小川哲『ユートロニカのこちら側』

企業による個人情報収集が著しく進んだ結果、少しずつ自由の概念が変わっていった世界を舞台にした連作短編集
第3回ハヤカワSFコンテスト大賞作品
アメリカを主な舞台にしているからなのか、どこか翻訳小説のような文体で書かれている。
SFではあるのだが、SF的アイデアの部分は必ずしもこの作品の中核に据えられているわけでもない。
第一章から第六章はそれぞれ主人公も時間軸も異なる独立した物語となっているが、一部、重複して登場する登場人物たちもいる。
4章の後半あたりから面白くなってくる。


情報銀行を経営しているマイン社は、カリフォルニアやフロリダにアガスティア・リゾートと呼ばれる特別区を次々と建設しはじめる。この特別区の住民になると、視覚情報や音声情報を含むあらゆる個人情報をマイン社に提供する代わりに、働かなくても暮らしていけるのに十分な収入を得ることができる。また、区内は治安もよく、各種カルチャーなども取りそろえられている。
情報銀行と取引をする個人には、情報等級というものが割り当てられていて、安定性の高い情報を提供する者は等級が高いようになっている。
サーヴァントと呼ばれるAIが生活に広く普及しており、様々な仕事・生活上のアドバイスを行っている。
特に、アガスティア・リゾート内の治安は、収集された個人情報をもとに予測された犯罪傾向をもとに行われる予防措置によって維持されているが、この予測を行っているのもサーヴァントである。


どうも『ユートロニカの向こう側』って書き間違えてしまいがちなんだけど、『こちら側』

アガスティア・リゾートへの移住を目指す夫婦の話
妻の方がアガスティア・リゾートへの移住に熱心になり、何年もかけて情報等級をあげて、夫婦そろっての移住についに成功する。
しかし、夫の方は、アガスティア・リゾートの暮らしに馴れることができず、次第にふさぎ込み、ついに療養所へと行くことになる。リゾートには彼以外にも、ここの生活に馴染めず、サナトリウムで過ごす人々がいた。

  • 第ニ章 バック・イン・ザ・デイズ

アメリカの田舎で生まれ育ち、そこから飛び出してきたリードは、両親とも半ば縁が切れていた。故郷を土砂崩れが襲い、両親が亡くなると、両親との関係も良好だった姉ではなく、自分の方にだけ、弁護士から情報の開示があった。
彼の生まれ育った町ではかつて、マイン社の実験が行われていた。町民のほとんどがある時期に視覚情報をはじめとする個人情報をマイン社に提供し、報酬を得ていた。当時、未成年だったリードはそのことを知らされてはいなかった。
休暇をとり、八王子の研究所へ行くと、その当時のデータをもとに過去の町を体験できるシステムが待っていた。幼い頃の、とある日の夕方。
両親の視覚情報をもとに再現しているので、彼らが見ていなかったマンガの内容は白紙だが、日記の内容は再現されている。

  • 第三章 死者の記念日

刑事の話。リードの上司であるスティーブンソンが主人公。
とある殺人事件を、アガスティアリゾート内での警察機構であるABMの捜査官と一緒に捜査することになる。
警察の仕事にもサーヴァントがだいぶ入り込んでいて、現場の情報を入力すると自動的に容疑者リストをあげてくれて、それを一人一人当たっていく。
だが、ABMはさらに違っていて、彼らはサーヴァントが犯罪を起こしそうだと判定した人物をそれとなく診療所へと誘導するのが仕事で、実際の殺人犯の捜査などはしたことがない。
なので、捜査に役に立たないし、話もあまりかみ合わない。スティーブンソンは、サーヴァントに従って仕事することになんとなく不自由さを感じているのだが、ABMの人間はそもそもそういう発想があるということ自体理解できていない。
ただ、この話は、そういう話だけはなく、スティーヴンソンと妻とのすれちがいや、スティーヴンソンの思い出にも多くさかれている。彼が寮に住んでいた時のルームメイト、オリビエとの思い出

  • 第四章 理屈湖の畔で

個人情報をもとに犯罪傾向のプロファイリングを行うシステムを開発した男ドーフマンの話。
一日のあらゆることをスケジューリングしてから行動する。トイレの中で誰にも読まれない四コママンガを描く。
犯罪傾向が予想された人は、本人にもそれと気付かれないように診療所へ誘導し、その危険性を下げる。
(未来の)被害者だけでなく(未来の)加害者も助けるプログラムを、ドーフマンは作ろうとしていた。
しかし、自分の妄想に取り込まれてしまった男について、診療所に入れることに成功するも、その男は外部のジャーナリストに人権侵害を訴えて、まんまと出ていってしまう。そのジャーナリストと会っている席で事件が起きてしまう。
その後、世論の高まりのもと、犯罪傾向が予想された場合、逮捕が可能となる法改正が進められ、ドーフマンはそれに対して慎重論を唱えるべくマスコミの取材にもこたえるのだが、インタビューを恣意的に切り取られてしまう。
それにぶち切れたら、自分がつかまりそうになる。

日本人の女子大学生ユキが主人公。曾祖父の代から続く左翼系の家系で、当然のように、マイン社のやり方に反発している。
学者だった祖父は、認知症の可能性が出てきたときに、投薬治療を拒否した。健康だが自分の性格が変わってしまうことよりも、自分の意志によって認知症になることを選んだのだった。家族はその自由を尊重したが、その後の介護の負担へとはねかってくる。徘徊するようになった際、祖父に発信器をつけるかどうかで親戚と揉めたりする
ユキは、高校時代からアメリカへ留学した後、マイン大学へと進学する。もう1人の日本人留学生とともに、リゾートへのテロ計画を進め始める。彼女自身は全く本気ではないが、一種の遊びとして彼と計画を練り上げていく。
プロファイルにひっかからないように自分たちの行動をコントロールして、ついにテロ実行の日を迎えるが、ABMの元刑事だという男に見つかってしまう。


老牧師アーベントロートが主人公
息子が命を狙われていて、孫と暮らしている。
彼の父親は、アガスティア・リゾートの初代区長。その父親に反発して牧師となる。息子は、さらにそこから反発して無神論者となり、その一方でアガスティア・リゾートが進むと人類から意識がなくなるだろうという論文を発表して世間の反感を買い、ついに命を狙われるまでになった。
老牧師は、かつて妻との間に諍いがあった。あまり気質があわず、妻は離婚しようとしたのだが、カトリックの牧師という立場上、彼は離婚を認めなかった。結果的に彼女はどこかへ行方をくらましてしまう。彼は、妻は世間に対しては病気であると偽っていた。
牧師としての最後の日々において、スティーブンソンと会って自由について話していた。スティーブンソンは市警をやめてABMに入って、ユキたちを助けていた。



作者インタビューhttps://cakes.mu/posts/11547