橋本毅彦『図説科学史入門』

図とトピックごとにまとめられた科学史
天文、気象、地質、動植物、人体、生命科学、分子・原子・素粒子の7つのテーマごとに章立てされており、それぞれの章ごとにおおむね時代順にトピックが並べられている。
1つのトピックにつき、おおよそ1つの図・写真が紹介されている。例えば、論文に掲載されたものであったり、研究者のノートに書かれたものであったり、あるいは研究者自身の肖像だったりする。
ネット上のレビューを見ると、分量や記述内容に物足りなさを指摘するものも見られるが(あとがきで筆者自身も自覚している)、気象学、地質学、植物学といった分野を取り上げていたり、各章ごとに科学革命以前の時代も取り上げられていたりと、比較的幅広く概観できるのがよいと思う。
また、科学におけるイメージ、という観点から構成されている点も面白い。
掲載されている図は、本文の添え物ではなく、本文内で見方が解説されているものがほとんどである。
あ、年表があるとさらによかったかもしれない。

序章 科学史を俯瞰する―古代から現代へ至る科学の発展
第1章 天文―星の振舞と宇宙の構造
第2章 気象―大気の状態と予測
第3章 地質―地層の重なりと地球の歴史
第4章 動物と植物―動植物の姿、形、模様
第5章 人体―各器官の構造と機能
第6章 生命科学―顕微鏡下の世界
第7章 分子、原子、素粒子―心の眼で見た究極の粒子
あとがき

図説 科学史入門 ((ちくま新書 1217))

図説 科学史入門 ((ちくま新書 1217))

感想

個人的にはやはり、第2章の気象や第3章の地質が面白かった。
気象は、データの収集が始まり天気予報へとつながっていくあたりの歴史が。ビーグル号の艦長フィッツロイや統計学者のゴルトンが天気予報の始まりに関わっていたとは知らなかったし。また、第7章で触れられているが、ドルトンがもともと気象を研究していたというのも知らなかった。
地質については、示準化石が古生物学ではなく工事のための地質調査から見出されていったというのも、そうだったのかって感じだった。また、氷河の話やレムリア大陸の話も面白かった。レムリアってそんなところに語源があったとは。
道具や技術の話も面白い。
例えば、植物のところに出てくるウォードの箱、顕微鏡や望遠鏡の分解能がかつては浸透力と呼ばれていたこと、電子顕微鏡の写真で光と影があるように写すシャドウイング法、CGなどがなかった時代に電子雲を描くために作られた装置など
また、フィッツロイやゴルトンの話の他にも、意外な人名としては、アンペールが分子構造について論じていた話とか。
あと、マルピーギが出てきて、「マルピーギ小体って習ったけど、そういう人だったのか!」とか、ケクレの話が出てきて、「夢で回転する蛇が出てきた話、英語の教科書で読んだ!」とか思い出したりしていたw
図というと、ゴーダンの分子構造の図や、ボーアの分子の内部構造の図とかきれいだったり面白かったりすると思う。
図像を巡る哲学的な話というのはあまりないけれど、ロザリンド・フランクリンを巡って、画像が科学的発見に与える役割についての科学哲学の論文があることが紹介されていたりするのと、あとがきに書かれているポーリングとヘイワードの話は、科学者以外が科学研究にどのように関わっているか考えるときの面白いエピソードになりそう。
気象の章に、初めて大量の統計データがグラフとして表現された時のグラフが載ってたりするけれど、近年のイメージの哲学ではグラフなどもその考察対象としている*1ので、気になるところ。
図像というのが、分かりやすく表現するための補助的な役割だけでなく、図像を通しての科学の発見があるというのは、科学哲学やイメージの哲学にとって面白い事例を提供しているのではないだろうかと思う。

第1章 天文―星の振舞と宇宙の構造

1 ティコ・ブラーエの折衷説

17世紀半ば、ティコの死後、リッチョーリによって書かれた著作の扉絵
女神が持っている天秤では、ティコ・ブラーエの折衷説を描いたものが重くなっていて、そっちが正しいことを示している

2 ケプラー幾何学

ケプラー『宇宙誌の神秘』(1596)の挿絵
惑星軌道の比を説明しようとする模型。
現代の視点でいえば、その模型に意味はない。単に偶然で決まった値に過ぎないとわかっているから。しかし、ケプラーや同時代人は何か意味があると考えていた。のちに、ケプラーが楕円の法則を発見したのも、幾何学的な意味があると信じていたらこそ。

3 17世紀の月面図

ガリレオの書いた月面図(1610)とへヴェリウスの書いた月面図(1647)

4 ニュートン以後の宇宙論

トマス・ライトの『宇宙の独創理論ないし新仮説』(1750)
宇宙の構造としての球殻を考え、天の川を説明した(ニュートンによる宇宙像では、星がすべて等間隔であることになっているが、実際はそうではないことへの説明)
カントへ影響

5 年周視差を求めて

地動説からは年周視差の存在が指摘されるが、長年発見されたこなかった
ハーシェル天王星を発見して終身年金を受け取る)
18世紀、ハーシェルはフランスの天文台で蓄積されてきたデータをもとに恒星の位置の変化を探す
19世紀 シュトルーヴェが、ヴェガに狙いを定めて年周視差を発見
トマス・ヘンダーソンが1秒余りの年周視差を持つケンタウルス座アルファ星を発見

6 星雲の正体

1771年 メシェによる星雲カタログ(M〇〇星雲という呼び方はメシェに由来)
ハーシェルの息子ジョン・ハーシェルは、M51星雲が小さな星から構成される仮説を提案
その10年後、ロス卿が、M51星雲が渦巻き状になっていることを見て取る
ハーシェルの描いたM51とロスの描いたM51が並べられており、ハーシェルが二重のリングとして描いたものが、ロスでは渦巻になっていることがわかる

7 撮影された星雲

1870年代 星の写真撮影が可能に
1888年 アイザック・ロバーツによるアンドロメダ星雲の写真

8 灯台の星

天文学者ピカリングの助手リーヴィットは、ピカリングの指示でマゼラン星雲の中の変光星を観測することに
リーヴィットは、変光星の絶対光度と明暗周期に比例関係があると結論
この発見により、マゼラン星雲と比較して他の天体の距離を推し量ることが可能に
1920年代、ハッブル変光星を観測することでアンドロメダ星雲の距離を測定している

9 歪んだ宇宙空間

エディントンが撮影した、太陽近傍の恒星(一般相対性理論の実証)

10 崇高な宇宙の姿を求めて

ハッブル宇宙望遠鏡によって撮影されたわし星雲
ハッブル遺産プロジェクトについて

 

第2章 気象―大気の状態と予測

1 アリストレスの気象学

アリストテレスの『気象論』には、気象現象に加えて、天文現象や地震、鉱物と金属の生成なども含まれる
月下界の四元素
この項目だけ図なし

2 デカルトの気象学

デカルト『気象学』
アリストテレスによるものと似た構成で、粒子の運動による機械論的な説明
デカルトによる雪の結晶の図

3 気圧計の発明

トリチェリの実験(水銀を使って真空を作る)
トリチェリが、ガリレオの最晩年期に彼の弟子だった、というの知らなかった
パスカル(の義兄)が高地にてトリチェリの実験をやり(1649)、水銀の高さで大気の重さがわかり、気圧計として再解釈されるようになる

4 ランベルトの観測プロジェクト

18世紀
科学哲学的な業績もある科学者ランベルト
独仏3都市の湿度を計測してグラフ化した
観測によって得られた大量の数値データをグラフ的に表現した最初の人物
ちなみに、この時の湿度計は、ミクロの世界を観測したことで有名なフックが考えた湿度計を改良したもので、羊の腸のねじれによって湿度を測定する

5 ルーク・ハワードの雲の分類学

19世紀
ハワードは、植物の分類が雲にも使えないか考える
巻雲、積雲、層雲など7種類の雲の形態を定義し、それらを描いた絵も論文に挿入された
19世紀後半に、ハワードの雲の分類を改良し、現在の10種類の分類になる

6 ビクトリア時代の気象研究と天気予報

19世紀半ば、ビーグル号の艦長をつとめたフィッツロイが気象予報の制度を作ろうとする
イギリス商務省気象部初代部長となり、世界中から気象データを収集し、艦船向けに暴風警報を発令する仕組みをつくりあげる。
しかし、警報により助ける船もあったにもかかわらず、正確性には疑問が付され、フィッツロイは自殺する

7 ゴールトンの気象地図

あの統計学のゴルトンだが、フィッツロイと同時期に、彼とは独立に気象データを収集
気象図を作成
高気圧が、時計回りであることを見て取った。
フィッツロイの死後、ゴールトンは気象庁を検討する委員会の委員長となり、フィッツロイの取り組みを評価し、さらにデータ収集を拡大したが、予報・警報には懸念を示していた。
1870年代には、気象図は毎日新聞に掲載されるようになる。さらに、同時期に、大西洋横断の電信ケーブルが敷設され、アメリカのデータももたらされるようになる。
大西洋横断ケーブルがこんな早い時期に開通していたとは知らなかった

8 台風の分類学

イギリスや欧米にとって、帝国経営に台風は大きな関心事
1883年に設立された香港気象台初代台長ドベルクによる台風の研究
1873年設立 上海気象台長のルイ・フロックは、1893年~1913年までの台風経路データを集めて地図にプロット
竺可禎(ハーバード大学で博士号取得、中華人民共和国自然科学院を切り盛り)は、学位論文で台風の分類を論じた
竺の作った地図では、地図上のマス目に数字が書かれていて、その時期に台風が何回通ったかが書かれている。

9 大気の視程
10 低気圧と前線

前線などの概念を導入したのは、ノルウェーの気象学者ビヤークネス親子
雲の観測を通じて、高空の気象情報をえて、三次元的に気象現象をとらえる
1920年の論文には、低気圧と前線の模式図が描かれている

11 気象衛星

1960年世界初の気象衛星「タイロス1号」打ち上げ
1950年代に検討されていた偵察衛星について、ARPAが気象観測用に利用することを議論し、NASAに引き継がれた

第3章 地質―地層の重なりと地球の歴史

1 アグリゴラの『デ・レ・メタリカ

アグリコラというとゲームが思い浮かぶけど、人名だったらしい
16世紀 ボヘミアの医者
近隣に鉱山があったため鉱山業について解説した『デ・レ・メタリカ』を刊行
ここでは、その著作の中の挿絵と、それとは別にフランドルの画家が描いた鉱山の絵が、当時の鉱山の様子がうかがえる史料として掲載されている。

2 ヴェルナーの鉱物分類学

18世紀には、フライベルク鉱山では、技術者養成機関として鉱山アカデミーがつくられる
19世紀フライベルクの鉱物学者ヴェルナーは、父親が製鉄所の監督官だったために鉱物学に興味を持ち、科学としての地質学を産み出した
色や形、ひっかいた時の傷や叩いた時の音による鉱物の分類
水の作用によって地層が形成される「水成説」の提唱者

3 ハットンの火成説

ヴェルナーと共に、近代地質学を産み出した一人と数えられるハットン
もともと地質学に興味があったわけではなく、色々な分野を学び、医学の学位をとるも医者にはならず、農業経営を行うことになり、地質学に関心が芽生えた。
エディンバラの王立協会で発表『地球の理論』
火山による火と熱の作用で岩石が形成される「火成説」

4 スミスの地層図

イギリスの測量士スミス
運河建設のための地質調査→化石によって地層の同定ができることを発見
1815年 イギリス全域の地質地図を出版
1807年に設立されたロンドン地質学会は、スミスとは別に、共同作業で地質地図を作製。スミスより5年遅れとなったが、多くの人からデータを集めたことでより正確な地図となった。
学会の地図により、スミスの地図は高値で販売できず、スミスは破産し投獄される羽目になるが、のちに再評価されていく。
示準化石が、かなり実学寄りのところから出てきていたとは思わなかった。まあ、ヴェルナーとかも、実際の鉱山技術者のための知識として使われているし、地質学は実用的なんだな(自分にとっては、恐竜という実用性からは離れたところから関心が始まっているので、なるほどという感じだった)

5 大洪水の痕跡

バックランドは、聖書の大洪水が実証できると考えていた
バックランド自身は信じていなかったが、自分の論文に引用していたものの中には、カトコットという牧師・地質学者の論文があり、その中で、大地は水に浮かんでおり、大地に亀裂が入って大洪水が起こると考えていた。この考えは、デカルトまで遡る。

6 ライエルの斉一主義

バックランドの授業を受講していたライエル
南仏やイタリアの調査旅行をとおして「斉一性」について確信
『地質学原理』の扉絵は、セラピス神殿の廃墟を描いた絵。3本の柱が描かれているが、この円柱の傷跡から、海水面の上昇と下降が過去にあったことがわかる

7 氷河期の発見

「氷河期」という考えは19世紀に発表され、徐々に受け入れられていった
迷子石など言われる草原にある巨石が移動してきた理由として、氷河が考えられるようになる
氷河を意味する「glacier」にはもともと「河」という意味はなく、幕末や明治期には日本でも「氷野」「氷原」と訳されていた。19世紀末以降、ゆっくり移動していることがわかるようにになって「氷河」という訳語が定着
氷河期を発見した人物として、ヴェネツ、シャルパンティエ、シンパー、アガシが挙げられる
ヴェネツは土木技術者で、慣例だった時期に氷河が迷子石を運んだと考える
シャルパンティエはスイスの科学者で、ヴェネツの報告を高く評価した
シンパーは元植物学者、アガシはキュヴィエの元で学んだ動物学者・古生物学者、彼らはシャルパンティエを通じて氷河について議論を交わした
1836年~37年にかけて、シンパーとアガシの2人で氷河理論をくみ上げていく

8 過去の地球の姿

スナイダー『創造とその露わにされた神秘』(1858)は、内容的には自然神学的なものだが、その中にアメリカ大陸の起源を論じた箇所があり、そこに挿入された地図では、アフリカの横に「アトランティス」という大陸が書かれている。これの形が、現在の南米大陸に近いもので、アフリカと南米大陸がかつてつながっていて、その後、離れていったのだとスナイダーは考えていた。
また、古生物学者たちは、離れた大陸間で同じ生物の化石が見つかることから、つながっていたことがあったのではないかと考えるようになった。マダガスカルとインドから化石が発見されていたレムールという動物にちなんで、「レムリア大陸」が想像されたりしていた

9 ヴェゲナーの大陸移動

ヴェゲナー、1912年に大陸移動説を公表したのち、第一次大戦に従軍、戦場から帰還したのち『大陸と海洋の起源』を1915年に出版
多くの地質学者や古生物学者には受け入れられなかった

10 プレートテクトニクス理論の受容

物理学的アプローチをする地質学者は、ヴェゲナーの説を受け入れた
ホームズ「放射能と地球の運動」(1931)
放射能の熱により大陸が移動する可能性を論じた
20世紀初頭、松山基範らにより地磁気逆転の痕跡が発見されるようになる。海洋底の測定により、岩石が移動していったことが判明する。地磁気逆転が東西対称となっているグラフを見ると、岩石が移動していったことが分かる。
ウィルソンは、当時発表されたクーンの科学革命を知り、プレートテクトニクスはまさにパラダイムシフトだと考えた

第4章 動物と植物―動植物の姿、形、模様

1 ルネサンスの植物図

フックス『新薬草誌』(1543)
何人かの画家と共に作成
1543年は、ヴェサリウス『人体の構造』、コペルニクス『天球回転論』の出版年と同じ
10年ほどの前のブルンフェルス『薬草誌』への対抗意識から、「新」と銘打っている
ブルンフェルスの図の方が、現実の植物に似ている
フックスの図の方は、現実からは離れているが、理念的な図となっていて、花や茎がしっかり成長しきって伸びていたり、異なる季節の様相が同一の図に描かれていたりする。

2 植物図譜の系譜

エーレット
18世紀の優れた植物画家のひとり。リンネに植物画を依頼される。

3 ツュンベリーの見た日本

リンネ門下の植物学者ツュンベリー
1775年に長崎へ。日本滞在中に800種の標本を蒐集し『日本の植物』を1784年に出版

4 中国の茶を探索したフォーチュン

19世紀イギリスの「プラントハンター」たちの一人、フォーチュン
安徽省の松羅山や福建省武夷山で茶葉の製法などの情報を収集する
茶の苗や種をインドに送ったが、その際、ウォードの箱という植物栽培用のガラス容器を使って搬送することで、インドでの栽培を成功させる。

5 フィッチとフッカー

19世紀にイギリスの王立植物園の園長であったフッカー親子と、フッカー親子を支えた画家のフィッチ
フッカーは探検家として、ヒマラヤを探検し、シャクナゲなどを観察した。本国に残ったフィッチがフッカーの記録をもとに植物画を描いた。ヒマラヤの峰を背景にしたシャクナゲの絵など。
フッカーの『ヒマラヤ紀行』には植物のことだけではなく、アヘン貯蔵施設の見学などのエピソードも。
帰国後のフッカーは、ダーウィンの進化論を擁護した

6 再生する動物

1740年代、生命の概念を揺るがす大きな発見が二つ
(1)微生物が自然発生するという発見(啓蒙時代の思潮を作りあげる重大な発見とみなされたが、19世紀後半のパスツールの実験で反証される)
(2)切断しても再生するヒドラの発見
1740年、トランプレーが発見
ボネは、ヒドラが、高等な動物と下等な植物のあいだの存在の階梯をつなぐ存在だと考えた
ラ・メトリは『人間機械論』の中で引用し、唯物論を論じた

7 発掘された巨大動物の化石

この項では、1780年にマーヒストリヒトで化石が発見された時の様子を描いた絵と、1830年に、地質学者のド・ラ・ビーチが、アニングの発見したプレシオサウルスなどを想像して描いた絵が紹介されている

8 キュヴィエの比較解剖学

動物解剖学は人体解剖学からは遅れる。マリー・アントワネットの侍医もしていたヴィクタジールにより着手され、キュヴィエらに受け継がれていく。

9 グールドのインコ

19世紀イギリスの鳥類学者グールド
ヨーロッパ各地、オーストラリア、インドの鳥を調査した

10 ダーウィンのフィンチ

この項目では、フィンチのスケッチの他に、ラマルク流の系統樹ダーウィンの描いた系統樹が紹介され、ラマルク流の進化論と違って、ダーウィンの進化論では進化の方向性はまちまちであることが示されている。

11 疾駆する馬の脚

1878年、マイブリッジの写真

12 キリンの斑

近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ』 - logical cypher scapeでも取り上げられていた話題
1930年代、寺田門下の平田のひび割れ説と生物学者からの反発
戦後、チューリングによる「形態形成の化学的基礎」
1981年、数学者マレー「チョウの翅のパターンと哺乳類の表皮模様に対するパターン形成のメカニズム」において、チョウ、シマウマ、ヒョウ、キリンの模様をチューリングパターンを用いて、数学的に説明する方法が発表された

第5章 人体―各器官の構造と機能

1 中世の大学における解剖

14世紀から人体の解剖もなされるようになる
モンディーノ『人体解剖学』が教科書となる
モンディーノは自ら人体の切開を行ったといわれるが、通常は教授は解剖を指示するだけで、実際に切開する職人が別にいた

2 ベレンガリオの解剖書
3 レオナルドの解剖図

当時、脳には、知覚・思考・記憶に対応する3つの室があると考えられ、それを描いた図が残っている

4 ヴェサリウスの『人体の構造』

解剖学の教授で、解剖を多く行ううちに、1000年以上信じられてきたガレノスの説が正しくないのではないかと考えるようになる
1543年『人体の構造』出版
ベレンガリオやレオナルドにも正確に描くことのできていなかった手根骨をより正確に描いていた

5 静脈の弁

ファブリキウスは、ヴェサリウス『人体の構造』の知見と自分をみいだしたことを合わせて、解剖書を出版。しかし、ヴェサリウスと違ってガレノスのことを批判せず踏襲していた。
静脈の弁も発見しており、その部位などを正確に描いているが、彼はこれを弁ではなく門とみなしガレノス説と矛盾しないと考えた。
ファブリキウスの元で医学を学んだハーヴェイは、これを正しく弁と解釈し、血液循環論を説く

6 個体差も描く精密解剖図

18世紀後半には、個体ごとに異なる神経の様子なども精密に描かれるようになる

7 解体新書
8 顔の筋肉と表情

ベルの表情論

9 ラモン・イ・カハールの脳神経のスケッチ

ゴルジ体を発見したゴルジは、神経細胞のみを染色する方法を作り出す
これをさらに改良したカハールは、神経を詳細にスケッチすることで、当時、脳神経は全体で一つの網状組織と考えられたのに対して、一つ一つ別の細胞となっている「ニューロン」説を唱えることとなった。
カハールにとって、顕微鏡写真をとるだけでなく、実際に自分で観察しスケッチすることが重要だった

10 MRI診断画像

第6章 生命科学―顕微鏡下の世界

1 フックのミクログラフィア

フック『ミクログラフィア』(1665)
コルクを観察し、中空の空間=セル(小部屋)に区切られていることを発見する→のちに「細胞」

2 スワンメルダムとマルピー

昆虫の組織や器官を観察したスワンメルダム(『一般昆虫誌』(1669))とマルピー
スワンメルダムは、複眼の構造を調べた
マルピーギは、昆虫の排出器官「マルピーギ管」で知られる、蚕の気管のほか、「毛細血管」が動脈から静脈へとつながっていることを示した。ハーヴェイの血液循環論では明らかになっていなった点だった

3 顕微鏡の性能を評価する

ゴーリングは、開口部を広げると「分解能」が増大することに気付いた。
ただし、まだ分解能という用語がなかったので、彼は「浸透力penetrating power」という言葉を使った。この「浸透力」という言葉は、もともとハーシェルが望遠鏡の性能を現すために導入した。現在では、分解能resolving powerと呼ばれている
また、ゴーリングは浸透力とは別にdefining powerという言葉を使った。のちに、解像力と翻訳されることになる。
解像力をテストするために、生物の細かな構造を利用することを提唱

4 細胞の発見

1830年代末、シュライデンとシュヴァン

5 腎臓の糸球体

マルピーギは、動物の腎臓を解剖し大まかな仕組みは明らかにしたが、細部の構造までは至らなかった
1842年、ボーマンが、腎臓の微細構造を観察して発表した。
マルピーギ小体、糸球体、ボーマン嚢が出てくる

6 テムズ川の小動物
7 病原体としての細菌

コッホは顕微鏡で観察して絵に描くだけではなく、写真として記録することにした。絵だと描く者の主観が入り込んでしまうのでは危惧したため。
妻に天気を見てもらい、太陽光が部屋に入る頃合いを見計らって撮影しなければならなかった

8 電子顕微鏡とウイルスの影

1880年代から細菌より小さな病原体の存在が知られはじめる。
1930年代から、電子線を利用した電子顕微鏡の開発が始まる
電子顕微鏡の開発は、アメリカでラジオ・テレビを普及させたRCA社が推進しロックフェラー財団が援助した。
電子線を照射することで細胞組織が破壊されるのでは、懐疑的な研究者も多かったが、1940年代には実際にウイルスの写真が撮影されるようになる。タバコモザイク・ウイルスやインフルエンザ・ウイルス
蒸発した金属分子を一定の角度で照射してから撮影することで、立体的に際立たせて撮影するシャドウイングという方法も開発される。まるで、ウイルスに光をあてて影ができたかのような写真が撮影可能に。

9 DNAのX線解析

ここでは、ロザリンド・フランクリンが撮影したDNAのX線解析像が紹介されている。
フランクリンの同僚が、この写真をワトソンとクリックに見せてしまった件だ。
このフランクリンの画像の件について、図像が科学の発見に与える役割を評価する科学哲学の論文があることも紹介されている。

第7章 分子、原子、素粒子―心の眼で見た究極の粒子

1 親和力表

17世紀ロバート・ボイルが、アリストテレスの4元素、パラケルススの3原質による説明を退け、粒子の形状、結合で化学現象を説明しようとした。
18世紀初頭、ジョフロワが、それぞれの物質が結合する関係の表を作成した。のちに親和力表として知られる

2 ドルトンの原子のモデル

18世紀末〜19世紀
ドルトンは、もともと気象現象に興味をもち、生涯気象観測を続けていた。最初の著作も気象学。
そこから、水蒸気に着目するようになり、分圧の法則を定式化。ある種の気体が液体に多く吸収され、またあまり吸収されないかを気体を構成する粒子の質量差に求める
分子の図や、原子にカロリックが線としてまわりに伸びている図

3 アユイの結晶学研究

アユイは、リンネの植物分類にならい、鉱物を形状で分類
鉱物を構成する粒子も基本的な形状をしてると考える

4 分子の結晶構造

アンペアでも知られるアンペールが、アユイの鉱物結晶学から、分子がいくつかの原子からなるという考えを借用し、分子が立体構造をするために4つの原子から構成されるはずだと推測
アンペール電磁気学の研究に専念していく一方、弟子のゴーダンは分子の立体構造を研究
ゴーダンは、原子の配置が対称的になるような議論を展開
1873年に出版した図には、各原子をシンボル化して表現し、分子構造を描いた図が掲載された

5 組成の分析から構造の探求へ

リービッヒによる「基」と「タイプ」の概念
水のタイプ、アンモニアのタイプなど

6 ケクレのベンゼン環の発見

夢からアイデアを思い付いたという話。ただし、夢を見てすぐに論文を書いたわけではなく、その後検証を重ねてから論文にしており、実際のところは、夢がどれくらい発見に寄与していたかはわからない。
新しく、メタンのタイプをつけくわえ、また、タイプを「ソーセージ・モデル」と呼ばれる図で描いた。そして、このソーセージ・モデルから、ベンゼンが環になっているという理論を生み出す
タイプというのは、原子それぞれに固有の手の数=原子価がある、と一般化された

7 周期表

周期表として、様々な形式が提案されたことが紹介されており、クルックスの三次元的に配置された模型などが出てくる

8 ボーアの原子構造モデル

原子の構造について、ラザフォードが原子核を中心に電子がまわるモデルを考える
その弟子のボーアがそのモデルをもとに研究
論文には図はないが、覚え書きに分子の模式図がある。分子について、二つの原子核の等距離に電子が回転しているという、今の考えからは離れたちょっと面白い図になっている

9 量子力学と電子雲

電子雲(電子の存在する確率分布をあらわしたもの)の図なのだけど、1930年代なのでCGなど便利に描く道具がなかったので、竹とんぼのような装置から紐をのばし、それを回転させることで図を描いたという、描画装置が解説されている

10 素粒子の飛跡

霧箱を発展させた泡箱の話

11 素粒子から宇宙へ

あとがき

本書執筆のための集めた事例のなかで、取り上げなかったが興味深かった事例について
(1)
火星の運河の話。望遠鏡で火星をのぞいたら幾何学的な線が見えたので、運河だと考えられていた
懐疑的な天文学者が、火星の表面に似せて斑点をちりばめた画像を、離れた位置から少年たちに見せてスケッチさせると、線を描く傾向があったという実験をしていたという事例
パターンを錯覚してしまうという話
(2)
高分子化学を研究していたポーリングは、『サイエンティフィック・アメリカン』の挿絵画家でもあったヘイワードに、分子の立体構造図を描いてもらっていたが、時にヘイワードから図が修正されることもあったという事例。
普通、科学者と画家の関係は、科学者の指示を画家が忠実に反映するという一方的なものだが*2、双方的な関係もあったという話。