瀬川拓郎『アイヌと縄文』

瀬川卓郎『アイヌ学入門』 - logical cypher scapeに続き、同じ著者によるアイヌ入門
先ほどの本はテーマ別の構成だったが、こちらの本は時代別の構成となっている。
縄文人の末裔であるアイヌの文化の中にどのように縄文文化が残っていったのかということと、その一方で、本州からの影響などを受けながら、様々に変化していった様子が描かれている。
元々のアイヌのイメージや「縄文人の末裔」という言い方からは、狩猟採集生活を続けてきた人々ということを想像しがちだが(そもそも縄文時代から既に農耕の萌芽が見られたようだが)、どちらかといえばアイヌは交易の民で、狩猟採集で自給自足していたわけではなくて、例えばサケ漁に特化したり、いわば産業化して交易を行っていた。
前の本を読んだときにも驚いたけれど、ミイラ習俗があったのには驚く。


ちなみに、読書メーターを見ると

だが、冒頭言語学的な話で日本語と音韻対応があるという例示に例のトンデモ説確定のタミル語を入れちゃってくれたり、
アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 Koningさんの感想 - 読書メーター

という感想があがっている。
筆者の専門は考古学だが、考古学以外の知見もところどころに入っていて、それが本論の視野を広げているところではあるのだが、読む際に注意すべきところでもあるよう。
ただ、そういうのは大体最初の方で、後半になるにつれて考古学的な資料・証拠をもとに論じられているので、そこまで「トンデモ(かもしれない)本だ」と気負う必要はないかと思う。
まああえて難点を言うならば、筆者の推論を述べる際にやけに断言が多いところだろうか。そこらへんは読者の側で適宜割り引けばよいだけだと思う。

第1章 アイヌの原郷―縄文時代
第2章 流動化する世界―続縄文時代(弥生・古墳時代)
第3章 商品化する世界―擦文時代(奈良・平安時代)
第4章 グローバル化する世界―ニブタニ時代(鎌倉時代以降)
第5章 アイヌの縄文思想

縄文時代、擦文時代というのは、北海道の時代区分である。
ニブタニ時代は、筆者による命名で、一般的にはアイヌ文化時代などと呼ぶ。ただ、民族名と時代区分名が同じなのは誤解を生む*1ので、筆者は「ニブタニ時代」という名称を提案している。

第1章 アイヌの原郷―縄文時代

苫小牧、函館、千歳などで発見されている縄文時代の巨大な遺跡
縄文時代のイノシシ祭り:一定期間飼育した子イノシシを殺す祭り
→イノシシの北限は津軽海峡であるのに対して、縄文後期の北海道での遺跡でイノシシの骨が見つかっている。また、本来イノシシの生息していない佐渡や伊豆でも。


ヒトゲノム分析
土人は、大陸渡来の東アジア人と縄文人の混血、次いで、琉球人、アイヌの順で縄文的要素が強くなる。ただし、アイヌ縄文人そのままではなく、オホーツク人、ニヴフ、本土人との混血がある(Jinam et al 2012)
エミシは、DNA的にはアイヌより出雲地方の人たちと近いという分析もある。
多くの東アジア人に対して、本土人琉球人、アイヌの順に遺伝的特徴が遠ざかっていく。想定される共通祖先、縄文人によって「引っ張られて」いる。
じゃあ、この縄文人とは?
「ヨーロッパ人とアジア人が分化する以前の状態を保った人類(百々2007)」
縄文人クロマニヨン人と類似(山口1982)」
縄文人クロマニヨン人の特徴を受け継いでいる(鈴木1982)」
また、ミトコンドリアのハプログループをみると、本土人が20種のハプログループを持つのに対して、縄文人は4種類と多様性を欠く(篠田・安達2010)
などの研究が紹介されている。
縄文人クロマニヨン人というの、個人的には信じがたいのだが、人類拡散の歴史の研究がいまどうなっているのかちゃんと知らないので何とも言えない。
(自分の理解では、現世のホモ・サピエンスは6万年前に出アフリカして、シナイ半島でヨーロッパとアジアに分岐して、4万年前にヨーロッパにいたのがクロマニヨン人。で、縄文時代は1万5000年前に始まるので、その時期にクロマニヨン人なり、アジアとヨーロッパに分岐する前の人類が日本にいるの突飛ではないかと思う)


第1章後半は言語の話
日本語起源云々のところは、冒頭でも触れた音韻対応によるもの。孤立言語の話とかしている。
それから、アイヌ語と古代日本語、縄文語の話。
東北地方にアイヌ語由来の地名があるというのは言われていいるけれど、さらに九州北部にもアイヌ語由来の地名があるという研究がある、と。
で、筆者は長崎五島列島には、入れ墨や抜歯をしていた海民が結構長いこといて、縄文の伝統が残っていたのではないかと。

第2章 流動化する世界―続縄文時代(弥生・古墳時代)

弥生文化の北上による変化
東日本:弥生時代といえば稲作だけれど、関東では畑作がメインだったり、東北では稲作「も」やるという感じで完全に稲作化したわけでもないらしい
北海道では、弥生文化を受容しなかった代わりに、弥生文化と交易をおこなうために産業を特化させていく。例えば、弥生時代の宝である貝製品が北海道では出土するが、クマの毛皮などを輸出していたと考えらえる。
また、卜骨や骨角器などが入ってきていて、このころ、道南では漁がおこなわれるようになって、九州の海民と交流が活発だった可能性が高いかもそいれない、と
アワビ漁も始まっているけれど、これも弥生的な影響(神道ではアワビは神饌)
ここらへんは、余市のフゴッペ洞窟とか礼文の浜中2遺跡での発見などから


それから、首長に権力が集中するようになってくる


クマ祭りの話
アイヌには、子熊を一定期間育ててから殺すクマ祭りがある
筆者は、縄文のイノシシ祭りがクマ祭りになったと考えている。
(ただし、有力説はオホーツク文化起源説」)
本州が弥生文化となってイノシシ祭りが廃れる一方、続縄文時代でも縄文文化を受け継いでいてた北海道では本州からイノシシを調達できなくなって、クマに変わったという説


古墳時代の本土人アイヌの関係
東北に残るアイヌ地名
あるいは、アイヌにおける「ウマ」の語の受容の話など


オホーツク人の南下
オホーツク人はニヴフの祖先であり、靺鞨系と関係が深かった人々
サハリンから北海道へ。
北海道は、オホーツク人と続縄文人とに二分され、オホーツク人は日本海側の島嶼伝いに南下。奥尻島からむつ、八戸の近くまで進出
日本書紀』にもオホーツク人と思われる記述が出てくる。
さらに、『日本書紀』に書かれている北方遠征について、続縄文人の依頼を受けた王権がオホーツク人を討ったものではないかと、筆者は論じている。
オホーツク人もおそらく古墳社会との交易を求めていたけれどうまくいかず、王権が毛皮交易をコントロールするために、遠征があったのではないか、と。

第3章 商品化する世界―擦文時代(奈良・平安時代)

上述の北方遠征ののち、秋田の秋田城に本州と北海道の交易が集約されていく。
一方で、それ以前から北海道と交易をおこなっていた東北地方太平洋側の人々が、交易が日本海ルートに集約されていくことに対抗してルートを確保するため、北海道へ移住していく。
彼らは苫小牧、千歳、恵庭、江別、札幌に進出
住居、農業、祭祀など古代日本の文化が入り込んだのが擦文


擦文時代は、墓が発見されない
竪穴住居の中に遺体を埋葬し、住居を放置していた(竪穴住居がたくさんできる)


9世紀ころには、移民者は同化
さらに、オホーツク人の占めていた道北・道東へ進出
この際も、日本海グループと太平洋グループに分かれて進出し、日本海グループは10世紀末にはサハリンまで、太平洋グループは12世紀には道東、15世紀には千島まで進出


擦文時代は、本州との交易のための特化が始まる
縄文時代までは、いたるところで遺跡が見つかるが、擦文時代に入ると遺跡が発見される場所が限られてくる
例えば、石狩川水系だと、サケの遡上するところに集落が集中していて、大量のサケを本州へと出荷していた。また、オオワシの尾羽やアワビ、アシカの毛皮なども
本州からは、銅椀などが北海道へきている


オホーツク人
彼らは、本州との交易をしつつも、主に大陸の靺鞨系の人々と交易
文人同様、オオワシを出荷していた。紐でつないだ石球(ボーラ)で猟
文人が道北、道東へ進出し、追い込まれていく。道北の元地文化、道東のトビニタイ文化

第4章 グローバル化する世界―ニブタニ時代(鎌倉時代以降)

13世紀に、竪穴住居から平地住居化し、土器が使われなくなる(擦文文化の終焉)
渡島半島で陶磁器が出土→和人の進出
網走にまで和人が移住していた跡がある
千歳の遺跡では、牧場でウマを飼育していた跡が、また道南から道央にかけて耕された畑の跡が見つかっている。アイヌは単純に狩猟採集民だったわけでなく、農民や牧畜民もいた。


15世紀には千島まで進出
15世紀になると日本側史料にラッコの毛皮についての記述がでてくる→千島のラッコ
『元史』によると、ニヴフの鷹狩りをアイヌが捕虜にしたことがきっかけで、ニヴフが元にこれを訴えて、元がサハリンに出兵しアイヌと戦争に。最終的にはアイヌは降伏するも、これがきっかけで大陸との交易が
ただし、大陸産ガラス玉はそれ以前から北海道で出土する。元より前の金とも交易があった可能性?
また、明とも朝貢交易
ただし、土木の変以降、明は東北アジアでの影響力を失う


チャシ
崖や丘を濠で囲んだ遺跡
砦や首長の館として使われていたものだが、元をたどると祭祀のためのもの、祖霊信仰ともつながっている。
鉤状の出入口
日本の祭祀施設からの影響。サハリンの白主土城からも影響があったかもしれない。


ミイラ習俗
サハリンアイヌにはミイラ習俗があり、17世紀のオランダ東インド会社の記録や19世紀の近藤重蔵間宮林蔵、英国軍の記録に残っている。
周辺の民族では行われていない孤立した風習なのだが、筆者は、縄文時代から続くモガリがその起源ではないかとしている。
ガリとは、遺体を埋葬せずに長期間安置しておく習慣で、古代日本でも行われていた。
ガリのあいだに入れておく棺とか、ミイラになったあとに入れる棺とか、あるいは墓の上に置く家形とか、家を模した形のものを使うのだけれど、屋根の部分に装飾がついていて、これが神社建築の千木によく似ている。
こうした千木のついた家形を墓に乗せたりする風習は、香川など日本のほかの地域にも見られ、さらにはニヴフアムール川中流からウスリー川一帯に住んでいるナーナイという民族にもみられる
筆者は、古代日本からアイヌ、そしてニヴフやナーナイにこの伝統が伝播していったのではないかという仮説を立てている。
また、サハリンアイヌはミイラ化した遺体を埋葬するまで3年の間家において喪に服す。また、北海道アイヌについても喪に服す期間が3年という記録がみられる。本州でも、モガリが行われていた頃には、3年の喪に服す期間があったり、また朝鮮半島にも同様に3年喪に服していたという記録がある。
この3年の喪というのは、もともと儒教に由来

第5章 アイヌの縄文思想

アイヌのような贈与交換型の文化がどのように商品交換的な交易を行っていたのか
中立地帯ないし疑似家族を作るという方法
ここで筆者は、10世紀ころの渡島に成立した青苗文化に着目する。この文化では、青森の土師器的な土器が見つかっているが、時代が下るにつれて擦文土器に近づいていく。東北から移住して擦文化していった人々なのではないかと考えられる。
そして、この文化がまさに中立地帯ないし疑似家族として機能したのではないか、と。
つまり、物々交換・商品交換を忌避する、贈与交換の文化の擦文人は、青苗人に「贈与」することを通して、本州との交易をおこなっていたのではないか、と。
東北アジア圏には、ほかに沈黙交易といって、山の中にものを置いて、直接は顔をあわさずに交易するという手法も知られており、商品交換を忌避する傾向がある。
和人商人と直接やり取りするようになってからも、宴席でもてなし、それの土産という儀礼の形式をとる。
また、このような中間地帯や疑似家族を通した交易は、アメリカ先住民とフランス人、アフリカ・コンゴの狩猟民と農耕民との交易にもみられる。
ほかにも15世紀のアイヌは、チャシで獣を解体していたとみられるが、神から贈与された毛皮を商品にするための無縁化だったのではないかとも述べている。


*1:アイヌという人たちが13世紀に突然北海道に現れたなどの誤解。現在に残るアイヌ文化の様式が成立したという意味での時代区分であって、住んでいる人たちは同じである