高階秀爾『世紀末芸術』

タイトルにある通り、世紀末芸術についての本。
以下、内容のまとめ。

序章 世紀末芸術とは何か

  • 1転換期の芸術

19世紀末は、19世紀と20世紀に挟まれて美術史の盲点になっている時代*1。この二つの時代を繋いだとされると転載として、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、スーラがいるが、この4人は1900年には既に死去しているかパリを離れている。
1894年、「自由美学」という展覧会がブリュッセルで開かれている。ここでは、絵画、彫刻、工芸、版画、デザイン、ポスター等の様々なジャンルの作品が並べられ、さらにドビュッシーの曲が流されていた。19世紀は芸術の分業化が進んだが、世紀末になり一人の芸術家が自分の「専門」以外の様々なジャンルに手を出すようになった。また、国境の枠も越えるようになった。同じような芸術運動が、同時多発的にヨーロッパの各都市で起きた。
本書では世紀末芸術を「最後の印象派グループ展がパリに開催された1886年から、フォーヴィズムがはじめて登場する1905年までの約二十年間、アメリカを含めて西欧世界全体の建築、彫刻、絵画、工芸、装飾芸術、商業美術、写真等、あらゆる領域の造形表現に見られた一連の傾向、ないしは動きを指す」。

  • 2新しい芸術理念

パリの美術商ピングの店の名前から、「アール・ヌーヴォー」という言葉が生まれる。ピングは自分の店について回顧するさいに「近代性」という言葉を使っている。この当時、近代という言葉は「新しさ」と同意語のように使われている。
この頃の様式は、英米では「モダン・スタイル」、仏・ベルギーでは「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」、独墺では「ユーゲント・シュティール(青春様式)」、イタリアでは「スティーレ・リバティ(自由様式)」、スペインでは「アルテ・ホベン(若い芸術)」と呼ばれた。意味するものは、どれも新しい、若い、みずみずしい芸術のあり方といったところ。

  • 3退廃と再生

ユイスマンスオスカー・ワイルドのような耽美主義を、社会への抵抗、精神的貴族主義から捉える。彼らの美や芸術というのは、少数者のための官能であり、反社会的、不道徳なものであった。
一方、そのようなワイルドの耽美主義とは相反するように見える、トルストイの芸術論もこの時代の若者に反響をもたらしていた。ワイルドの耽美主義運動は、ラファエロ前派ラスキンなどの批評活動を基盤としているのに対して、トルストイの芸術論が受けいられる基盤は、モリスのアーツ・アンド・クラフト運動にあった。ところで、このモリスの運動は、広く一般の人びとの使うもののデザインをよくしようとする運動でありながら、機械生産を批判して手業を称揚したため、少数者のためのものにならざるを得なかった。しかし、この運動があったからこそ、その後機械生産のものにもインダストリアル・デザインというものが広まることとなる。
さて、このモリスを実はワイルドは高く評価している。ワイルドはモリスの運動をルネサンスと称する。筆者はこれを受けて、世紀末芸術を第二のルネサンスと考える。それは第一のルネサンスが生みだした写実主義の流れが、ついに19世紀において破綻したところが出発するものだとする。第一のルネサンスを否定するのが第二のルネサンスなのである。

第二章 世紀末芸術の背景

  • 1社会的風土

ヨーロッパはベル・エポック(良き時代)と呼ばれる平和と繁栄を謳歌していた。最も、その背景には列強の外交戦や科学への疑念と神秘主義の流行という不安が見え隠れしていたが。
この時代はミュージック・ホールや寄席、漫画入りの新聞が人気を集め、明るく陽気で官能的なものがもてはやされた。その時代の雰囲気を伝えるものとして、「四大芸術舞踏会事件」というものが紹介されている。これは美術学校の学生が主催した舞踏会で、裸同然の踊り子がいたということで、問題になり裁判となった事件である。しかし、結局執行猶予付きの罰金刑で許されるという寛大な結果に終わったというものである。

  • 2機械文明の発達

建築の世界において、鉄とガラスという新しい材料が登場する。しかし、これが建築においてすぐに使われたかというとそういうわけではなかった。19世紀、建築はゴシック・リヴァイバルに代表されるように様々な過去の様式を模倣するという時代だった。そして、建築と技術の役割が分離し、建築家は過去の様式を巧みに取り入れた意匠を担当するようになり、技術者が新しく登場するようになる。鉄やガラスといった新しい材料を取り入れることをまず成したのは技術者であって、建築家ではなかった。鉄道や工場など、建築とは見なされないような分野において、技術者たちによって新しい材料や技術は取り入れられるようになったが、建築ではなかなかそうはならなかった。取り入れる際にも、構造材として代わりに鉄が使われるようになる程度で、それが新しいデザインを生みだすようにはならなかった。
ここで重要な働きをなすのが万博で、ここでは新しいデザインが試しに行うことが可能で、水晶宮エッフェル塔が生まれた。ただし、エッフェル塔は若い芸術家達によってその「美しさ」をたたえられてはいたが、当のエッフェル自身は、あくまでも技術的な到達とみなし、「美」として塔が見られているということを聞かされても理解できなかったらしい。また、万博で作られた建築物は、エッフェル塔を例外として、ほとんどが解体されてしまっている。
この節では、写真についても触れられる。
写真は、画家に対して二つの危険を持っていた。一つは、写真によって画家がその創造力を損なうという危険。もうひとつは、写真があまりにもリアルであるがために逆にリアリズムを損なうという危険である。これは例えば馬の走るシーンなどである。

  • 3ジャーナリズムの繁栄

この時代、美術ジャーナリズムと美術批評が繁栄する。批評はこれより前の時代があったが、案内や品定めにとどまるものであった。ところが、ボードレールやワイルドによって、批評もまた芸術であると主張されるようになった。ワイルドに至っては、批評を芸術の中で最も高い位置にまで引き上げようとした。
1870年代まで美術批評は一般の紙誌に書かれたものであって、専門誌というものはなかった。ところが、80年代以降、次々と新しい雑誌が生まれてくる。さらに雑誌には、表紙や挿絵に画家や版画家が参加して、批評だけではなく作品発表の場ともなっていた。

  • 4遙かな国・遠い国

この時代の特徴としては歴史趣味があり、特にゴシック・リヴァイバルとよばれる運動があり、建築で過去の様式が模倣されていたのは既に見たが、絵画においてもナザレ派やラファエロ前派のような運動があった。ゴシックだけはなく、ネオ・バロックやネオ・ロココなどの様式も見られた。
特に中世への憧れが強く、それはウィリアム・ブレイクの影響が大きい。精神面だけでなく、挿絵の造形性、文章と装飾の統一などといった造形的な部分での影響も強い。
また、ナビ派は、神秘主義的、宗教思想的な意味で中世の影響を受けている。
あるいは、ガウディもまたそのような流れの中にいる。彼は自分たちの課題はゴシックを再現することではなく継続することであるとすら述べている。
一方、アイルランドやスカンディナビア諸国では、ケルト復興が起きていた。
またさらには、日本からの影響もあった。それには大きく分けて二つあり、一つは「新しい感受性の発見」、もうひとつは「流麗典雅な曲線模様と鮮やかな色彩配合とによる豊かな装飾的表現」である。

第三章 世紀末芸術の特質

  • 1華麗な饗宴

世紀末芸術が目指したのは「装飾性の復活」である。
絵画などの芸術は、現実を再現するものである写実主義的な見方に対して、芸術とは写実ではなく装飾をこそ目的としていると考えたのである。
生活環境を装飾するためにこそ、彼らはいわゆる芸術作品だけではなく、家具や日用品、印刷物などにも手を出していったのである。
イギリス、ベルギーでは室内装飾やデザインが隆盛したのに対して、フランスでは絵画が装飾化するという途を進んだ。こうしてナビ派は、壁画や天井画、舞台装置などを手がけるにいたる。絵画の装飾化の例としては、ムンクホドラークリムトも挙げられる。
このような動きは、ナビ派以前からあったもので、ルドン、スーラ、ゴーガンが挙げられる。
ゴーガンは印象派に影響を受けて絵画を始めるが、印象派はあまりにも感覚的であり、自己の創造世界を表現するために装飾的な方向へと向かい始める。彼は「自然をあまり模写してはいけない。自然から抽象を引き出さなければならない」と友人へ述べた。
装飾化の傾向は、線描の強調と画面の二次元化へと向かった。描かれている空間が、空間ではなく平面となるような表現である。
そして、ゴーガンの弟子であるモーリス・ドニによって、「絵画作品とは、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な面である」という有名な定義がなされるのである。
実用性と装飾性が互いに影響を受け合うようになる。
先述したように、建築の世界では長らく古い様式の模倣が行われ新しい創造がなされる余地はほとんどなかった。そうした中で、新しい創造はまず装飾から行われるようになった。階段の手すりや窓枠などは、枝葉末節と考えられ、いわば見逃されていたのである。しかし、次第にそのような細部の装飾が建築の構造に侵食し始める。その最たる物が、ガウディに他ならない。世紀末建築は、ただ表面的な装飾なのではなく建築の構造そのものまで高められたのである。のち、コルビジェアール・ヌーヴォーを激しく批判するのは、アール・ヌーヴォーがただ表面的ではなかったためだからである。しかし、アール・ヌーヴォーがあったからこそ、伝統的様式が解放されたともいえ、コルビジェも実はその恩恵を受けている。
実用性と装飾性の影響関係は、ポスター絵画にも見られる。これは広告であり、また印刷技術の制限もあって、必然的に単純で力強い色彩となることになった。ポスターは単に実用的なものではなく、コレクションの対象となるほどの芸術性を持つこととなった。
アール・ヌーヴォーは当時、唐草模様様式、しなそば様式、うなぎ様式、サナダムシ様式など様々に呼ばれたが、それらで言い表されているものの共通点はすぐに分かるだろう。つまり、細長い波打つような曲線である。また、同じ曲線といってもイスラムのような幾何学ではなく、生命のような不規則な動きをする線である。
このような様式は、空白の利用と、メタモルフォーゼという二つの表現手段をクローズアップさせた。

  • 2魂の深淵

写実的傾向から自らの精神世界へと向かうようになり、象徴表現がなされるようになった。印象impressionから表現expressionへ。
夢、心理的世界、幻想といったものが描かれるようになっている。ルドンをはじめモローやムンク、ビアズレーなど。

  • 3よく見る夢

この節ではよく使われるモチーフについて。
まずはサロメ。有名なのはビアズレーによるワイルドの戯曲への挿絵だが、ワイルドはユイスマンスに影響を受けている。ユイスマンスの『さかしま』の中では、モローの描いたサロメが登場する。モローは、サロメを題材として多くの作品を描いた。中世に描かれるサロメは、健康な肉体を持つ踊り子であったが、世紀末においては官能、罪、悦楽、豪奢などをまとわせる女であった。
繰り返し登場する動物や植物というものがある。例えば、孔雀、白鳥、竜・蛇、百合、睡蓮、葡萄の蔓、蕾などである。
仮面も多く見られる。仮面が幻想性を表すということもあるが、アフリカ彫刻などが紹介されていたことも大きい。
炎、波、煙、あるいはダンスなど、ゆらゆらと動くものも多く描かれた。印象派が瞬間を切り取ろうとしたのに対して、世紀末芸術は時間を捉えようとした。


  • 4音楽性と文学性

音楽への憧れから、あらゆる芸術に対して「音楽性」が求められた。ここでいう音楽性とは、形式性と心理的喚起力の二つである。リアリズムに反しようとする世紀末芸術は、その形式性によって自然から離れた固有の秩序を作る音楽に惹かれたのである。
この時代は、絵画と文学、詩と音楽がいつになく接近した時代であった。
またこの頃の画家は、それまでの時代と違って、自らの創作理論を文章に残し、活発に議論を広めた。印象主義シニャックや、ナビ派のドニ、セリュジェなどである。この時代は、批評活動が旺盛になり、様々な主義が標榜された。


第四章 世紀末芸術の美学

世紀末芸術は、印象派ならびに写実主義への反発に特徴がある。印象派が外部の世界(客観)を描いたのに対して、内部の世界(主観)を描こうとしたのが象徴主義である。内面を描くのに外部の事物を借りると、それは象徴表現となる。
この代表としてここで取り上げられているのがルドンである。ルドンは象徴派の詩人、マラルメとも交流をもち、また自らの作品を「神秘の世界に向かって開かれた小さな戸口」と称した。ルドンは、ナビ派の若い画家達に大きな影響をもたらした。
こうした動きが広まったのには、自然主義・科学主義への反発としての神秘主義的傾向は背景にある。

  • 2綜合主義

ゴーガンとその仲間は「印象主義および綜合主義グループ」という展覧会を行っている。ここで印象主義は宣伝のために用いられた名前に過ぎず、綜合主義が彼らの主義を示す言葉である。
綜合主義は、印象派の分割主義に反発した。印象派の色彩分割を否定して、太い輪郭線を用いて描き「クロワゾニスム」と呼ばれた。形態や色彩をより単純なものへとする(綜合)傾向である。
また、形態や色彩の綜合だけではなく、主観と客観の綜合も目指され、ここでも神秘主義的傾向が見られる。
綜合主義の代表者は、ゴーガンである。セザンヌが死後に影響をもたらしたのに対して、ゴーガンは自らの影響力を自覚していた。

  • 3科学主義

スーラ、シニャックピサロ、デュボワ・ピエなどは、象徴主義や綜合主義とは異なり、印象派の方向性を徹底的に推し進めようとした。
彼らは、当時進歩を遂げていた光学と心理学を手に、芸術を科学的に定式化しようと試みた。スーラは、心理学者アンリとの交友から学び、色や線と性格の組み合わせに関する理論を発表する。
科学主義を代表するのは、スーラだ。彼は31才で亡くなってしまった若き天才であった。

追記(20110127)

書き漏らし。
第三章 世紀末芸術の特色 1 華麗な饗宴
装飾性と実用性の関係についてのところ、建築、広告以外に、ゴーガンが室内装飾や陶器の絵付けも手がけていており、そこでの技術的な必要性が綜合的な画面作りをもたらしたのではないかと。
もうひとつ、同じ節
生態学的な曲線模様の様式が、空白の利用をもたらしたということについて。
線描表現とネガティブな空間の利用は、現実の再現よりも造形要素の強調へと向い、抽象絵画へと近づいていく。
事実、ヴァン・ド・ヴェルドは『抽象的コンポジション』というタイトルの絵を描いている。「時に年代は1890年、最初の抽象画と言われるカンディンスキーの水彩画が生まれるより20年前のことである。」

*1:この本が書かれたのは1963年