佐藤靖『NASA――宇宙開発の60年』

NASAの設立から現在までを、アメリカの政策や国際情勢、あるいはNASA内部の勢力図などから見ていく本。主に、アポロ、スペースシャトルISS、科学研究の4項目。


筆者は、28歳の時に科学技術庁を退庁し、その後、ペンシルヴェニア大で科学技術史の博士号をとっている(博論もNASA研究)。つまり、科学政策の実務経験もある研究者。
というわけで、政策の観点から見たNASA史となっている。


「そういえば自分、宇宙開発の歴史とかあんまりよく知らないなあ」と思っていたところ、なんか目に入ったので手に取った本
というか、恐竜といい宇宙といい、子どもの頃に学研のマンガとかで読んでいたけれど、大人になってから大人向けの本で読んでなかったジャンルなんだなと思う。
Newtonは読んでたから、個々のトピックについては知ってたりするんだけど。
宇宙開発について、子どもの頃に学研のマンガで読んでいたことがあったので、この本読んでても固有名詞とかはぽつぽつ見覚えがあったりした(ヴァンガードとかジュピターCとか)。あと、度々そのマンガの絵が思い浮かんだりしたw
でも、無論知らないことも多くて、へえそういうことだったのーみたいな感じで面白く読んだ。


これ読んで知ったことで一番大きいことは、NASAの各センターの話だった。
そもそも、ケネディ宇宙センター、ジョンソン宇宙センター、JPLの名前くらいは知っていたけれど、それ以外のセンターは名前すら知らなかったので、多少はNASAについて知っている人にとっては常識かもしれないけど。
それは、各センターは、それぞれ出自が異なっていて、それゆえにわりと独立した組織だったりもして、センター同士の主導権争いとかをよくやっているということ。
JAXAも、元々あった3つの組織を統合したので、プロジェクトがそれぞれNASDA系とか宇宙研系とかあるけど、それよりさらに複雑

序章 巨大技術組織の横顔

NASAの概要

第1章 NASAの誕生

まず、NASA以前
カリフォルニア工科大学と陸軍から生まれたJPL
ドイツから渡米してきたフォン・ブラウン
といった集団がすでに、陸海空軍でミサイル開発がそれぞれ行われていた
57年に国際地球観測年が始まり、ソ連スプートニクの打ち上げに成功する
アメリカも、海軍のヴァンガード計画を進める。が、海軍は以前から科学観測を行っていて、ヴァンガードも科学衛星と計画されており、それにまつわる予算やスケジュール超過がかさんだ。アイゼンハワーは、陸軍にも計画を進めさせる。ロケットをフォン・ブラウン人工衛星をピカリング率いるJPL、実験機器をヴァン・アレンが担当し、エクスプローラー1号を成功させる。
58年、NASA発足


各センター

  • 有人宇宙船センター(ジョンソン宇宙センター)

NASAの前身であるNACAの技術者を中心に、有人宇宙飛行計画を進めた
62年にヒューストンへ移転

  • マーシャル宇宙センター

フォン・ブラウンが率いるロケット開発チーム

ケープカナヴェラルにあるロケット発射事業センター

  • JPL(ジェット推進研究所)

NASA発足以前から、カリフォルニア工科大学と陸軍との契約に基づいて作られた
事実上、NASAのセンターとして機能しているが、組織上は、カリフォルニア工科大学に属する
もともと、ミサイル開発を行っていたが、ピカリングによって、無人月惑星探査を行う機関へと変わった

海軍の科学者・技術者を中心とした、科学研究を行うセンター


他にもワシントンDCにあるNASA本部、ラングリー研究センター、エイムズ研究センター、ドライデン飛行研究センターなどがある。

第2章 アポロ計画

ガガーリンの成功を受けて、ケネディ政権の宇宙政策への方向性が決まる
月面着陸の方式を巡って、有人宇宙センターとマーシャル宇宙センターとの対立があったり、NASAと大統領科学諮問委員会との間で対立があったり
サターンロケットの開発についても、マーシャル宇宙センターは慎重な計画を立てていたが、新しくアポロ計画責任者になったミラーが、スケジュールとの兼ね合いでそういう慎重な計画を放棄させる
月面着陸方式を巡る対立でも、サターンロケットの開発方針でも、フォン・ブラウンが素早く譲歩している。フォン・ブラウンというのは、調整力のある人というか、政治的判断ができる人で、だからこそ戦前のドイツ、戦後のアメリカを渡り歩くことができた、ということらしい。
アポロ計画では、システム工学が導入され、開発管理プロセスの合理化がなされ、それこそがアポロ計画という巨大な計画を支えたとされている。が、技術者達は、実践を重視し、また管制官パイロットの意見を尊重する考え方を身に付けていたので、システム工学的な考え方とは、緊張関係に。
アポロ計画は、当初予定されていた18〜20号は予算的な制約でキャンセルされている。
筆者は、この計画は目的を完全に達成し、政治的価値・文化的価値も高いものである、としている。

第3章 スペースシャトル

1970年代に入り、ソ連とのデタントアメリカ国内の社会問題への注目などから、宇宙開発への支持はしぼみ、予算は縮小へ
NASAの長官が、政治的能力の高いウェッブ(NASA以前は、宇宙開発分野での経験はなかったが予算局長官や国務次官を歴任していた)から、行政経験のないペインへと変わる。彼は、ポスト・アポロ計画を推進すべく行動するが、結局ニクソン政権の中で支持をとりつけることができない。長官がフレッチャーに変わった後、シャトル計画はニクソン政権の許可がでる。
スペースシャトル計画への政治的支持を固めるというのが重要だったようで、設計段階から国防総省からのリクエストは可能なかぎり受け付けるとか、航空産業の支持をえるために契約をバランスよく各関連企業にわりふったりしていたらしい。予算負担をへらすために、ヨーロッパの協力を模索したり。
また、人数縮小で、アポロ計画のときのようにNASA本部が集中的に管理できる状況ではなく、「主導センター」方式がとられる。
1981年に初飛行
そして86年に、チャレンジャー号事故が起きる
これについて調査され、スケジュールの遵守こそが優先されて、技術的な問題を認識しつつも見てみないふりをしていたということが明らかになる。議会などからの政治的支持をどうしても守らなければ、というのが背景にあったのだろうと思われる。
2年8ヶ月後、再開
ハッブル宇宙望遠鏡を含む科学衛星の打ち上げ、ISSの組み立てなど、有意義なミッションが続く。
が、2003年、再び事故が起こる(コロンビア号)。
やはりまた、リスクは認識されていたけれど見逃されていたということが分かる。チャレンジャー号事故のあと、色々対策はされていたけれど、時が経つにつれて緩んでいたという感じか。
スペースシャトル計画は結局中止となり、ピーク時には約150人いた宇宙飛行士も現在は50名程まで減っている。

第4章 国際宇宙ステーション

個人的には、NASAの活動では、国際宇宙ステーションが一番思い入れがあって、ちょうど子ども時代(90年代)に、フリーダムからアルファになって、最終的に国際宇宙ステーションになるという変遷と、それに伴う青写真とかを見てたから。まあ、規模が縮小されていく歴史なんだけども、リアルタイムにでかい計画が進んでるだなあっていうわくわく感があった。まあでも子どもだったので、この本を読んで、改めてそういうことだったのかあと思った。
まず、宇宙ステーション計画自体は、NASAの初期からあった、というところから驚いた。アポロとかスペースシャトルが優先されたために、なかなか進まなかっただけで。
初期の宇宙ステーションとしてスカイラブがあるけれど、これがサターンロケットの3段目を改装したもので、これにアポロ司令船を転用した宇宙船で乗り込んだ、という完全にアポロ計画の転用プロジェクトだというのも知らなかった
レーガン政権時代にゴーサインが出るのだけど、スペースシャトル以上に一筋縄ではいかない経緯を辿る


国際協調が重視されて、日欧加との協定が結ばれる
ここで、欧州は欧州でまとまってなくて、ドイツとイタリアはアメリカと協力して技術力を強めたい、フランスは独自路線をとりたい、イギリスは実用的な計画がいい、という各国の違いが、なんかとても各国らしいなあという感じがした


NASAの各センターへの業務分担がまた複雑
管理的には全く非合理な分担がされたのだが、各センターへの政治的配慮という意味でなされた分担だった
これはあとで合理化をはかろうとするのだけど、地元の雇用に影響を与えるので、議員から反対されるので、再調整が必要になったり
88年、レーガンが「フリーダム」と名づけてスタート
とはいえ、予算削減圧力もあるので、設計もなんども変更になったり、低コスト化や外注化が進む
クリントン政権において、さらに見直しが図られて、「フリーダム」は「アルファ」へと変わる。


ソ連が崩壊して、ロシアが参加することになる。「アルファ」は「国際宇宙ステーション」に変わる。
バイコヌールからも打ち上げることになるので、軌道傾斜角が変わって打ち上げ能力が実質的に下がったり、他の国の宇宙飛行士の搭乗機会が減るなどの制約もあるも、ミールで長年蓄積されたロシアの技術力が加わることになった。
また、安全保障上の理由もあり、ロシアの宇宙開発能力(つまりミサイル開発能力)が他国に流出しないために、アメリカが雇用を作るという意味合いがあった。
日欧加の技術者は英語が話せるけど、ロシアの技術者は英語が話せなかったり、ロシアの予算がつかないとか、そういう問題もあったらしい


色々ありつつも、国際宇宙ステーション計画が生き延びた理由として、筆者は二つあげる
一つは、航空産業の雇用創出
もう一つは、国際協調という政治的意味づけ
一方、国際宇宙ステーションは、科学研究がその意義としてあげられてきた。実際、様々な結果が報告されているが、費用対効果に見合ったものではないという。


有人宇宙飛行の目的は、究極、人を宇宙に飛ばすこと自体であるみたいなこともどこかに書いてあった気がするけれど
国際宇宙ステーションも、それを使って何かするというよりは、それを作ること自体がすごいことだったんだみたいなまとめで、あれってモニュメンタルな建築物だったんだなあという感想
将来的には、ピラミッドみたいな扱いになるんだろうか。
世界遺産として維持されていく、みたいな。

第5章 無人探査と宇宙科学

この章では、主にJPLゴダード宇宙飛行センターが担当してきた、NASAによる科学研究についてみていくことになる。
ただし、他のセンター、例えばマーシャル宇宙センターなども、大規模なロケット計画などが経るに連れて、次第に宇宙科学分野への関与を強めていったとのことである


60年代のJPLは、月面への突入をめざす「レンジャー」、金星や火星を目指す「マリナー」、月面への軟着陸を目指す「サーヴェイヤー」の3つの計画をすすめる
が、レンジャーは、1から6号まで失敗が続く。JPLはもともと、大学の組織文化が強く、研究者が個人主義的に進め、管理体制が整っていなかった。しかし、この度重なる失敗によって、そのような姿勢は見直され、システム工学が導入されるなどして、1964年、レンジャー7号は成功する。
一方、マリナーは、1号は失敗するもの2号は金星への接近に成功、3号も失敗するものの4号は火星への接近に成功する。特にマリナー2号の成功は、レンジャーの失敗が続いていたJPLにとってはラッキーだった。JPLの技術者は、失敗を恐れずチャレンジすることを好み、マリナーについてはそれがいいほうに働いたのである。
9号は火星の周回軌道に投入され、10号は水星を探査した。
サーヴェイヤーは、レンジャー計画の失敗を糧に、1号から成功している。


続いて、火星の軟着陸を目指すヴァイキング計画
これは、ラングリー研究センターとJPLが分担して行った。
NASA本部は、JPL以外のセンターにも科学研究計画を色々やらせていて、これは競争原理を働かせる意味があったり、JPLがあまりに独立心が強くて、NASA本部とのあいだに緊張関係があったりするかららしい。
ヴァイキングは1号2号ともに成功


JPLは、フライバイを利用することで、木星土星、さらにその先を目指す「ヴォイジャー」計画を提案する。
しかし、それに先立ち、エイムズ研究センターによる、木星土星を目指すパイオニア10号、11号が計画される。
エイムズ研究センターは、地球周回軌道から観測を行うパイオニア6〜9号を打ち上げた実績があった。また、NASAの思惑として、全くの新規計画として出すより、パイオニアの続きとして提案した方が、議会の承認を得やすいだろうという考えがあったらしい。
イオニアってなんで10号なんだろう、それより前の奴は一体なんだったんだろうっていう疑問がちょっとあったんだけど、そういうことだったとは
で、パイオニアに続くヴォイジャーなのだが、
当初、NASA本部からは、木星土星行きまでしか認められていなかったが、目標の上方修正が来ることを見越して、JPL天王星海王星まで行けるプランを提案したらしい。
この本には、通信技術の向上が必要になった、くらいしか書かれてないけど、確か、この時、作られた技術ってCDMAだよね?
あと、パイオニアから得られた知見をもとに、ヴォイジャーから、放射線防護されるようになったとか
イオニアは、95年と03年に電池切れで通信途絶
一方、ヴォイジャーは現在も運用が続いている。98年にヴォイジャー1号はパイオニア10号を追い越し、2013年にはヘリオポーズを越えている


その後、JPLは彗星探査の失敗、業務の多角化国防総省への接近などを経て、Faster, Better, Cheaperという方針に基づいて計画を進めていくことになる。
NEAR計画を、NASAセンターでもない他の大学にとられるというJPLにとってショッキングなこともありつつ、マーズ・パスファインダーとかスターダストとか、FBCのもと成功させいていく。
一方、FBPを進めつつ、そうではない大型プロジェクトとして、ガリレオカッシーニも進める


他の天体に探査機を送り込むJPLに対して、観測を担ってきたのが、ゴダード宇宙飛行センター
気象衛星地球観測衛星、軌道上天文台など


ハッブル宇宙望遠鏡について
60年代から、天文学者からNASAに要望が出される
72年、マーシャル宇宙センターが中心となり、ゴダード宇宙飛行センターとともに検討が始まり、83年ハッブル宇宙望遠鏡と名づけられる。
実際に打ち上げられるまでには紆余曲折を経ており、77年に予算化された、86年に打ち上げが視野に入ってくるがチャレンジャー号事故が起きてさらに延期し、90年にようやく打ち上げられる。
しかし、鏡に2ミクロンの歪みがあって、予定されていた精度が出ないことが判明。93年に、宇宙遊泳によって改修が行われる。
その後、きわめて大きな科学的成果をあげる


筆者は、近年のNASAが有人宇宙飛行では方向性を見失っているが、科学研究ではその存在感は大きいとしている。

終章 時代のなかのNASA

原子力、情報技術、医療保健といった他の科学技術分野との比較で、宇宙開発について考える章
原子力、情報技術、そして宇宙開発は、どれも軍事分野からスタートして、科学技術を牽引していった分野であるが、情報技術分野の発展に対して、原子力、宇宙分野は衰退している。また、近年の科学技術政策においては、医療保健分野は著しく延びている。
こうした傾向について、筆者は、科学技術の、分権化・分散化の流れを見る。
その流れの中、NASAはどうなのか。
予算と人員削減が続くなか、そういう時代の流れに逆行して、集権化・官僚化が進んでいると見る。「主導センター」制など一部に分権化の流れも見られるが、官僚組織である以上、硬直化は免れていない。
では、NASAは今度どうすればいいか。
それは本書の範囲外であると、すでにまえがきで述べられている。

NASA ―宇宙開発の60年 (中公新書)

NASA ―宇宙開発の60年 (中公新書)