハンツヴィルでようやく、フォン・ブラウンチームは、アメリカ人と同様な自由な暮らしを送ることができるようになった。
一方、ソ連には、ドイツ人技術者が連れてこられていた。当時、ドイツもソ連も食べるのにやっとの時代で、ドイツ人技術者たちには破格の待遇が与えられ、V-2のコピーが作られた。
コロリョフはロケット開発とあわせて労働者の住宅や医薬品の斡旋などの仕事も行った。一方、当時彼は英語通訳の女性と不倫して、妻と離婚し、不倫相手と再婚する。
コロリョフは、V-2をコピーしたR-1以後、R-2、R-3、R-5とプロジェクトを進め、フォン・ブラウンは陸軍のもと、ジュピター計画を進め、それぞれ人工衛星を軌道へと乗せることを目指していた。

第4章 人工の星をめざして

1954年、アメリカで「オービター計画」が誕生する。人工衛星を打ち上げる計画だが、陸軍のジュピターC、海軍のヴァンガード、空軍のアトラスがそれぞれ意欲を示し、有識者委員会はヴァンガードで計画を進めることを決めた。
ここからがフォン・ブラウンのすごいところで、これに落胆するどころか、表向きはミサイル開発をすすめつつ、海軍に失敗したらすぐにでもジュピターCで打ち上げができるように準備を進めている。そのために、燃料の長期的な劣化をみる実験と称してロケットを保管し温存させてたりしている。
ソ連ソ連の方で順調だったわけでもなく、首脳部はあまり非軍事宇宙開発には興味がなくて、コロリョフはそんな首脳部を「恫喝」する形で衛星計画を進める。
軍事が宇宙開発を進めたと思っていたけれど、軍部が(予算の取り合いという面で)宇宙開発を邪魔に思っていたりもしていたみたいで、なかなか単純な話じゃないなと思った。
このころに、バイコヌールに宇宙基地を作っている。
コロリョフは、開発中の衛星を特別なスタンドの上に置き、ぴかぴかに磨き上げることで、スタッフにこれが「特別な物体」であることを印象付ける。
フォン・ブラウンは、ソ連がすぐにでも人工衛星を打ち上げられる状況になりつつあることがわかっていが、上層部にその焦りは共有されないまま。
アイゼンハワー政権は、1958年=地球観測年のうちに衛星を打ち上げると発表していたが、ソ連は1957年10月にスプートニク1号の打ち上げに成功する。
この知らせを受けたとき、フォン・ブラウンは「レッドストーンを使えば2年前に同じことができたのだ」と居合わせた陸軍高官に言ったらしい。「60日あれば追いつける」とも言ったらしく、このときのフォン・ブラウンの内心は一体どんなものだったのか……。
スプートニクの打ち上げは、西欧で大々的なニュースになるが、肝心のソ連では打ち上げの日には小さなニュースでしかなく、西欧のマスコミが大騒動になっているのを見て、慌てて翌日に一面トップにしたらしい。
で、フルシチョフが、1か月後の革命記念日までにまたなんか目立つことやってくれと無茶難題をふっかけてきて、それで打ち上げられたのが、犬のライカだったと。
アメリカは、海軍のヴァンガードロケットが失敗し、フォン・ブラウンの陸軍とJPLの合同チームに順番が回ってきて、1958年1月、ジュノー1でエクスプローラー1号の打ち上げに成功。


ここから、米ソの宇宙開発競争が始まっていくのだけど
アメリカは、複数の企業が衛星なりミサイルなりを作っていったのに対して、ソ連は、コロリョフの設計局があらゆるジャンルを一手に引き受けていて、この状況を筆者は「強者と弱者の闘い」と述べている。
惑星探査もスパイ衛星も実用衛星も有人ロケットも全部、コロリョフが手がけていたらしい。
一方、フォン・ブラウンはサターン?ロケットの開発に注力できた、と。

第5章 有人飛行への先陣

アメリカはNASAを設立。初代長官グレナンはNASAへの支持を拡大させ予算を増大させる。
フォン・ブラウン率いる陸軍弾道ミサイル局は、有人飛行の計画を立てるも、ホワイトハウスや科学者たちからは反対される(科学者の反対はやはり予算のとりあいのため)。そんな中、NASAのグレナンはフォン・ブラウンの獲得を目指す。
ここでも、必ずしも軍と宇宙開発というのは必ずしも友好的な関係ではなかったのだなと思わせる。というのも、陸軍はフォン・ブラウンのチームが金食い虫なので追い出したがっていたらしい。ここで逆にフォン・ブラウンのチームがほしいNASAと思惑が一致したようだ。
フォン・ブラウンのチームは、働く場所としてはハンツヴィルのまま、メンバーも同じメンバーのまま、所属だけが陸軍弾道ミサイル局からNASAのマーシャル宇宙飛行センターへと変わった。


アメリカとソ連との宇宙飛行士の考え方の違いというのがあって、
アメリカの場合は宇宙飛行士自身が操縦することもあって、ベテランのパイロットが選ばれたのに対して、ソ連の場合は操縦は自動システムに依存し、宇宙飛行士にはむしろ健康面で万全であることが重視され、若いパイロットが選ばれた。
この違いから、アメリカでは打ち上げの4か月前には指名されていたのに、ソ連はたった4日前に指名された。
コロリョフが、候補者を集めた会合で最初にあった時に、ガガーリンに決めていたらしい。その時にコロリョフガガーリンをじっと見つみていたことを、最初の宇宙遊泳を行うことになるレオーノフが、のちに語っている。
ガガーリンの初飛行、実は全部が順調だったわけではなくて、危機的状況に陥っていたらしいが、ガガーリンがめちゃくちゃ冷静で、事態を驚くほど正確に把握していたみたいだけど、緊急事態だとは判断しなかったとか。
しかも、カプセルのまま着地したのではなくて、カプセルから途中で射出されてパラシュートで降りてきてる。
ガガーリンが戻ってきたあと、ガガーリンは一躍英雄になるが、コロリョフはほとんど目立った場所に立てず「無名」技術者扱いだったらしい

第6章 月への助走

コロリョフは1958年に、今後10年間の計画を述べていて、その中には
月面探査、惑星探査、宇宙ステーション、月への有人飛行のためのイオンエンジン宇宙船があげられ、さらにその先の火星・金星への有人飛行、月面コロニーにまで触れていたらしい。
コロリョフは、単にアメリカと戦うだけでなく、まず政府の無理解、宇宙開発を軍事に対する脅威とすらとらえる軍部、さらにはコロリョフとは違う計画を立てて足を引っ張るライバルたちとも戦わなければならなかった。
NASAは順調に大衆の支持を獲得し、着々と開発を進め、結局、ソ連政府はアメリカの動きを見て慌てて宇宙開発を進めるという状況だったようだ。
1960年、ソ連でN-1ロケット構想が動き出すのだけど、これも、NASAの月へ行くことだけを目的としたサターンと違って、コロリョフが政治的に配慮して「多角的利用」なロケットとして計画しなければならなかった。
また、結論からいうと、N-1はコロリョフの生前には結局完成せず、その後も打ち上げは結局失敗続けのまま終わってしまう。
アメリカは、アラン・シェパードの弾道飛行、ジョン・グレンの軌道飛行とマーキュリー計画を成功させ、アポロ計画のために着実に進んでいく。
どうやって月へ行くか3つの方式があって、どれにするか対立があるのだけど、最終的にフォン・ブラウンが「妥協」して、月軌道ランデブー方式で行くことに決まる。
このあたりは【第11回】〈一千億分の八〉月軌道ランデブー:無名技術者が編み出した「月への行き方」が詳しい
そのための、ランデブーやドッキングの技術を生み出すためにジェミニ計画が進められていく。
この後、コロリョフはかなり政治に翻弄されていく感じで
コロリョフも、月有人飛行のために、複数人で乗れるソユーズの計画を進めていくのだけど
ソ連が基本的に極秘で進めていくのにたいして、アメリカは計画を公開していて、2人乗りのジェミニが計画されていることが知られていた。
そのため、フルシチョフが、アメリカが2人乗りなら、その前にうちは3人乗りを飛ばせとせっついてくる。
それで、3人乗りのヴォスホートが打ち上げられるのだけど、これは新型ではなく、ヴォストークを無理やり改造しただけの代物。(狭いから)宇宙服なし、脱出装置なしというとんでもなさ。医者と科学者を乗せて、宇宙実験室を名乗ったけど、実は彼らは何もしてない(狭くて何もできない)。
ただ、アメリカより先に複数人で乗れる宇宙船を作ったと大体的に宣伝はされた。
それから、宇宙遊泳についても、アメリカより先にやれと言われて、宇宙服のテストが不十分なままで行っている。レオーノフの宇宙服が膨張てしまって危うく宇宙船に戻れないところだった。

第7章 ジェミニ計画コロリョフの死

ジェミニ3号に乗り込んだグリソムとヤングの、コンビーフ・サンドウィッチのいたずらのエピソードは、『宇宙兄弟』とかでいかにもありそうw


アメリカのジェミニ計画は順調に推移し、コロリョフを焦らせたが、ライバルの存在、多忙さ、病気、疲労などで、順調には進まない。
1966年1月、直腸のポリープ手術を受けることになったが、出血が止まらず、コロリョフは59歳で亡くなった。
心臓が弱くなっていたことのほか、コロリョフ強制収容所時代に、尋問で顎を砕かれておりチューブを挿管することができなかったなど、手術に際して色々と問題があったようだ。
また、ポリープだと思われていたものが癌だとわかり、優秀な専門医が呼ばれたが間に合わなかった。
死後、ようやくコロリョフの名はソ連国民に知られるようになる。


とはいえ、アメリカも全てが順調に進んだわけではなかった。
ベトナム戦争の激化などもあり、ジョンソン大統領は支持を失い始めており、起死回生の策としてアポロ計画を急がせた。
結果、無人テストを省略して行われたアポロ1号の打ち上げにおいて火災が発生。酸素で満たされた宇宙船の中で3人の宇宙飛行士が焼死(この反省から、のちに宇宙船内は窒素と酸素の混合気体が充填されるようになる)。以後、アポロ計画は1年半ストップする。
ソ連はそのすきに追い上げようとするが、こちらでも悲劇は起きる。
コマロフを乗せたソユーズ1号は、太陽電池パネルの展開に失敗し、制御装置が働かなくなる。大気圏再突入前に、妻が呼び出され彼と最後の会話を行っている。大気圏再突入後、ソユーズは結局パラシュートも開かず地上に激突した。


アポロ計画は、息を吹き返し、技術的な問題はあったもののそれらをクリアしていく。
ソ連アメリカとの差は次第に大きくなっていく。
アポロ8号において、3人に宇宙飛行士が月軌道まで到達し、ソ連の負けは決定的となった。

第8章 月着陸とフォン・ブラウンの死

1969年、ソ連はN-1ロケットの打ち上げを行い、起死回生を狙うも失敗。
さらに、アポロ11号打ち上げ3日前に、月からのサンプルリターンを行うためのルナ15号を打ち上げている。しかし、ルナ15号は、ちょうどアポロ11号が月に着陸していたときに、月面に激突して失敗した。
1969年7月、アポロ11号は有人月面着陸に成功し、さらに12月には12号も続いて成功する。
1969年には、副大統領を中心にポスト・アポロ計画が提案され、宇宙ステーション、月面基地、有人火星飛行が謳われたが、11号の成功以後、大統領や議会、財政当局、そして国民の宇宙への関心は薄れていく。
フォン・ブラウンはワシントンのNASA本部への異動を求められ、フォン・ブラウンは悩みつつもこれを受ける。そして、スペースシャトル計画に関わることになったが、もともとあったミュラーの計画はフォン・ブラウンから見ると非現実的なものでしかなかった。
ソ連は1971年、初の宇宙ステーションであるサリュート1号の打ち上げ、ソユーズとのドッキングに成功するも、地球帰還時の事故で宇宙飛行士3名が死亡する。
N-1ロケットは4度失敗し、1974年に計画自体がキャンセルされる。これもまた、コロリョフのライバルの働きかけによるもの。
アポロ計画も、18~20号はキャンセルされ、1972年の17号が最後となった。


1972年、フォン・ブラウンNASAを離れ、フェアチャイルド社の副社長に就任、衛星通信ネットワークの確立とそれによる教育の充実を目指す。
1977年、65歳で病死。

軍事と研究開発

ところで、最近、日本の大学関連で軍学共同研究・デュアルユース問題が色々騒がれていて、その中で時々、軍事研究から発展したものとしてインターネットを例に出すコメントをよく見かけるのだけど、事例としてはあまり適切とは思えず、むしろ、フォン・ブラウンのケースの方が、極端な事例とはいえ、結構考えさせられるのではないかと思った。


インターネットの前身においてARPAから金が出てるのは事実だが、大学・研究機関間ネットワークを作りたいという理由で作られているので軍事研究とは言い難いし、それを考えるとARPAが必要不可欠の要素だったか、とも言えるのではないか。あと、デュアルユースというと、軍事研究から民生利用できるものも生まれるという理屈だが、ARPA(現・DARPA)ってのはむしろ、非軍事研究にも金ばらまいとけばその中から軍事利用できるものが出てくるのではという仕組みなので、典型的な軍学共同研究からは外れているものな気がする。
最近の軍学共同研究問題は、防衛省助成金案件がきっかけなのであって、これはDARPA案件とは一線を画するのでは、というのが素人なりの感想。


その点、フォン・ブラウンのロケット研究は紛う事なき軍事研究で、直接的に軍事ミサイルが生まれている。もし、フォン・ブラウンがドイツ陸軍に協力していなければ、何万人もの人は死ななかっただろう。しかし、それと同時に人類の宇宙開発研究が遥かに遅れただろうことも間違いない。
(ドイツがやってなくても米ソがという可能性もあるけど、ドイツのミサイルがあったからこそ米ソもそれに注目したのだと考えれば、V2が生まれていなければ戦後も非軍事・民間ベースで開発が進んだかもしれない。まあ、遅かれ速かれミサイルは誕生しただろうけど、軍がその実用性を認めるレベルにまで至ったロケット技術が、非軍事研究の規模で出来るのにどれくらいかかるのだろうか)


周囲の反対を押し切ってドイツ陸軍に協力し、結果的に、というか明確にミサイルを開発し、そのミサイルは直接的に多くの人命を奪ったわけで、フォン・ブラウンの決断を批判することはできるのだが、民間ベースじゃ予算が絶対足りないという状況下で、ここでの研究開発がのちの宇宙開発へのスタート地点になったことを考えたときに、そう簡単に批判できないものもあるのではないかと思ってしまう。


ところで、ナチス政権下で陸軍に協力していたわけだけど、陸軍やフォン・ブラウンナチスとの間には少し距離があったみたいなのも面白かった。
フォン・ブラウンは、SSのヒムラーから陸軍配下からSS直属にならないかという依頼を受けたとき明確にこれを断っている。
戦後アメリカに渡った後も、V-2大量生産時に行われた強制労働については関知していなかったと述べている。


軍事予算や軍事研究なくして、宇宙開発は成り立たなかったというのはおそらく確かなことだと思う。
しかしその一方で、戦後、フォン・ブラウンコロリョフの目指すところが明確に非軍事的なミッションとなると、軍部とは緊張関係があったこともうかがえる(NASAは非軍事であることを謳って作られた組織だし)。
軍事予算が潤沢にあったから可能になったビッグサイエンスの分野として宇宙と原子力はあげられると思うけど、なかなか単純な話でもないなーと。
フォン・ブラウンは、ドイツ陸軍とアメリカ陸軍を渡り歩いているわけだけど、宇宙旅行の計画というのを常にもってて、そのために利用できるものを利用してきたという感じだし。
そういえば、スペースシャトルなんかは、NASAアポロ計画の時のようにじゃぶじゃぶお金使えたわけでもないし、軍からの協力も取り付けてて、その見返りに、国防総省ミッションっていう非公開のミッションも度々やってるんだよねー