限界研編『ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF』

店頭に並ぶのは25日からの予定ですが、見本が届きました!

というわけで今日は宣伝記事
こちらの本に、瀬名秀明「希望」論を書かせていただきましたので、是非皆さん読んでみて、よければお買い上げお願いしますw

概要

現代日本SFをめぐる評論集
タイトルにある伊藤計劃だけでなく、宮内悠介や長谷敏司飛浩隆円城塔などを論じた、いわゆるSF小説の作品論を中心にしつつ、アニメや映画について論じたものや、SFミステリ、ネット小説といった近隣ジャンルの小説について論じたものもあり、SFど真ん中じゃない人にも興味を持って読んでもらえるものが何かしらあるかと


個人的にお薦めなのは、冒頭の岡和田晃「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題」と末尾の飯田一史「ネット小説論――あたらしいファンタジーとしての、あたらしメディアとしての」の2編。
岡和田論は、現在のいわゆる「伊藤計劃バブル」に対して疑義を呈して、伊藤計劃の問題意識を共有している作家を拾い上げていくもの。特に、宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』と八杉将司『Delivery』を論じている。本書のサブタイトルである「伊藤計劃以後のSF」というものをもっとも真正面から論じたもの。
一方の飯田論は、伊藤計劃も関係していないし、いわゆるSFについて論じているものでもないのだけど、近年急速な広がりを見せつつもまだほとんど論じられていないネット小説について論じている。飯田のすごいところは、ネット小説についてそのビジネスモデルやプラットフォームといった外的な観点と、実際にネット小説を大量に読み込んでその内容についての観点の両方から、ネット小説の全体像を描き出しているところである。ファンタジー小説の変化、ライトノベルとの違い、「ループから転生へ」など、注目に値する論点が多く含まれている。


『イメージの進行形』の渡邉大輔によるSF映画論、『虚構内存在』の藤田直哉によるゾンビ論なども読み応えあります。
また、まどマギ論、ピンドラ論、エ/ヱヴァ論といったアニメ評論本を次々と発表している山川賢一さんがゲストとして参加し、まどマギ、ピンドラ、エヴァといった作品のテーマの起源として『風の谷のナウシカ』を論じています。


で、僕は何を書いたかというと
瀬名秀明の「希望」について論じています。
「希望」という作品については、ネットでの評判などを見ると難解だというものが多いし、また僕自身もそう感じていたので、それについて論じることで少しはその難解さを解きほぐせないかということを目指したものです
難解である原因はおそらく二つあって、
一つは、今までの瀬名作品であれば肯定的に描かれていた価値観が、一転して否定的に描かれていること
もう一つは、これは「希望」に限らず最近の瀬名作品に見られることだが、小説として特定の人物に感情移入しにくくなっていること
これらについて、「亜人*1を擬人化しないこと」ということを通して、一つ目の問題については、単に否定したのではなくさらにテーマを進めようとしていること、二つ目の問題については、そのような形式が何故とられたかについて論じています。
これら二つの問題は、亜人(人間のようで人間でない存在)の問題と、フィクションの問題という、僕が以前からことあるごとに『筑波批評』なんかで論じてきたものとも繋がっています。
また、瀬名秀明の過去作品だけでなく、飛浩隆「ラギッド・ガール」や長谷敏司BEATLESS』にも言及していますが、「ラギッド・ガール」は亜人の問題とフィクションの問題が関わり合っているということ、『BEATLESS』は「亜人を擬人化しないこと」にとって重要なポイントとなってます。

宣伝その2

まだ先の話ですが、9月1日に青山ブックセンターで刊行記念トークイベントやります。
大森望さんをゲストにお呼びして、飯田さんが司会で、僕と、今回円城論を書いた藤井くんが出演します。
詳しくはまたいずれ

各論紹介

岡和田晃「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題――宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』を中心に」

まず、神林長平が「いま集合的無意識を、」の中で展開した『ハーモニー』論を批判するところからはじまる。そこから岡和田は、神林が捉え損ねた伊藤計劃が有していたテーマを析出する。
そして、宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』、八杉将司『Delivery』の検討へと移っていくのである。『ヨハネスブルグの天使たち』論は、「北東京の子供たち」を除く4編について詳細に論じていている。

海老原豊カオスの縁を漂う言語SF――ポストヒューマン/ヒューマニティーズを記述する」

神林長平『言壺』(ワーカム)、伊藤計劃虐殺器官』(虐殺の文法)、飛浩隆『ラギッド・ガール』(情報的似姿)、伊藤計劃『ハーモニー』(etml)、長谷敏司『あなたのための物語』(ITP)、伊藤計劃円城塔屍者の帝国』(菌株X)を次々と見ていくことで、これらのSF作品で見られる言語観の変遷を辿っていく。

シノハラユウキ「人間社会から亜人へと捧ぐ言葉は何か――瀬名秀明「希望」論」

上で書いたので略

藤井義允「肉体と機械の言葉――円城塔石原慎太郎、二人の文学の交点――」

円城塔「Boy's Surface」「道化師の蝶」、石原慎太郎「院内」といった作品を読むことで、彼らには実は、言葉をどのようなものとして捉えるかということについて共通点があることを見出していく。

藤田直哉「新世紀ゾンビ論、あるいはHalf-Life半減期)」

とにかくひたすらゾンビゾンビゾンビ
ゾンビが近年様々な意味で「拡大」していることを論じているゾンビ論
まずは、ゾンビの特徴が21世紀になって変化したことを、ゾンビ作品のメディアの変化と対応させて論じていく。「メディア内存在」としてのゾンビ
ビデオテープからDVD、ゲーム、そしてスマートフォンへとメディアが移り変わるにつれて、ゾンビは遅くて腐っている存在から、速くて清潔な存在へと変化していくという。極めつけは、ラノベに出てくる「美少女ゾンビ」である。
さらに作品内容の分析へと移り、『屍者の帝国』『ハーモニー』、ゾンビ映画ショーン・オブ・ザ・デッド」「ゾンビーノ」、アニメ「東のエデン」、ゲーム「デッドライジング2」、『BEATLESS』などを次々と見ていきながら、ゾンビが管理できる存在、さらには共存できる存在へと描かれ方が変化していったことを論じている。

山川賢一「アンフェアな世界――『ナウシカ』の系譜について」

エヴァ」、「まどマギ」、「ピンドラ」、「ウテナ」に共通するモチーフがあり、その起源として『風の谷のナウシカ』があるとして、そうしたモチーフ群について検討していく。
エヴァにでてくる「ホメオスタシス」と「トランジスタス」という二項対立を敷衍させていく。山川は、その対立を調停するフェアなゲームこそが、科学や民主主義であるとしながらも、科学や民主主義への懐疑が『ナウシカ』の系譜の作品群に反映され、アンフェアな世界が描かれているとしている。

小森健太朗「虚構内キャラクターの死と存在――複岐する無数の可能世界でいかに死を与えるか」

キャラクターの死の問題について、いわゆるループもの作品から論じていく。
小森の『神、さもなくば残念』で展開された萌えの現象学を敷衍させつつ、シュタゲやever17などを論じ、さらにウスペンスキーの神秘思想を通じて、まどマギを論じる。

渡邉大輔「SF的想像力と映画の未来――SF・映画・テクノロジー

SF映画の歴史を、黎明期、古典、現代に区分して概観したのち、
映画とSFとの関係を論じていく。
蓮見重彦が、SF映画は題材によってSFと呼ばれるだけで形式から定義することができない、故にSF映画なるジャンルは存在しないと論じたのに対して、形式的な側面でSFと映画が重要な関係を持っていることを論じていく。
具体的には、古典的ハリウッドシステムからスペクタクル映画へと変遷していったハリウッド映画の歴史と、SF的想像力との関わりである。「見えるもの/見えないもの」の対立から「見えるもの」の過剰へ。
さらにその後の、デジタル化・ソーシャル化、あるいは「指標性の危機」といった現代映画の特徴と、ディック作品との親和性(ディック作品の相次ぐ映画化、あるいはディック的世界観を描く映画作家の多さ)、また、デジタル化・ソーシャル化する映画について、ノーランとエイブラムスという二人の作家のアプローチからも見ていく。
『イメージの進行形』のSF映画編、とでもいうべき内容で、『イメージの進行形』を読んでいない人にとってはちょうどいい要約編ともいえるし、読んだ人にもよい復習になる。


蔓葉信博「科学幻視――新世紀の本格SFミステリ論」

本格ミステリとSF的設定を組み合わせた、本格SFミステリというジャンルについて。
これまでの代表的な本格SFミステリを分類し、そこからさらに今後書かれるべき本格SFミステリの形にまで迫っていく


飯田一史「ネット小説論――あたらしいファンタジーとしての、あたらしいメディアとしての」

ネット小説について、その読者層と内容の関係を論じていく。
ネット小説ではファンタジー世界を舞台にした作品が多いが、トールキンから始まるようないわゆる既成のファンタジーライトノベルで描かれるファンタジーとは違うことが論じられる。
特に、ネット小説が、ライトノベルとは違うということが、読者層や内容の違いから明らかにされていく。
コンテンツは、その形式(ここでは特にプラットフォーム)の違いが読者層を規定し、それがさらに内容を規定していくということから、プラットフォームごとに主な作品とその傾向についても触れられている。
具体的には、アルファポリスの吉野匠『レイン』、柳内たくみ『ゲート』、モバゲータウン/E★エブリスタの金沢伸明王様ゲーム』、岡田伸一『僕と23人の奴隷』、2ちゃんねる橙乃ままれ『まおゆう』、twitterの『ニンジャスレイヤー』、ニコ動の『悪ノ娘』『カゲロウデイズ』『リンちゃんなう!』、ブロマガの伊藤ヒロ『家畜人ヤプ』、著者自らサイトを立ち上げた川原礫ソードアート・オンライン』、藤井大洋『GeneMapper』である。
さらに、今後の展開について3点を提示している
・ネットファースト、ペーパーセカンド時代の到来
・ファンタジー観の変容
・ループから転生へ

現代日本SFを読むための15のキーワード

巻末のキーワード集
アーキテクチャ
AI
仮想現実/拡張現実
ゲーム/ゲーミフィケーション
言語SF
シンギュラリティ
哲学的ゾンビ
都市
ナノテクノロジー
ハードウェア/ソフトウェア/ウェットウェア
バイオテクノロジー
初音ミクボーカロイド
並行世界(可能世界)
ポストヒューマン
ミーム
以上、15のキーワードについて概説。
僕は、AI、哲学的ゾンビ、並行世界(可能世界)の項目を担当しました。

限界研のこととか僕が書くことになった経緯とか

限界研というのは、若手批評家とか批評家の卵的な人たちが集まって、月に一回読書会をしている集団で
実をいうと、僕は2008年頃に限界研の読書会に参加していました。
ただ、その後、半年くらい東京を離れていた時期があったり、忙しくなったりしたりで足が遠のいていました。
限界研は、発足当初からずっといる人も当然いますが、忙しくて出てこなくなったり、逆に新しい人が入ってきたり、わりと入れ替わりもあります。
それが昨年、今度SF評論集を出すことになったから、また戻ってきて何か書かないかと誘われたのをきっかけに、限界研の読書会に復帰して、今回こうやって共著者に名前を連ねるという流れになりました。
僕の側としても、以前から瀬名秀明論を書きたいという気持ちがあったので、ちょうどいい話でした。
SFというのは90年代「冬の時代」とか言われていたのが、2012年12月号のSFマガジンで「日本SFの夏」という特集が組まれたりして、最近は「夏の時代」になっていると言われいて、今回の評論集はそうしたことがきっかけのようです。
それでまあ、最初に「書かないか」と言われたときは、「ポストヒューマン」とか「伊藤計劃以後」とかいったキーワードがあったわけではなくて、そんなわけで僕の書いた瀬名論は、ポストヒューマンも伊藤計劃以後もあんまり関係ない感じになっていますw
さらに言えばこの本についても後半は、「SFの夏」ということを受けて、SFの多様な広がりをテーマにした論文が集まっている格好です。
しかし、一方で前半に固められた論文は(その中に僕のものもあるわけですが)、やはりそれぞれどこか似た主題のまわりを回っているのではないかということで、編集長の藤田さんがそれにつけたキーワードが「日本的ポストヒューマン」ということになります。
伊藤計劃についても、岡和田、海老原、藤田と3つの論文で主題的に扱われていることから、これもやはり重要なキーワードだろうということで、サブタイトルにのってきています。
まあ、何が言いたいかというと、ポストヒューマンとか伊藤計劃以後とかそういったことに興味のある人にも当然読んでもらいたいけれど、この本は決してそれだけの本ではないので、もっと広く読んでいただける本になっているかと思います、ということです。


ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

*1:俺用語、ここではロボットなど人間に似ているけど人間ではない存在のこと