『美学芸術学論集(特集:脳/美学――脳科学への感性学的アプローチ』神戸大学芸術学研究室

レポジトリからpdf落として読めたので、読んでみた。神戸大学学術成果リポジトリ Kernel
神経美学のシンポジウムが近いのでその予習、と思ったからというわけでもなくw 
たまたま、じゃぶらふきゅーさんに教えてもらったので
『歌うネアンデルタール』そろそろ読まないとなー

井上研「脳画像の認識論と神経美学

fMRIによる脳機能イメージング画像を用いた研究について、逆向きの推論について注意、というような話
fMRIによって得られた画像から何らかの主張を引き出す際の推論は、演繹的ではなく、飛躍がある。飛躍があるからといってそれが直ちによくないというわけではないが、注意しなければならないものもある。
そうした注意すべき飛躍として、逆向きの推論というものがあげられる。
まず、順向きの推論。被験者がXという行為をした時、部位Aが反応している画像が得られた。ならば、Xという行為によって部位Aが反応する。というようなもの。
逆向きの推論は、被験者の部位Bが反応している画像が得られた。Yをしている時に、部位Bは反応する。よって、被験者はYをしていた。というようなもの。
部位Bは、Yの時だけでなくZの時にも反応するかもしれないので、Bが反応したことをもって、Yであるとはいえない。
ところが、神経○○学というような研究分野において、特に複雑な機能について研究しようとすると、このような逆向きの推論を行っていることがまま見られる。神経美学でもまた、同様のことは行われている。
ところで、推論の飛躍のことを、「認識論的ギャップ」と呼んでいたのだけど、何でだろう。認識論的ギャップっていうと、心の哲学におけるタイプB物理主義云々を思い出すけど。何かもう少し別の意味合いももった言葉なんだろうか。

門林岳彦「美はどこへ行ったのか?―神経美学の批判的系譜学―」

なんでか忘れたけど、この論文だけ以前読んでいたので、今回はちゃんと読まなかったのだけど、ゼキの神経美学やオナイアンズの神経美術史、フェヒナーの実験美学を取り上げながら、こうした試みが「美」という観念抜きで行われていることを指摘している。

唄邦弘「人類の誕生とその進化―人間と動物の境界をめぐって―」

こちらは、認知考古学の紹介的な。
ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの共存と交代劇についてどう解明するか。
まず、ミズン*1の認知考古学について。進化心理学による「心のモジュール性」を人類の進化プロセスに対応させる試み。「人類の心の基本構造を進化の最終形態とした、単純なも
のから複雑なものへという単線的な進化論を意味している」
また、20世紀初頭のマルセラン・ブールの研究も紹介。ミズンが、現代人の心理学的な知見を考古学へ当てはめていったのに対して、ブールは人類学を使っている。つまり、「未開人」についての研究を利用している。

岩城覚久、真下武久、堀翔太「脳・メディア・芸術・医療—《光・音・脳》(2010)―」

《光・音・脳》というインスタレーション・アートについて、被験者、制作者、解析者の立場からそれぞれ書かれている。先に言ってしまうと、被験者の立場として岩城の書いた部分が一番読み物としては面白い。
《光・音・脳》というのは、筒の中に被験者が入り込み、その筒の内面に映し出される様々な色が次々と変わっていくのを見て、音響を聞く。そして、その被験者の脳活動を計測して、「快」を感じている時の色を持続的に映すようにするというもの。
美術作品であると同時に、神経科学の実験にもなっているという試み。
岩城は、心理学の全体野からその筒の中で見る色について述べたり、一人称的な経験と三人称的なデータとのズレについて論じている。その色を見ている経験は、日常的に自分が感じている「快」や「不快」とは異なるが、快か不快かと聞かれればそのようにも思う、という話。リラックスや緊張といった脳波を検知して動く玩具について、実際にリラックスや緊張しているかとは別に、その玩具を動かすにはどうすればいいのかトレーニングできるだろうという話と共にされている。

*1:当論文ではマイズンと表記