ロバート・ステッカー『分析美学入門』

その名の通り、美学の入門書であり、複数のトピックについて基本的な議論が紹介され、各章末には練習問題と参考文献が付されている。
また訳注も充実しており、時に、いわゆる分析哲学における議論の進め方についての一般的な解説とでもいうべきようなものまで書かれている。
あと、表紙のデザインがよい。
ちなみに原題は、Aesthetics and the Philosophy of Art: an Introductionであり、分析美学の名はない。「現代英語圏における美学と芸術の哲学」といった方がよりよいのかもしれない(とはいえ、近年では非英語圏でもこのスタイルでの研究があるということで、この言い方も正確ではない)。
さて、美学と芸術の哲学ということで、本書も二部構成となっていて、一部が美学、二部が芸術哲学となっている。

Ch.1 はじめに
第1部 美学
Ch.2 環境美学――自然の美
Ch.3 〈美的なもの〉について1――美的経験
Ch.4 〈美的なもの〉について2――美的性質
第2部 芸術哲学
Ch5. 芸術とは何か
Ch6. 芸術作品は、いかなる種類の対象なのか
Ch7. 解釈とそこに関わる意図の問題
Ch8. 再現1――フィクション
Ch9. 再現2――描写
Ch10. 音楽・詩における表現性
Ch11. 芸術的価値
Ch12. 価値と価値との相互作用――倫理的価値、美的価値、芸術的価値
Ch13. 建築の価値

美学

環境美学

自然を観賞するということについて
これは、意外な感じもするけど、美学の導入としては結構よいのかもしれないと思った。
自然を観賞するとは一体どのようなことか、といって3つくらいのモデルが検討されたりして、最初身構えるのだけど、
まあ確かに我々は普段から、「この夕焼けはきれいだなあ」とか「この山並みの風景は素晴らしいなあ」とか思ったり言ったりしていて、日常的な経験である。
知識との関係や、いつ自然観賞は美的な鑑賞になるのかといった話もあり、ここで言われる「美的」というのはどんなものなのかなあと考えるきっかけになりそう。
知識との関係というのは、美しいと思っていた風景が実は大気汚染によるものだと分かったら、美しいと思えなくなるのかといった問題。
そういう環境問題の話をふられると、どうしても科学とか倫理学とかに頭がいってしまいそうになるので、話についていくの難しかったけど、しかし日常的には確かに、そういうこと(知ると美しくは見えなくなる)はあるかもしれないなあとかも思った。

美的なもの

まず、美的なものとして、美的な経験とは一体何だろうかということで、いくつかの説が検討される。
カント的見解、無我夢中説、感覚に訴える対象志向の説、レヴィンソンの二層説、そして最小説である。
ステッカーは最小説に軍配をあげる。
続いて、美的経験と関連して、美的性質について論じられることになる。
美的性質についての分類を行ったのち、美的性質が反応依存的性質であるのか、そして美的性質の反実在論が検討される。
美的性質というのは、価値評価と結びつけられる性質で、どのように価値評価するかと関わって分類される。
反応依存性というのは、人間に特定の反応を引き起こす傾向性があるということで、これを美的性質について認めるか否かで議論が分かれる。
反応依存性を否定する立場として、マーシャ・イートンがいる。また、美的性質には反応依存性があるものとないものがあるとする立場に、レヴィンソンがいる。
さらに、そもそも美的性質なるものは実在しないという反実在論として、主観主義、表出主義、相対主義の3つの立場がある。
美的性質が実在するとかしないとか何じゃそりゃとなるが、美的な価値評価をするとはどういうことなのかということと関わっている話なので、結構面白い

芸術哲学

芸術哲学には5つの議題がある。
(1)芸術が芸術としてもっている価値は何か→11〜13章
(2)芸術とは何か→5章
(3)芸術作品とはいかなる種類の対象なのか→6章
(4)芸術作品が何かを意味しているとはどういうことなのか→8〜10章
(5)芸術作品を理解するとはどういうことなのか→6、7章
これらの問題に対して、3つのアプローチがありうる
すなわち、本質主義、文脈主義、構成主義である。
ステッカーは文脈主義を支持する。

芸術とは何か

古代ギリシア以来、芸術とは何かを再現ないし模倣するものと考えられてきたが、19世紀以降芸術の新しい定義が求められる。例えば、表現説、形式主義による説、美的機能説である。これらはどれも、一つの性質や機能を取り出してそれが対象を芸術とする性質と考える、単純な機能主義である。
1950年代以降、ヴァイツやジフに代表される、反本質主義という立場が現れる。芸術は定義不可能だと考えた彼らは、家族的類似性や束概念に訴えて芸術について説明する。また近年では、認知言語学のプロトタイプといった概念による主張もある。
しかしこうしたアプローチは、彼らの芸術は定義不可能であるという考えに反して、新しい定義へと導く。必要十分条件としての定義ではなく、十分条件の選言的な集合としての定義だ。
家族的類似性の議論から、関係的性質というのを見出して、芸術を定義しようとしたものとして、ダントーとディッキーが挙げられる。
ダントーが、従来の機能主義的な理論に歴史的関係という観点を組み入れた、歴史的機能的な理論を展開したのに対して、
ディッキーは、非機能的な、制度論を展開した。ディッキーは、「アートワールド」を制度として捉え、機能的な面を排除する。しかし、ディッキーのいうアートワールドは、いわゆる芸術以外にも当てはまってしまい、不完全な定義として批判された。
その後、ディッキーのアートワールドを歴史的な観点から定義できるとして、擁護し発展させた論者として、ウォルトン、デイヴィス、レヴィンソンなどが挙げられる。


芸術とはいかなる種類の対象なのか

そもそもこれは一体どういう問題なのか、というと、芸術作品を解釈する際に、その解釈の対象となっているのは一体何なのかという問題なのだとパラフレーズされる。
芸術作品の解釈とは一体どういうことなのかということについて、文脈主義と構成主義という二つの立場が挙げられる。
文脈主義は、解釈行為とは作品についての真理を発見しようとするものであり、その真理は作品が作られた文脈によって確定され、その文脈が作品にとって本質的な特徴となると主張する。
構成主義は、解釈行為によって解釈の対象が変化したり、あるいは新しく創られると考え、解釈の対象(作品)に確定された本質的な特徴はないと主張する。
構成主義は、解釈の対象を志向的対象だと考える。ステッカーは、志向的対象という言葉がさす対象には2種類あって、その区別を受け入れれば、作品が志向的対象であるということが必ずしも構成主義とイコールになるわけではないと論じる。
芸術作品に本質的性質があるのかについて、マゴーリスの議論が紹介される。
存在論的カテゴリーについては、芸術形式によってそれぞれ異なるという立場をステッカーはとっている。

解釈と意図の問題

ここでは
(1)解釈の目的とは何か:唯一の目的があるのか、複数あるのか
(2)唯一正しい解釈があるのか、両立しないが容認可能な複数の解釈があるのか
(3)作品の意味というべきものはあるのか、解釈の目的は作品の意味を同定することなのか
が議論される。
作品と意図の関係として、まず実際の意図主義、つまり作品の意味とは作者の意図したことであるという考えについて、様々なバリエーションが紹介される。すなわち、同一説、慣習に制約された意図主義、機能しさえすればなんでも認める意図主義、中間説(慣習に〜と機能しさえ〜のハイブリッド)である。
実際の意図主義に対して、公開のパラドックス、意図を知ることのジレンマ、意図への言及は削除可能という3つの反論が挙げられ、代替案として仮説的意図主義が提案される。
仮説的意図主義はエレガントな理論であると評価されるが、一方で反例もあり、むしろ穏健なバージョンの意図主義の方がうまくいく場合もあるという。

フィクション

ごっこ説と虚構的指示説が紹介される。虚構的指示説がごっこ説に代わるよい案にはならないと結論されている。
フィクションのパラドクスについて、ウォルトンに代表されるような、フィクションの感情は文字通りの感情ではないという立場と、実在を信じていなくても文字通りの感情を抱くことはできるという立場の対立があげられるが、ステッカーはこの二つの立場はそれほど違いがないのではないか、言葉遣いの違いに帰着するのではないかと論じている。


描写

描写については、記号的・構造的な面に着目する理論と、知覚的・経験的な面に着目する理論とがある。前者の代表はネルソン・グッドマンだが、ここでは割愛されている。
後者の理論についてはどれも、ウォルハイムの「〜のうちに見ること」という直観を共有している。「〜のうちに見る」は、「非実在性」と「二面性」という二つの特徴をあわせもっている。
ただし、この「二面性」について、ステッカーは「二面性の潜在的可能性」に修正する。
この二面性という特徴、つまり画像の二次元的表面と三次元的光景ということについて、ジャスパー・ジョーンズの絵を例に出して説明しているくだりなどが面白い。


「〜のうちに見ること」の特徴の一つである「非実在性」と写真についても論じられている。


描写にとって、「〜のうちに見ること」は重要だが、それだけでは十分ではない。ウォルハイムは意図を条件として付け加える。
またそれ以外に、そもそも「〜のうちに見ること」をさらに説明するものとして、(1)ごっこ(2)類似(3)認識能力を持ち出す説がそれぞれある。
しかし、ステッカーはこれら3つの説が、「〜のうちに見ること」よりもうまく描写を説明するには至っていないと論じている(例えば、ごっこ説は、ごっこによって「〜のうちに見ること」が説明されるのではなく、「〜のうちに見ること」によってごっこが説明されるのではないかとしている。確かに抽象絵画もごっこなんだと言ってるウォルトンよりは説得力あるような気もする)。
(以下、本書にある内容ではなく自分の感想)認識能力説は、最近の神経美学だと、肖像画を見たときと人間の顔を見たときとで反応する脳の部位が同じだったとかいう実験結果もあって、なかなかよさそうな気もするんだけど、そもそも描写とは何ぞやということにはうまく答えてないんじゃないのかもしれないなあという感じ。

音楽や詩における表現

ここでいう表現は、expressionの訳。この音楽は悲しさを表現している、などという際の表現。
表現について説明する理論として、
スティーブン・デイヴィスの「現象的現れ説」、アーロン・リドリーの「表現性に関する喚起説」、そして「ペルソナ説」が紹介される。
音楽が情動を表現するときはどういうときかということについて、レヴィンソンの、適切な素養をもち、歴史的状況をふまえて聞く者に容易に聞かれるときという主張に着目される。この主張をより詳しく見るために、音楽ではなく詩についての検討に移る。ワーズワースの詩の解釈を巡って実際に行われた論争をもとに、ステッカーはレヴィンソンの主張を仮説的意図主義へと改訂することを試みる。

芸術的価値

芸術価値についての本質主義の4つの主張
(1)芸術的価値は一種類の価値でしかない
(2)芸術的価値は、芸術特有のものである
(3)芸術的価値は、あらゆる芸術形式にわたって、価値ある作品すべてが共有している
(4)芸術的価値は、内在的に評価される価値である
本質主義としては、バッドの主張などが取り上げられる・
この4つを否定するするのが、非本質主義であるが、ステッカーはさらに強い主張を行う
(1)ある作品が芸術としてもつ一種類の価値など存在しない
(2)これらの価値はどれも、芸術に特有の価値ではない
(3)芸術として評価される性質のうちいくつかは、一部の芸術形式にしか見出されない
(4)芸術はつねに、外在的もしくは道具的に価値をもつ
また、芸術的価値と認識的価値についての話もある。コリングウッドダントー、グッドマンは芸術作品の価値を認識的価値として考えているが、この考えにも問題がある。
置き換え可能がどうのという議論がよくでてきていた感じがする
芸術の価値が、芸術特有のものじゃなかったり、内在的じゃなかったりしたら、同じ価値をもつ他のものに取って代わられちゃうのではないかという、置き換え可能性に対する懸念に対して、本質主義を持ち出してもその懸念は消えないし、むしろ多元主義によって払拭されるというような話
あと、芸術作品の価値は道具的価値という話については、美的経験をもたらすことも道具的価値ということを言っていて、あーなるほど、と思った。

芸術的価値と倫理的価値

作品の倫理的価値と芸術的な価値についての議論なんだけど、この章はどうにもうまく入っていけなかったのは、道徳的に問題のある作品として何が想定されているのかいまいちよく分からなかったから。
あと、道徳的に問題のある作品の価値を考えるというのは、表現規制問題とも関わると思うんだけど、そうはならないので、じゃあここで作品の倫理的価値と美的価値を結びつけて何がしたいんだって思わずなってしまう。もっともなんでそうならないかというと、作品が倫理的かどうかと作品が検閲されるかは別レベルの問題だから、というそれはそれで至極まっとうな理由によるので反論しにくいんだけど。
内容でなく、感想になってしまった。
芸術作品が倫理的価値を持つとはどういうことかという話をしたあと
倫理的価値の正負が、美的価値の正負とどう関わるかということについて、倫理的欠陥によって作品が美的によくなるという主張を退けるという展開になっている。
道徳的に欠陥のあることによって美的に優れたものになる作品もある、という不道徳主義の主張に対して、例に挙げられているような道徳的に欠陥のある作品は実際は道徳的に欠陥ない作品だよ、みたいになってて、確かにそうかもしれないけど、じゃあ道徳的に欠陥のある作品って結局何なんだと思う*1
「芸術」作品という時に、やはり価値ある作品が抽出されているような気がするし。

建築と芸術形式

第1章で環境美学の話をして、最終章で建築の話をして環境美学に戻ってくる構成と思いきや、芸術形式とメディウムの区別という話へ。
環境美学の話とか建築を鑑賞するとはどういうことか、みたいな話も結構興味深く読んだのだけど、ちょっと余力がなくてここではまとめきれなかった。
芸術形式とメディウムの区別って当たり前の話だけど便利


*1:個人的に思いついた例は、ポルノとか