海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる ルポ最新科学』

科学者7人へのインタビュー集。もとはcakesで連載していたのをまとめたもの。
人選もよいし、筆者(インタビュアー)側がどういう疑問をもって何故その人のところにいったのか、その人の話を聞いてどのように思ったかなどが書かれており、どうしてこの7人にこういうこと聞いているのかということが分かる。
もちろん、それぞれの章で扱われているテクノロジー自体も興味深いものだけど、それぞれの研究者がどういう「人間」観を持っているのか、どうしてこういう研究をしているのか、今後どうしたいのかなどについても書かれている。
個人的には、SRや3Dプリンタあたりは特に面白かった。あと、受動意識仮説の前野さんが、幸福学なんて始めてるの知らなかったので、そのあたりも。
というわけで、一般的にはよい本ではあると思う。
だがしかし、個人的にいうと、細かいところで色々と気になるところ、ひっかかってしまうところに度々ぶつかってしまった。なんというか、対象読者層に自分は入ってないのかも、という感じがした。これについては後述する。
なんというか、筆者と元々持ってるバックボーンがあんまり一致しなかったというのが大きい。
それはそれとして、インタビューしながらもぽんぽんと話題が出てくるあたりは、頭いいなあと思ったのと、色々見れていいなあー羨ましいなーという気持ちで読んでた。

第一章 SR――虚構を現実にする技術
第二章 3Dプリンタ――それは四次元ポケット
第三章 アンドロイド――機械はすべて人型になる
第四章 AI(人工知能)――機械は知性を持つか
第五章 ヒューマンビッグデータ――人間を法則化する
第六章 BMI――機械で人を治療する
第七章 幸福学――幸せの定理を探る

第一章 SR――虚構を現実にする技術

藤井直敬
SRは実際に体験してみたい。そうしないとなかなかわからなさそう
変性意識の話とか幽体離脱の話とかしてる。なんか視点が広がっていく話
SRで人類を進化させたいとか
現実的な話としては、なかなか応用が進まないらしい。ゲーム会社は興味を持ったけど、活かすにはかなりクオリティ高いCG作らないとならない。医療系は倫理問題とかでなかなか進まない。

第二章 3Dプリンタ――それは四次元ポケット

田中浩也
3Dプリンタ以前は、植物から発せられる微弱な電流を使ってツイートする装置とか作っていたらしい
人間は嫌いで、石とか植物とかのほうが好きな人みたい
3Dプリンタで最初に作るものは3Dプリンタの部品らしくて、3Dプリンタは自己複製できるから生命なんじゃないかとかそういう話をしてる
あと、3Dプリンタでものを送れるようにするには、時間が経つと消えてしまう素材が必要だとか
3Dプリンタで作るのはデータの抜け殻だとか

第三章 アンドロイド――機械はすべて人型になる

石黒浩
特に新しい話はないかな
いつもの石黒節という感じ
でも、このキャラクターの源泉みたいなものがなんとなく分かる感じになってる

第四章 AI(人工知能)――機械は知性を持つか

松尾豊
ディープラーニングの実演のデモンストレーションは、文章だとなかなか伝わらないので、どっかにムービーとかないのかなー
松尾さんが考える知能の定義は「予測性が誰よりも高い」

第五章 ヒューマンビッグデータ――人間を法則化する

矢野和男
ウェアラブルセンサで測定したデータで人間の集団を調べたら、色々と法則が出てきたという話
加速度センサで幸福度がわかるという奴
色々な話で敵て面白い
日立が半導体を作るのをやめて、代わりに何しようかってところから始まったプロジェクトらしい。
本人10年くらいセンサつけて生活しているのだが、ある時期からアドバイスシステムというのを自作してそれに従って行動しているというのが面白い
自分の行動のパターンがもう見つかってるから、それをもとにアドバイスを出せるようになってる。

第六章 BMI――機械で人を治療する

西村幸男
一応BMIということになってるけど、本人的には自分の研究は「人工神経接続」ということらしい
神経系で失った機能を繋ぎ直すみたいな研究
本人がもともと陸上やってたりして体育会系
脳の可塑性の話とか

第七章 幸福学――幸せの定理を探る

前野隆司
受動意識仮説の人
受動意識仮説を作ったあたりで「悟り」を開いてしまって、幸福について研究をしはじめたらしい。というか、本人はもう幸福で、それを理論化しているみたい。基本的には統計なので、ヒューマンビッグデータの話とも近いか。


気になったところ

「進化」についての理解

なんかこのあたりが微妙だなと思って気になったところがあって。
3Dプリンタの章で、自己複製する3Dプリンタの進化の話をしているところで、スティグレール出してきて、技術と人間の共進化みたいな話をふってくるところがあるんだけど
まあ、スティグレールを自分は読んでないので何ともいえないけど、前者と後者とで「進化」の意味違ってません? という気がした。
一般的に、「進歩」を「進化」と呼ぶのはまあ構わないと思うのだけど、この文脈だとちょっとそこ混同してほしくない感じがした。
が、まあそこは些細な話。
もう一点は、あらゆるものが生存を目的としている云々ということをいっているあたり。
ここは直接進化論に言及しているわけではないので、単にそういう自然観・世界観の話をしているのです、と言われれば、そうですかと言いようがないのだけど。
「生存のため」
生物が今ある形質となった《原因》は、生存によるのだけど、生存を《目的》としてこの形質を選び取ってきたわけじゃない。
「ため」とか「による」とかいう言い方をすると、原因か目的かが曖昧になってしまうけれど、その曖昧性によって、「生存が目的」と誤解してしまっているような気がする。
ダーウィンの進化論のポイントは、生物のデザインを、目的論的ではない形で理解できるようになったという点だと思っているので、ここでいう「生存」が、適者生存なり自然淘汰なりを念頭にしているのであれば、それを目的と言ってしまうのはちょっとなーと。
たまたま生存に役に立ったから、その形質が残っているのだけど、
生存に役立たせるために、その形質が残っているわけじゃない
あと、役に立たないだろって形質も残っていて、それもその形質をもった奴が生存したから、であって、その形質が生存を目的としていたわけじゃない。

心があるとかないとか

石黒先生、前野先生が顕著なんだけど、「心はない」「意識は幻想」というような主張がたびたび出てきて、筆者が次第にそれに同調していく展開が見られる。
まあ別に、そういう立場をとること自体はなんら問題ではないんだけど、なんとなくこのあたりの概念整理がおざなりにされているような気はしないでもない。
石黒先生はこの本に限らず繰り返し、「心はお互いにあると思い込んでいるだけで、本当はない」ということを主張しているけれど、自分はこの「本当はない」という主張が何を意味しているのかいまいち分からない。
「本当はない」という主張は、「本当はある」の否定だと思うのだけど、この時の「ある」として何を想定しているのかなーと。
実体的な何かを想定しているのであれば、そりゃないでしょうねという話であるが、「心」というのは別に実体的な何かではないのでは、と。
今更ギルバード・ライルかよって話なのだけど、しかしやはりこの手の問題においては、個人的によく納得したということもあり、ライルを持ってくるのがよいのではないかと思う。
有名なカテゴリーミステイクという奴。
大学につれてこられた人が、講義棟、図書館、体育館などを見学したあとに、「で、大学はどこにあるんですか?」と聞いたら、これはカテゴリーミステイクだという話。大学というのは、講義棟や図書館のように目に見える建物ではなくて、そうした建物の集合であり、教員や学生たち、それらをとりまとめる制度などをひっくるめたもの。
なので、大学という建物がないからといって、「大学なんてない」というのは明らかにおかしい。
別の章に、「心はどこにあるんでしょうか? 脳? 心臓? お腹?」というようなことを言ってるところがあるのだけど、これもレトリックとしてではなく、文字通り脳か心臓に心があると思っているのであれば、カテゴリーミステイクにあたるだろう。
大学の喩えは、心にわりと当てはまると思うのは、大学は普通は物理的な建物によって構成されているけれど、心も普通は脳神経による物理的な基盤がある。だが、大学は単に建物の集合なのではなくて、そこで教員と学生による活動が行われていることが必要だし、またそうした活動が社会的制度として成り立っていてることも大事。心も、脳内での活動もそうだし、人間がどういう振る舞いをするか、それが他の人間とどのように相互に関わっているかといったことによって成立している概念だと思う。
これは個人的な考えに過ぎないので、そういうこと書いてないから間違っているというわけではないのだけど、「心」ってだいぶ広く緩く色んなものを包括している概念であり、「心はあるかないか」というのは非常に茫漠としていると思う。
お互いに心があると思い込んでいるだけというけど、そういう思い込みが生じていること自体、ある意味で「心がある」と言っていいのではないか、と。大学っていう名前の建物がなくても、毎年一定数の学生が入ってきて、一定数の学生を育てて卒業させる仕組みがあれば、それは大学であって、大学がないということにはならない。
ただ、ライル持ち出されたからといって、単純に行動主義に与しているわけでもないし、また、誰かが石にも心があると思えば石にも心があることになる、とも思わない。例えば、大学と同じように毎年学生が入ってきて卒業する仕組みを備えて、見た目同じように見えたとしても、内部でどのような活動をしているか、どのような施設を備えているかで、大学と専門学校が区別されるように、心と心でないものを区別するような内実はあるだろうし、またある種のセミナーとかを「○○大学」と呼んだりすることもあるけれど、それによってそれが本当に大学になるわけでもない。
なので、「心はない」ってそう簡単には言えないと思う。
ただし、霊体とか魂とかそういった意味での「心」はまあ多分ないと思うし、脳のこの活動が「心」だとかそういうことも言い難いとは思う。


で、心という曖昧な概念の中に、「自己」とか「意識」とか「自由意志」とかいったものが構成要素としてあるのだろうと
そういった個々の構成要素については、科学的探求によって、あるとかないとかそういう話は出てくるかもしれない。まあ、自由意志は社会的な仕組みだと思うけど。


閑話休題
話が、単なる自分の考えの方にいってしまった。でもまあ、こういうふうに考えてるから、読んでいて隔靴掻痒な感じはあった。
もう一つ気になったのは、意識とデカルト的自己と自由意思を、なんとなく同じようなものとして扱っているようなとこ。いや、それ全部別概念なのでは、と。
リベットの実験って、行動の準備電位と行動を行う自覚に時間差があるという実験であって、意識やデカルト的自己の有無とは関係ないだろうし。
(もっと踏み込んで個人的な考えをいうと、準備電位も含めて自由意思だということにすればいいだけなのでは、とも。自由意思の時間的スケールをどこかの瞬間に求めてしまうから消えてしまうのであって、ある長さを持っているとすれば十分あるはず、と思うのはデネットからの影響)


あと、本能って言葉ももうNGワードにしたい