『ART TRACE PRESS 01』

特集ジャクソン・ポロック
ポロック展行く前の予習ってことで読んでみた。あと、美術批評って全然知らないので、その勉強も。
松浦寿夫林道郎の責任編集で作られた批評誌の創刊号。

唯一にして多数のポロック 松浦寿夫×林道郎

責任編集2人による対談。
対談は話し言葉で読めるから、最初に読むのには読みやすいかなと思ったのだけれど、複数の話題を詰め込んでいるので、基礎知識なしで読むものではなかったかもしれないw
最初に松浦から論点が提示される
まず、ポロックというとオールオーヴァーと言われているけれど、奥行きの問題があるのではないか、といって《アウト・オブ・ザ・ウェブ》や《カット・アウト》といった作品が示される。「積層化」という概念が提案される。
次に、壁の中の人物像ということが挙げられる、『ヴォーグ』誌の写真や《カット・アウト》で切り取られた形などを挙げて、あるいはアポリネールの『オノレ・シュブラック氏の失踪』などを挙げて。
最後に、水平/垂直の関係について。ポロックは絵をキャンバスにかけて描く(垂直)のではなく、地面において描く(水平)。ポロックの先生にあたるベントンから、横長の画像のリズム構造を学んではないのか、とか。
林からは、それに対して、ポロックは視覚性と触覚性の両方がせめぎあう画家ではないか。
リズミックなゲシュタルト、複数のゲシュタルトポリリズムのように動いているのではないか。
また、壁画について(メキシコの壁画運動や、壁画というサイズがもつ「公共性」、あるいは近代建築との関係)も。
で、2人の対談と質疑応答が続く。
質疑応答でも色々な話が出ているが、最後で、フラクタルについても簡単に触れられている。
フラクタル解析をすることで、死後に出てきたポロック作品とされる作品の真贋を調べようとした話があったとか。

ジャクソン・ポロック――隣接性の原理 沢山遼

ポロックの制作行為は、実際には機械的な反復によって成り立っていること、また偶然性を否定していることが確認される。
そういうポイントをおさえて、ポロックの絵の内在的な原理について探る。
ポロックの作品には、継起する軸構造がある。ポロック作品は、最初に「棒人間」を描き、「画像にヴェールを掛ける」方法で描かれ、そして再び某人間が描かれ、というように描かれているらしい。具象から抽象、そしてまた抽象から具象へと進む制作プロセス。
ポロックの「線」の秩序について。彼の描く線、形象は、他の形象と隣り合いながら接触せずに展開される。非−接触的な原理、あるいは「併置」的原理と称される。
そうした「併置」を描くための、機械的な反復によるアクション。それは、エネルギーと運動と結びつけられて一体的な秩序を問題としている。これは、ローゼンバーグ的な「アクション・ペインティング」の考え方を考えなおさせるものである。

ジャクソン・ポロック 対話としての応答 キャロル・C・マンクーシ=ウンガロ 近藤學訳

修復家によるポロック論。
ポロックの制作プロセスについて。次々に重ねていくことについてなのだけど、まだ読んでない

ジャクソン・ポロック マイケル・フリード 松浦寿夫

再現的representional/非再現的nonrepresentional に対して、図像的figurative/非図像的nonfigurative という軸を持ってくる。ポロックは、図像的と非図像的を行き来している、というような話。
ポロック論よりも、この2つの対立図式がおもしろかった。
再現的/非再現的は、大体抽象画か否かに対応する。カンディンスキーは、非再現的だが図像的であるとされる。一方、ポロックは非再現的であり、さらに非図像的でもある(ただし、論旨としては非図像的だからすごいという話ではなく、非図像的でありながら図像的であろうとしてしているところがすごいという話)。
非再現的であるというのは、日常世界の事物を描いているわけではないという意味で、図像的というのは、それでも線は何かの輪郭のようなところがありイリュージョニスティックな空間としてみられるようになっているというような意味。
これ、ウォルトンと絡めるとおもしろいかなと思った。
使っている用語が転倒しているけれど、ウォルトンはいわゆる抽象画nonfigurativeも、再現的representationalだというのだが、それは、日常的な事物は描かれていなくても、青い面が赤い面の下にあるというように見えるからだといっていて、これはフリードのいう図像的であるというのに近いような気がする。
松浦による訳者解題によれば、フリードはその後、メディウムや演劇性といった概念をよく使うようになるらしい。

ジャクソン・ポロックと近代の伝統1 ウィリアム・ルービン 野田吉郎訳

ポロックを巡る様々な「神話」を解体する。
まず、「カウボーイ・ペインター」の神話。西部出身ということが(例えばナバホ・インディアンからの影響)どれほど影響しているかは微妙。
次に、「流星」神話。伝統から切り離されてゼロから現れた画家という神話。実際には、キュビスムからの影響がある。
それから、「アクション」について
最後に、「完璧な画家」の神話。

透明人間の肉体、あるいは、模倣と接触――アポリネールと「絵画の起源」神話 郷原佳以

まず、アポリネールの歴史的位置付けが、詩人の2つの傾向、すなわち「万物照応」ないし「同時性」と「クラテュロス主義」からなされる。特に後者からは、擬態というキーワードが引き出される。
「オノレ・シュブラック氏の失踪」が分析の遡上にあげられ、壁への擬態ということが注目され、カイヨワの擬態論へと繋がっていく。
カイヨワにおける擬態とは「人格の消滅と空間への同化」である。また、ラカンにおける「目と眼差しの分裂」というテーゼがカイヨワの擬態論から影響を受けていることが確認される。
さて、アポリネールの物語で描かれているのは、擬態というよりもむしろ擬態の失敗ないし擬態の過剰である。そしてそれは、視覚性と触角性の混交から起きることである。
カイヨワは、森羅万象に「類似」や「類比」を見ようとしたが、「擬態」は「類似」とは異なるのではないか、接触による模倣なのではないかと続ける。アポリネールの作品は、窓から壁、観察から接触、視覚性から触角性へと「絵画の起源」に遡りながら、その遡行に失敗することによって、「絵画の眼差し」が誕生することを示していると論じている。


アポリネールは、SFみたいな小説も書いてるとかで、気になり始めた。

「現代美術」を天秤にかける――中原佑介抽象絵画

中原の抽象絵画論について

速度の風景――ガス・ヴァン・サント《ジェリー》とタイムラプス

ガス・ヴァン・サント作品に見られるタイムラプスという技法について、セザンヌの風景画と絡めながら。

リズモロジーの方へ1――クレーリズム、あるいは未来のための離散性 佐藤雄一

リズムについての概論とクレーにおけるリズムについて。
認知科学バンヴェニストやシステム論に言及しながら、リズムについての概論を提示し、制作エクササイズとしてのサイファーにも言及。
クレーにおけるリズムについて。
クレーは「中景」を重視している。それは前景からの運動と後景からの運動が重なり合わさるところである。
2つの分節によるリズムが重ねあわせられたところに生じる「準安定状態」としてのクレーの作品。
ステレオグラム立体視を例にあげて、突然別の次元が浮かび上がることをここでは「視覚の量子化」と呼び、クレー作品ではそれが行われているという。
クレーの絵にはモビリティがある。それはただ小さくて持ち運びができるというだけではない。クレーは、自らの絵を切り刻んで再構成するということをよく行っている。しかし、これはカットアップではない。リズムが同期して、自律した1つの絵になるようにしている。
クレーは作品が小さいので、作品数も非常に多い。一万点以上の制作によって、離散的な作者性が出現する機会を作ろうとしていたのではないか。そのような作品制作をエクササイズと呼び、そのようなエクササイズを通して、自分のいない未来においてもリズムが同期するようなホメオスタシスを作ろうとしたのではないかと論じている。




どれも読むのはおもしろかったのだけれど、いざまとめようとすると、難しい……。
本文読まずに上のまとめだけ読んでも、意味不明なものにしか見えないかもしれない。
とりあえず、アメリカの美術批評家として、グリーンバーグ、ローゼンバーグ、マイケル・フリードロザリンド・クラウスの名前を覚えた。
グリーンバーグはそれほど言及されていなかったかも。ローゼンバーグは「アクション・ペインティング」という言葉を作ってしまったことの功罪みたいな感じで出てくる感じ。R・クラウスは、アポリネール論やクレー論でも言及されていた。


ART TRACE PRESS 01