西村清和『フィクションの美学』

フィクションは現実を指示しているわけではないよ(サン・ヴィクトワール山の絵は、まず第一に絵であって、サン・ヴィクトワール山を指示していたり、サン・ヴィクトワール山の代理であったりするわけではない)。ただし、何らかの約束事があって、指示しているというように扱うことはあるよ(「霊媒師のせきばらい」)、というのがまず第一段階。
で、フィクションについて考えるには、読者へと考察の対象を移すべき、とするのが第二段階。
「「小説の読者である」とは、テクストが指定する観客席に身をおくこと以外ではない。」(p.77)
それからあとは、フィクションを鑑賞している時に起きる感情についての話。
まず、悲劇の快について。混合感情とか美的な不快とか従来言われてきたことを批判して、悲劇を見て「悲しい」とは言うけれど本当に悲しいわけではなくて、独特の感情効果があるとする。
主人公に感情移入しているわけではなくて共感している。
次に、『マクベス』と『リチャード3世』を例に出しながら、悪漢の悲劇について。共感とは、観客が主人公の「がわに立つ」ことであり、「同一化」や「感情移入」ではない。
ストーリーとテーマは実は同じものであること(どのように読み取るかという骨格である)。ここらへんで、批評の話もされている。批評と鑑賞の違い、というか。
続いて、歌舞伎『夏祭浪花鏡』などを例に出しながら殺し場について、南北や黙阿弥を例に出しながら悪漢について、世阿弥を例に出しながら「ほほえみながらの悔恨」について、あるいはフロイトカフカを持ち出してグロテスクについて論じている。
概ねの流れとしてはどれも、本当にあれば不快であろうものが何故フィクションにおいては快となるのか、ということについて。あたかも、不快と快を同時に感じているというパラドックスがあるように見えるが、悲劇とか殺しとかグロテスクとか現実にあれば不快に感じるものなので、フィクションでもそれを見て不快の感情を覚えているように思うかもしれないが、実際はそうではない。フィクションは現実を指示したり代理したりしているわけではないのだから、フィクションを見て覚える感情も、本物の悲しい出来事や恐ろしい出来事に直面して感じる感情になっているのではなくて、フィクション特有の感情になっている、と。
最終章は、崇高について。これも話の進め方とはこれまでと同じだが、フィクションを離れてニューマンの絵画などが対象となっている。


フィクションの美学

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