スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール』

認知考古学者ミズンによる、音楽と言語の起源に関する仮説についての本。人類の祖先は、ミズンがHmmmmmと呼ぶコミュニケーション形式を用いていた。ネアンデルタール人は、Hmmmmmを高度に発達させたが、言語を獲得することはなかった。一方、ホモ・サピエンスはHmmmmmから言語を獲得し、また言語と分化したHmmmmmが音楽となっていたという仮説。
Hmmmmmは、Holistic, Manipulative, Multi-Modal, Musical, and Mimetic(全体的、操作的、多様式、音楽的、ミメーシス的)の略。初期人類が持っていたとされるコミュケーション方法の諸特徴。


本書は、二部構成になっており、一部が現代、二部が過去を扱っている。
一部では主に心理学などの知見を用いながら、言語と音楽の類似点、相違点や音楽の特徴などを論じていく。
二部では霊長類学や考古学の観点から、霊長類やホモ・サピエンス以外のホミニド(ヒト科)がどのようなコミュニケーションを行っていたのかという点を中心に、人類史を見ていくことになる。

1 音楽の謎
第1部 現在
2 チーズケーキ以上?
3 言語なき音楽
4 音楽なき言語
5 音楽と言語のモジュール性
6 乳幼児への話しかけ、歌いかけ
7 音楽は癒しの魔法
第2部 過去
8 うなり声、咆哮、身振り
9 サバンナに響く歌
10 リズムに乗る
11 模倣する性質
12 セックスのための歌
13 親に求められるもの
14 共同で音楽を作る
15 恋するネアンデルタール
16 言語の起源
17 解けても消えない謎

音楽と言語

音楽の起源についての研究が、心理学や考古学で無視されてきたこと(その中にはミズン本人も含まれる)ことを指摘し、音楽研究の重要性を提言する。
民族音楽学者のジョン・ブラッキングやブルーノ・ネトルを引きながら、音楽が言語と同様、人類にとって生得的・普遍的な能力であるとする。


言語の起源については、原型言語に関して2つの説がある。構成説と全体説である。構成説は、文が単語から「構成」されるというところからこの名があって、原型言語が文法を持たない単語だけのものだったと考える。一方、全体説は、まず文「全体」の意味があって、単語が切り分けられたという考えで、原型言語は文だったと考える。例えば、慣用句などは単語に切り分けても意味が分からず、全体が揃って初めて意味が通じる。そういうものが先にあったと考えるのが全体説だ。
ビッカートンなど著名な、言語進化の研究者は構成説を主張しているらしいが、それに対して、アリソン・レイという言語学者が全体説を主張しており、ミズンはこちらの立場に立っている。
HmmmmmのH、Holistic(全体的)はここからきている。。


言語と音楽の関係について、例えばピンカーの有名な「チーズケーキ」発言に見られるように、音楽は言語の副産物であるという考えがある。またここから、その逆の、言語は音楽の副産物であるという考えもありうる。また当然、言語と音楽は全く関係がないという考えることもできる。
しかし、ミズンは、そうは考えない。
音楽と言語には多くの類似点が見られる。この点で、全く無関係とはいえない。一方、相違点もまた様々にあり、一方が他方から生じたとみなすのも難しいのではないかという。
言語と音楽には共通の先駆体があったのではないかとみなす。そして、この先駆体のことをミズンは、Hmmmmmと呼ぶのである。

第1部 現在

病変解析から

3章と4章では、音楽と言語の類似点と相違点を考えるため(音楽の能力も言語能力と同様、結構生得的な部分あるかもとか)に、様々な症例が紹介されている。
失語症患者において、言葉は分からないのにメロディを聞き分けることのできる例や、生まれつき言語障害や知的障害がありながら音楽について天才を持ち合わせていた音楽サヴァンの例
あるいは逆に、失音楽症という、音楽に関する能力が失われた例や、生まれつき音楽に関する能力を持ち合わせていなかった例など
これらの症例から、音楽と言語がある程度は関係しており、またある程度は独立していることや、また一言で音楽に関する能力といっても、言語能力と同様、細分化できることなどが分かる。
音を聞き分けられるかどうかと一言でいっても、言葉が分かるかどうか、環境音が分かるかどうか、音楽が分かるかどうか分かれるし、またメロディか分かるかどうかとリズムが分かるかどうかというのも分かれる。
ここらへん実際の症例はかなり色々なパターンがあって、音楽は分からないけどリズムは分かるのかとか、メロディの調性は分からなくなっているけど言葉の韻律は分かるのかとかの実験も色々行われている。出力だけできなくなっている例とかもある(頭の中に音楽はあるが楽譜に書けなくなった作曲家とか)。
イザベル・ペルツは失音楽症などの研究を通じて、脳内における音楽モジュールの構造モデルを提示している。
ただし、こうしたモジュールについて解剖学的な位置まではまだよく分かっていない。生得的であるとはいえ、音楽家と非音楽家、あるいは文化などの影響を受けて、人によって大分異なることも予想される。

発達心理学から

IDS(Infant Directed Speech)いわゆる赤ちゃん言葉
韻律などに特徴がある(大人に向けて話すよりも誇張されるなど)。
IDSは、子どもをあやしたり、注意したりするために使われる。IDSは言語を習得させるために使われているとも言われているが、その役割には留まらない。}
また、言語によらない普遍性があるとも。何語であっても、ピッチ曲線に共通点があり、他の言語であっても、同じピッチのパターンであれば、赤ん坊は適切な反応をしたという実験結果がある。
赤ん坊は、無意味な文字列であっても、規則的にあらわれるかどうかというのを認識している。これによって、単語を切り分けて言語を獲得していると考えられているが、これはメロディについても同様のことができる。
赤ん坊はもともと絶対音感を持っているが、言語獲得と共に絶対音感は失われ、相対音感になるらしい。絶対音感は言語習得の妨げとなっているため。また、言語能力の障害のある自閉症児などはそのまま絶対音感を持ち合わせているらしい。

音楽と感情の関係

感情については、ディラン・エヴァンズ『感情』 - logical cypher scapeを参照(実際、本書ではこの本が参考文献にあげられている)。
音楽学者デリック・クックは、特定の音階と感情の結びつき(長音階が喜びなど、短音階が悲しみなど)を論じたが、彼はこれが西洋音楽の歴史の中で生じたもので非西洋ではこのような関連づけにはなっていないと論じた。これに対してブラッキング、そしてミザンは、人類にとって普遍的な関連があるのではないかと考える。
心理学者パトリック・ジュスリンが1997年に行った実験などを引きながら、音階やあるいは演奏方法と感情表現とのあいだの繋がりについて論じている。
またさらに、音楽療法などの例を交えながら、音楽が他者の感情を引き出したりすることができることにも触れながら、ピンカーがいうほどに音楽が適応的ではなかったわけではないとしている。

第2部 過去

霊長類

ベルベットモンキー、ゲラダヒヒ、テナガザル、チンパンジーボノボ、ゴリラといった非ヒト霊長類のコミュニケーションを概観して、それらの特徴を抽出していく。
一つは、単語やそれを組み合わせる規則(文法)を持たない、「全体的」という特徴である。例えば、ベルベットモンキーは、ヘビを見たとき、ワシを見たとき、それぞれ特定の警戒音を出すが、こうした警戒音は「ヘビ」や「ワシ」という単語を意味しているのではなく、そのひとかたまりで「ヘビに注意しろ」とか「ワシが来るから逃げろ」とかいったメッセージを担っている
もう一つは、「操作的」であるということだ。「あれはワシだ」などというように指示して(世界の事物について説明して)いるのではなく、「ワシが来るから逃げろ」というように相手を操作するために使われている。
これに加えて、ゴリラやチンパンジーボノボに当てはまる特徴として、声だけでなく身振りも使うという、「多様式」がある。
リズムやメロディを使うという点で「音楽的」でもある。

初期ホミニド

いよいよ、ホミニド(ヒト科)の話となる。
まずは、600〜200万年前までの初期ホミニドだ。
彼らは、樹上生活から開けた土地での生活を始めるようになった。また、どれくらい食べていたのか、狩りをしていたのかなど論争はあるが、肉を食べるようになっていた。
肉食への移行は、顎の小型化をもたらし、発声の解剖学的な下地となった。
開けた土地で生活していたため、群れが大きくなった。これは、捕食者から身を守るためである。周囲に捕食者がいる環境では、大きな声を出すよりは、声を小さくして、身振りを中心としたコミュニケーションが発達したと考えられる。
また、類人猿はグルーミングを行うことによって団結を高めているが、集団が大きくなるにつれて、これは難しくなる。人類学者アイエロとダンバーは、それを解決するための音声的なグルーミングとして言語が生まれたという仮説を提唱したが、言語は安上がりすぎてグルーミングとしての価値があるかどうか分からない。ミズンは、これが歌であるならばどうかと考える。
ホミニドの特徴である二足歩行の起源は何か。現在有力な説は、まず第一段階として果物をとるための補助手段として発達し、第二段階として、開けた土地における日射を避けるために完全な二足歩行へと移行したというもの。
二足歩行を制御するのは結構大変で、そのために脳が巨大化した、とも。
また、ミズンは現在の音楽療法の例から、二足歩行するためにはリズムをとって運動を協調させることが重要だということから、音楽と運動との関わりを指摘している。

ホモ・エルガステルなど(原人)

200万年前を過ぎた頃から、人類はアフリカを出て拡散を始める。
完全に二足歩行へ移行したと考えられているホモ・エルガステルや、おそらくその直近の子孫でジャワ島から発見されたホモ・エレクトゥス(180万年前)、同じくヨーロッパから発見されたホモ・ハイデルベルゲンシス(75万年前)など。彼らは、アウストロラピテクスなどの初期ホミニドと比べて、さらに現代型の体型となっており、140万年前からハンドアックスとよばれる新しいタイプの石器を作るようになっている。
見知らぬ土地への拡散、そして道具を用いて大物狩りを行うようになったと考えるこの頃のホミニドは、様々な情報伝達を行う必要がある。そのために使われたのが「ミメシス」、つまり動物の動きの真似などではないかと考えられる。
さらにここでは、言語学者イェスペルセンが1920年代に提唱したという「音共感」というものを紹介している。音と物の大きさには関係があるという現象だ。小さいものには「イ」音が使われ、大きいものには「ウ、オ、ア」音が使われるという。近年になってバーリンは、こうした音共感などへの研究を進めている。さらにバーリンの研究では、ペルーのワンビサ語で「チュンキュイキット」と「マウツ」では、どっちが鳥の名前でどっちが魚の名前かというのを英語話者の学生に答えさせるという実験を行い、98%の正答率を得た。
物と名前の関係は恣意的である、というのは言語学の基本的な考え方だが、実はそうではないところもあるのではないかというのである。
身振りや擬音、そしてこうした音共感なども含めて、ミメーシス的な特徴が、ホミニドのコミュニケーションにはあったのではないか。これで、Hmmmmmの全てが揃った。Holistic, Manipulative, Multi-Modal, Musical, and Mimetic(全体的、操作的、多様式、音楽的、ミメーシス的)である。これらの諸特徴が全て融合していたのが、ホミニドのコミュニケーション体系だった。


先述したハンドアックスの話
高度な対称性を持っている。大量に作られ、あまり使われずに廃棄されていた。というようなことを説明するための仮説として、異性を引きつけるために作ったのではないかというセクシーなハンドアックス仮説が紹介されている。
類人猿や初期ホミニドはオスの方が体が大きいという性的二形なのだが、ホモ・エルガステルから雌雄の大きさの差が小さくなっている。また、メス同士の協力ネットワークができていたのではないかとも言われ、オスの体格のよさによって繁殖に至るということができなくなってきた。優良さの指標としてハンドアックスが上手く作れるかどうかが使われたのではないか、と。ここらへんの話、音楽とあまり関係ないのだけど、もしかしたらハンドアックスだけじゃなくて歌も使われたかもねみたいに繋いでたりはするw


もう少し直接的に歌の話として、親子のコミュニケーションの話
ホミニドから体毛がいつころ失われたのか(正確には短く薄くなった)はよくわかっていないが、体毛が失われると、乳児は母親の体にしがみつけなくなる。チンパンジーの赤ん坊なんかはずっと母親の体毛にしがみついている(赤ちゃんが何でもぎゅっと握るのは、その頃の名残らしい)。体毛がなくなるとそういうことができないが、かといって母親がずっと抱きかかえているわけにもいかない。赤ん坊を地面におろさざるをえないことが出てくる。その際、体を接触させる代わりに赤ん坊を安心させるために、Hmmmmmが使われたのではないか、と。現代におけるIDSの役割等は既に述べられたとおり。


ミズンは、音楽の特徴として、共同で行われれることをあげている。共同で行われるということは、パートナー選びのために音楽が進化したという考えとはあまり相性がよくない(ただし、ホタルのように群れ同士でメスを奪い合うケースなどもあり、共同で行うからといって繁殖と無関係というわけではない)。
ホミニドは、集団が大型化し、狩りなどを行うようになっていたし、メス同士協力して子育てするようにもなっていた。つまり、協力するということが重要になっていた。協力行動が進化する過程において、音楽が使われていたのではないかとミズンは考える。
ロバート・アクセルロッドは、協力が促進されるためには、将来の対戦が今より重要だと思わせることと頻繁に対戦することを挙げている。ミズンは、共同で音楽を作ることはこれにうってつきだという。何故なら、音楽はコストがかからないからだ。何か他の作業をしながら、リズムを鳴らしたり歌ったりすることができる。一緒に歌わない者は、将来も協力してくれないかもしれない。
しかし、音楽はコストがかからないがゆえに、フリーライドの問題もある。音楽作りには参加するが、短期的利益を得たら裏切る者だ。
ここで注目されるのは、ウィリアム・マクニールが、共同での音楽作りにおいて「境界の消失」が起こると考えていたことだ。マクニール自身の軍隊生活や伝統社会での踊りなど、音楽(リズムにあわせた行進、踊り)によって幸福感、充実感が生じて、集団との一体感が生じる。幸福感を持っている人ほど協力的な傾向になるという心理学の実験結果もあるらしい。音楽による集団の一体感が、協力関係を促進するということだ。

ネアンデルタール人

ネアンデルタール人は、生物学的な特徴については、現代の人類とほとんど変わるところがなかった。しかし、ネアンデルタール人ののちに、アフリカで進化したホモ・サピエンスが世界中へ広がっていきしばらくすると、ネアンデルタール人は絶滅してしまった。ネアンデルタール人は25万年前頃にあらわれ、3万年前頃に絶滅したが、その間、彼らの生活様式はほとんど変化しなかった。
ネアンデルタール人ホモ・サピエンス、脳の大きさなど体の構造はほとんど同じはずなのに、どこで差がついたのか。
ミズンは、前著である『心の先史時代』において、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの違いとして、認知的流動性の有無を挙げていた。ミズンは、知能がモジュール化していると考える。博物学的知能や社会的知能など。これらについては、ネアンデルタール人も十分に発達していた。動植物についての知識は豊富であったし、また一方で集団行動するための協力行動なども十分にとることができた。しかし、それらのモジュール間の連絡がなかった。ホモ・サピエンスは、これらのモジュールの間に繋がりがあった。これをミズンは認知的流動性と呼ぶ。
本書ではネアンデルタールの文化について、このような観点に加えて、Hmmmmmから捉える。
Hmmmmmは全体的であるため、単語の組み合わせで新しい表現を作ることができない。このことが、20万年にわたる文化の保守性をもたらしたのだという。
氷河期を狩猟生活をしながら生き延びたネアンデルタール人は、高度に協力行動を発達させてきたと考えられ、これにHmmmmmが大いに役に立っただろう。また。狩猟生活によって平均年齢が低く、そのため子育てにおいては、地面におろさざるをえないことも増えて、やはりここでもHmmmmmが使われた。埋葬の際や、あるいはパフォーマンスなどにも使われたのではないかとミズンは推測する。
認知的流動性が、ホモ・サピエンスにあってネアンデルタールにはないことの証拠として、象徴的人工物の欠如をミズンはあげる。ネアンデルタール人は世界についての知識と、ものを加工したりする技術を組み合わせることができなかった。だから、象徴となるようなものを作れなかったのだという。ミズンが一方で注目するのは、ホモ・サピエンスが作った動物の頭で体が人間の像である。認知的流動性によって、知識と技術が融合した結果、このようなものが作れるようになり、宗教や芸術が生まれたのだという。
ネアンデルタール人の遺跡からは壁画などは見つかっていない。また、彼らがボディペインティングしたのではないかと言われているが、ミズンは(ニコラス・ハンフリーを参照しながら)赤い顔料が見つからないことから、仮にボディペインティングしていたとしても、象徴の理解までいっていなかったという。
また、骨を叩くなどという原始的な方法で音を鳴らすことはあっても、楽器は作れなかったと考えている。楽器の加工にも認知的流動性が必要だからだ。一方、ネアンデルタール人の遺跡から「笛」が発見されたといわれたことがあった。ミズンはこれはありえないという。実際、この「笛」は、肉食獣が骨を噛んだ痕なのではないかと言われている。
ネアンデルタール人は言語能力を持っていなかった。しかし、それゆえに、すでに見た音楽サヴァンのように絶対音感を持ち合わせ、現代の人類には感知できない、音のパノラマを感じていたのではないか、とミズンは述べている。

ホモ・サピエンス

アリソン・レイによれば、全体的な文の共通部分を抽出することで、分節化が生じ、構成的言語が生じたという。
ビッカートンやトーラーマンは、レイのいう分節化が現実的ではないといって批判しているが、ミズンは、Hmmmmmのように、音共感や身振り、さらに韻律による誇張などがなされていれば容易ではないかと考える。また、サイモン・カービーが、コンピュータを使って行った言語進化のシミュレーションでは、ランダムなシンボル列から言語が獲得されていった。これは、チョムスキーがいう「刺激の貧困」が実は言語獲得にとって問題ではなかったかもしれないことも意味している。
では何故そのような言語への分化がホモ・サピエンスにおいて起きたのか。多くのホミニドは、集団間での交流はほとんどなく、親密な集団内部でのみ交流していた。それが、アフリカから進出したホモ・サピエンスは集団間同士の交流をしており、そこで馴染みのない発話を耳にすることが増えて、カービーのシミュレーションで行われたようなことが起きたのではないかという。
ただし、生まれた当初の構成的言語は、コミュニケーションにはうまく使えなかった。むしろ、個人が自らの思考を整理する独り言のために使われた。しかし、それは確実に認知的には有用で、次第にコミュニケーションにも使われるようになっていった、と。
そして、言語の誕生は認知的流動性に繋がっていった。


言語が生まれたことによって、Hmmmmmは無用のものとなってしまった。
認知的流動性は、超自然の存在を生みだす。こうした超自然の存在とのコミュニケーション手段として、Hmmmmmは生き残り、音楽となったのではないか。
また、Hmmmmmの残りとしては、IDSも挙げられる。定型表現や擬音、音共感もその名残だろう、と。

感想

仮説としてはとても面白い話だったけど、先史時代を扱っている以上仕方ないことだが、証拠が少なく推論に推論を重ねているところが多い。
そもそも化石人類がどういうコミュニケーションをしていたかなんていうのは、証拠が少ないどころか、そもそも直接的な証拠は残りようない話であって、そこを霊長類学や心理学、言語学民族音楽学と多彩な学問の知見を借りてくることで補っている。
この仮説は、ピンカーが音楽は言語の副産物であって適応的ではないよねって言ったことにたいして、いやそんなことはないよという反論でもある。
本書の中でも出てくるが、ダーウィンやミラーは音楽は性選択の産物だと考えていた。性選択というのはハンディキャップ理論で説明される。もし音楽が性選択だったとすると、歌は一種のハンディキャップだったことになる。ミズンとしては、性選択によって進化した時期もあるだろうけど、全面的に性選択だけではないと言いたいっぽい。
ミズンが重視しているのは、協力行動の促進だろう。音楽は協力行動を促進させたから適応的だと。じゃあ、どうして音楽は協力行動を促進させるのか。セロトニンがどうのとかも言ってるけれど、ここらへん、音楽は協力行動を促進させるものとして進化してきたから協力行動を促進させるのだ的な、循環論法っぽさを感じてしまう。協力行動の章は、ゲーム理論と絡ませていたあたりが面白いなあと思ったけれど。


認知的流動性の話は、前作で主にしていた話で、本書はそれを前提にさらに議論を展開するというものなので、必要最低限の説明しかないのだけど、宗教や芸術の起源になったということでとても興味深かった。
知能モジュールが組み合わさることで、獣人とか超自然の存在が考えられるようになったとか、とても面白いと思う。
ただ、この説は、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスとの間に質的な隔たりがあるということが大前提になっている。これが考古学上の問題で、これを解決するための仮説が、認知的流動性だ。
ホモ・サピエンスだけが急激に進歩したのを「大躍進」などと呼ぶらしいが、ピンカーは証拠があまりにも少ないために、劇的な違いがあるかのように見えているだけなのではないかとスティーブン・ピンカー『心の仕組み』 - logical cypher scapeで書いている。もしそうだとすれば、ミズンの前提が成立しなくなるのかな、と思う。
とはいえ、このあたりは、ピンカーは心理学者でミズンは考古学者なので、ミズンの方が分があるのかなあという気もする。
ミズンがいうには、ネアンデルタール人が生物学的には現代人と同じだからといって、ネアンデルタール人の遺跡から象徴を頑張って見出そうとしちゃう学者もいるけど、やっぱり象徴を理解していたと見なせる証拠は見つかってないとのこと。ただ、これって一方で、ミズンはネアンデルタール人が象徴を持ってるはずがないと思っているから、そう見ちゃうんじゃないかとか考え出すと、きりがない。


それ以外にも、音共感とかマジかよ、みたく思うものがあったりするのだけど、言語学民族音楽学、心理学、霊長類学、考古学をずらーっと並べていって紡ぎ出された一つのストーリーとして、やっぱり面白くて
ネアンデルタール人は、現代人にはもはや感覚することのできない(例外的に自閉症児とかは感覚できてるかもしれない)音のパノラマを生きていたというビジョンが素晴らしくて、なんかSF的な感動がある。
音のパノラマってなんかこう、個人的には感覚拡張系SF的な感じを受ける。
我々人類とは異なるコミュニケーション体系を持った知性、というわけだから、これがSFでなくてなんだというのだ
というか、ホモ・サピエンスがアフリカからヨーロッパに進出した際、ネアンデルタール人はまだヨーロッパにいたわけだし(そのあたりの話も本書にはでてくる)、ホモ・フローレシエンシスなんて1万数千年前までいたわけで、ホモ・サピエンスは数万年前には他のホモ属も暮らす世界で生活していた。
ポストヒューマンならぬプレヒューマンとでもいうべき異種知性ものとか考えると、ちょっと楽しいなと思った。

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

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