グレゴリー・カリー『フィクションの性質』("THE NATURE OF FICTION")第3章

グレゴリー・カリー『フィクションの性質』("THE NATURE OF FICTION")第1章 - logical cypher scape
グレゴリー・カリー『フィクションの性質』("THE NATURE OF FICTION")第2章 - logical cypher scapeの続き

Chapter3. Interpretation
3.1. Relationalism and relativism
3.2. The intentional fallacy
3.3. Intentional meaning and conventional meaning
3.4. The return of the author
3.5. The text
3.6. Story and style
3.7. Fictional author and narrator

内容としては、2章の続きないし応用編
批評理論と絡んでくるところでもある。
解釈の相対主義を退けたり、「意図の誤謬」を検討したり。文体と物語の関係や信頼できない語り手の話とかもでてくる。


解釈の全体論(相関主義)
何がストーリーの中で真なのかは、1文ずつ確かめていくのではなくて、テキスト全体に依存している。


2つ以上の両立しない、最大限によい解釈がありうる
→(1)反実在論である(2)相対主義である、という2種類の批判にあう
→(1)は認めるが、(2)は拒む
科学理論における実在論反実在論
実在論:この理論が正しいかどうかは、その理論が全ての証拠に従っていたとしても分からない(真理が経験を越えたところに実在している)
反実在論:理論の正しさは、データによって確かめられる以上のことではない
カリーは、科学においては実在論の立場をとるが、フィクションの解釈という点では反実在論の立場をとる。
反実在論では、どちらもよく証拠にあう2つの説があれば、どちらも真となる
『ねじの回転』
超自然的な読みをするか、心理学的な読みをするかで、フィクショナルな作者が幽霊がいると信じていると推論できるのが合理的か否かは変わる
「幽霊がいる」も「幽霊がいない」のどちらも真になる。が、矛盾ではない。
「F(P)またはF(¬P)」が真である、と選言的に解釈すればいい。
「物体がこれこれの速さで動く」というのが、参照枠組みに対して相対的なように、「F(P)は真である」も相対的。
F(P)は、正確にはF(P,I):Pは解釈Iと関係して(relative)フィクショナルに真である
=相関主義relationalism
反実在論


相関主義と相対主義
相対主義は、解釈の客観的基準はない、という主張。
相関主義は、相対主義ではない。
客観的と相対的という対と、絶対的と多元的の対がある
前者は、客観的な基準があるかどうか、後者は、もっともよい解釈が唯一であるかどうか
客観的だから絶対的であるとは限らない


意図の誤謬
ビアズリーとウィムザットが提唱*1
詩の意味は、作者が意味しようと意図したものではなくて、言葉と文が意味しているもの。
テキストに「内在」しているといったが、その「内在」には、言葉以上のものを含む。文化とか。これが何のこと
かはっきりとはしていないけれど、カリーが考えるようなコミュニティにおいて広く信じられていること、とかではないか。
これに対して、KnappとMichaelsは、テキストは作者が意味しようと意図したことを意味していると主張した。


意図による意味と慣習による意味
意図による意味は、グライス理論によって説明できる
慣習による意味
まず、慣習とは何か
D・ルイスによれば、慣習とはあるグループにおける行為の規則性


慣習による意味と意図による意味は異なることがある。
主に、文は慣習による意味を、発話は意図による意味を担う。この二つはいつでも一致するか。
KnappとMichaelesは、意図せずにできた印(たまたま文章に見える岩の裂け目とか)は意味を持たない、ということをいうが、これは意図なしに意味を持つことはないと言っているだけで、慣習による意味と意図による意味が一致する、という主張にはならない。
アイロニックな発話について、
慣習による意味と意図による意味に違いがあるが、KnappとMichaelesは両方の意味を発話者は意図しているという。確かに、アイロニーは発話者の意図によるが、慣習による意味が発話者の意図に依存しているということまでは言えない。慣習による意味を、発話者が決めることはできない。
フィクションの意味も、慣習による意味に依存しているが、意図による意味も必要。ただし、ここでいう意図は、フィクショナルな作者の意図であって、実在の作者の意図ではない。


しかし、実在する作者にも役割はある
フィクションの経験には、ごっこ遊び理論で説明できるよりもさらに広い
「意味」という言葉も、批評家は広く色々な意味で使っている。
カリーは、しかし、その中でもストーリーの意味(ストーリーの中の真)に集中して論じている。それが、色々な「意味」の中でも基礎的なものだし、フィクションに特有のものだと思っているから。
ごっこ遊びから説明できないようなフィクションの経験としては、例えば、作品があるジャンルに属していることを認識して、そこからプロットを予期したりすることがある。作品が何のジャンルに属するかは、少なくとも部分的には、作者の意図に依存するところがある。


テキストも作者の意図によって決まる
例えば、スペルミスの訂正。編集者はこれを日常的によく行うけれど、これも作者の意図しているものといえる時だけ許されるもの。これがもし、詩だったら、スペルミスの訂正はなかなかできない(わざとやってるかもしれないから)。


物語と文体
物語と文体は論理的には独立だけれど、両者には重要な関係がある
Robinsonは、文体とは、作者がパーソナリティを表現する手法だとした。
フィクショナルな作者のパーソナリティ
作者の信念を推論するには、その作者のパーソナリティも関わってくる。同じ内容を書いたとしても、文体が異なり、パーソナリティが異なっていたら、フィクショナルな真理も違うかもしれない。


フィクショナルな作者と語り手
この両者を一致させるのはトラブルの元
明示的な語り手は、信頼できないことが多い。語り手の信念とフィクショナルな作者の信念が一致しない。
読者は、テキストは、知られている事実として誰かによって発話されているものである、と仮定している。
→それに対する反論:知的生命体のでてこないフィクション、それを語る人もいないのではないか→それでも、フィクショナルな作者を要求する理由がある。それは次の章で。


The Nature of Fiction

The Nature of Fiction

*1:ビアズリーは美学者、ウィムザットはニュークリティズムの論者。参考:http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/study/literary1.html