読んだ本の感想とか書いていくよー(2)

なんとなく分けてみた。
第13回文学フリマで買った本についての感想をまとまりもなくバラバラと書いていく。

アニメルカvol.4』

まずは、背景アニメ鼎談から。
背景と移動の話(ハルヒ論)。ポニョの話。震災の話など。最後、震災の話のあたりではるをさんが『けいおん』の話をしていて、そこらへんはちょっと『F』の方での『けいおん』の話と繋がるのかなあと思ったり思わなかったり。
それから、反アニさんによる、平川哲生さんとの対談と、石岡良治さんとの対談を読んだ。どちらも、反アニさんによる「アニメ批評とは何か」という視点が一貫していて、面白かった。例えば、平川さんが制作者による批評のメリットとして「あまり好きな言葉じゃないんですが、エビデンスを持っていると言えますね」と言うのに続いて、反アニさんが「裏技を持っていると(笑)。批評に対する典型的な批判パターンのひとつはエビデンスがない、なので。しかし批評とは本来、実証とは異なる抽象的回路から思考を展開する術なはずなんですけどね」と言っていたりする。まあこの話題については、このやりとりだけで終わっているのだけど。
平川さんとの対談は、平川さんの監督作品である『川の光』などを取り上げながら、制作と批評とを行き来している感じであった。
石岡さんとの対談は、サブタイトルに「トランスメディア物語論へ」とあり、トランスメディア物語論というのがキーワードであった。ところで、この対談でのアニメ版『スケッチブック』の評価は、『5M』での『スケッチブック』論とは反対であった。

『5M』

上で書き損ねたが、『5M』も以前買ったが読み損ねた本を読んでおこうと思った際に読んでいたのだった。
萌え4コママンガ特集。萌え4コマにおける時間とかについて書かれたものが多くて、萌え4コマについてはほとんどよく知らない身としては、へえと思いながら読んでいた。というか、『5M』周辺って、何というか『5M』独自の思考だったり興味関心だったりが濃厚にある感じがして面白い。

『F』9号

今号のテーマは「青春」
前号から、BL論者が増えましたよね、F。
澤野愛「〈青春〉と女性――「こころ」から「魔法少女まどか☆マギカ」まで」
ここではまず、〈青春〉というものが「大人へと成長する男」のものであるとした上で、女性は、女性がいない〈青春〉というものに魅力を感じるのだと論じている。女性の立ち入る隙がないほどに萌える。やおいというのは、そのようなホモソーシャルへの感情であるとしている。セックスは、あくまでもそのようなホモソーシャル的な絆の高まりとしてあるのであって、ホモセクシャルそのものが必ずしも重要なわけではない、と。そして最近はそうした視線が百合に対しても向けられており、AKB48や『まどかマギカ』にもそのようなホモソーシャルを見て取って消費している女性も多い、と。
この論は、すごく説得力があったというか、僕はやおいやBLは作品も評論も全然読まないので全くよく知らないので、なるほどーそういう感じで見ているのかーと思ったし、また、まどマギやAKBに萌えているっぽい女性なんかをtwitterで見たりしたときにどういうことなのかなあーと思っていたところまで説明されていたし、その関係の中に自分が入っていけないことが「美味しい」というのは、わからんでもなかったし。
ジャニーズについてのコラムは、完全にファンによる語りだなあと思いつつ、Jr.からデビューする際にシャッフルされるってあまり知らなかったので、へえと思った。
矢野利裕「〈青春〉の殉教者――前田司郎編」
青春が終わった現代において、如何に青春的なものを備給するかということで前田司郎を読み解くというもの
同じく矢野さんによるゾンビと青春についてのコラムが、福満のゾンビの話について書いている奴で楽しかった(前田司郎論とうまく繋げていて連続で読むとすっと入ってくる)。ところで、最近『モーニング』誌上で、「僕の小規模な生活」の中でまたあのゾンビマンガを描き直していたのだけど、そのことについても絡めるともっと面白かったかも。時期的に厳しかった気がするけど。
千田洋幸・式川春衣「10代の〈青春〉のために――「けいおん!」をめぐる往復書簡」
こういう企画ができるところが羨ましいなあ、『F』は。
けいおん」において、「外部」や「他者」は描かれているのか。そして「けいおん」は視聴者に対して「救い」や「希望」を与えているのか、ということを巡って、肯定的な千田と否定的な式川とのあいだでやりとりがなされている。
「学校」が舞台であることには注意が必要であるという式川の指摘はなるほどと思ったし、「希望」を与えてるの? という式川の疑念に僕としては近い立場かなあと思うのだけど、上述した『アニメルカ』におけるはるを発言や、後述するてらまっと論文などは、「けいおん」によって実際に「希望」を見出した者の言葉として読むことができるように思う。

『甘噛み』第2号

これは、本の作り自体がよかった。版とか表紙とかは同人誌だけど、誌面の作りは商業誌っぽい。
冒頭が照沼ファリーザインタビューで、照沼ファリーザって一体誰? って思ってたんだけど、AV女優・大沢佑香の本名だった。そういえば、Wikipediaで見たことあったような……。今はAV女優やる一方で、写真家になってGEISAIとかに出ているらしい。
さやわか・矢野利裕対談「ガールズ・ポップのゆくえ〜ディーヴァとはなんだったのか〜」
矢野が以前『F』で書いていたガール論の続きのような感じ。まずは矢野のガールからディーヴァへといった話がされる。
すごく大雑把にいうと、内面志向・本物志向のようなものがあった90年代から、演劇性がキーワードになるゼロ年代へという感じか。「演劇性」をキーワードに、現場とネットの相互補完性の話とか、Perfumeももクロの差異の話とか、アイドルにおけるシステムと身体性、フェイクとか。

『FLOWORDS』vol.3

ノベマス論が載っていると聞いてw
書き手がsaisenreihaさんだったことに驚いた。twitter上ではニコ動見ているような雰囲気は感じていなかったのだが。
小説やマンガがあまりPCモニタでの視聴に適していないことを指摘した上で、PCモニタに適した物語表現として、ノベマスや東方手描き劇場に見られるようなヴィジュアルノベル形式や紙芝居形式を挙げる。そこで使われる様々な演出技法を紹介し、また具体例として作品名も挙げられている。
図解も多く、力作であるのは確かなのだが、基本的にはただ演出技法が一つ一つ紹介されていくだけだったので、批評としての面白さはなく、残念だった。
ついでMMD論があったのだが、こちらもニコ動とボカロにおけるCGMの歴史をざっと追ったもので、MMDについての論はあまりなかった。
ヘルプライン「転送される「顔」――柴崎友香寝ても覚めても」における分身・写真・アイデンティティ――」
実は、柴崎友香は全然読んだことがないのだけれど、sz9さんの論やこのヘルプラインさんの論を読んで、読んだ方がいいかなあと思い始めたり
この「寝ても覚めても」という作品は、主人公・朝子の行動があまりに身勝手で感情移入しにくいらしくAmazonレビューではそこらへんで拒否反応が多くなっているらしいが、そういった「素朴な」解釈をとりあえず受け入れた上で、そうした反応を引き起こしてしまう要因を、「語り」の特徴から分析した上で、この作品のモチーフについて読解していく。そこでは、写真というメディアを通じて〈分身〉というモチーフがあらわれ、別人を同一人物として捉えてしまう、あるいは過去の自分と現在の自分が区別できていないといった主人公の問題があるのだが、最終的にそれが解決されていくという話として読み解かれていく。「素朴」には、主人公は身勝手で考えていることの分からない自分として読まれるのだが、しかし丁寧に読解することによって、「きわめて倫理的に自己の「内面」を見つめて」いると解釈できることが分かるという論の筋立てになっていて、ある種、理想的な批評の論理展開になっている、と思う。

『セカンドアフター』vol.1

てらまっと「ツインテールの天使――キャラクター・救済・アレゴリー――」
これは大変な力作で、しかもすごく面白かった。これぞ批評だよね、みたいな感じで読みながらじわじわとテンションが上がっていった。
しかし一方で、何というか空しさみたいなものも感じてしまったのは、テーマが悪いのか、自分が悪いのか。つまり、「「終わりなき日常」の終わり」と3月11日の震災を繋げるという問題設定に、どうものれない。というか、別に震災に限らず、アニメとかマンガとかと実存とかを繋ぐのは、やっぱり慎重を期すべきなのではないかと思っていて、『F』における「けいおん」往復書簡についても、「けいおん」における「希望」とか言われてもなー、という感覚が自分の中には否めない。
しかしこれは、なかなか匙加減の難しい問題ではあると思う。『アニメルカ』の背景座談会なんかはすっと入ってきたりするので。
あと、実のところ、このてらまっと論文はそこらへん上手いことやっていて、読み終わる頃にはあまり気にならなくなっていたりもするのであり、上の話は、一般論に過ぎないとも言える。
「上手いことやっている」というか、この論は、「終わりなき日常の終わり」論である以上に、作品論として作品について読み込んでいるからだと思う。
さて、この論は同人誌に載せられているものとしては大作で50ページ近くの分量があり、基本的には「けいおん」のあずにゃんこと中野梓について論じられたものであるが、ベンヤミンアレゴリー論や、梅ラボ・threeによるキャラクターを用いた現代アート作品についても論じられており、内容も濃い。それでいて、問題の一貫性がはっきりとしており、読みやすい。
それは、「シミュラークルからアレゴリーへ」あるいは「キャラ萌えから「天使にふれる」経験へ」と言うことができる。
キャラ萌えを、終わりなき日常におけるシミュラークルとの戯れと見なし、「けいおん!!」の最終回に、キャラ萌えを越えた経験を見出すのであるが、それは、「あずにゃんカメラ」と呼ばれる「けいおん」の演出技法、唯から梓に送られる写真(の不自然さ)、最後の梓のセリフと第一回における唯のセリフとの一致から論じられる。ここでは、てらまっとの考えるマルチレイヤー・リアリズムという考えや、村上『ゴーストの条件』における奇跡論を参照しながら、梓=天使の遍在が説かれる。
梓はキャラである。キャラとは人間のような姿をしているが、それは決して人間ではない存在である。そのような存在を、人間のように享受するのではなく(シミュラークルとの戯れとしてのキャラ萌え)、非人間として経験すること。てらまっとはそれをもはや「キャラ」とは呼ばずに「天使」と呼ぶのである。その時、梓というキャラはシミュラークルとしてではなく、遍在する「天使」の断片というアレゴリーとなるのである。
そして、梅ラボやthreeによる作品もまた、キャラ萌えをキャンセルした上で、遍在した天使の断片としてのアレゴリーとなっていると論じている。
てらまっとによるマルチレイヤー・リアリズムという考え方が面白い。ここでは、唯が梓に渡した写真(まだ梓のいなかった頃の放課後ティータイムの写真に、梓の写真の切り抜きが貼られている)について分析されているのだが、これは普通に考えれば梓にプレゼントするものとしては違和感のある写真である。しかし、これを梓が二重のレイヤーを往還していることを表していると見て取ることで、梓の遍在性を示す証拠だと論じているのだ。
異なるレイヤーが繋がって1つの時空になっている、というのは、僕が考えている「フィクションならではのリアリティ」とも一致する考え方ではないのかな、と。
あるいは、キャラは人間ではなく非人間的な存在様態であり、それをそのまま受け入れることを倫理的な態度と捉えるということも、やはり僕は共感を覚える。
ところで、僕は実は梅ラボ作品はちゃんと見たことがなくて、それについての文章もあまり読んだことがない。というか、(梅ラボのことはキメこなちゃん騒動以前から知っていたけれど)やはり騒動に関わるtogetterとかを読むことが多かったので、梅ラボ作品についての文章としては自分が読んだ中では一番よかった。あるいはそれは梅ラボ本人やカオスラウンジ黒瀬の書いたものよりもだ。
最後のルイズコピペ読解は、ややおまけ的な面も否めないが、この論の趣旨に沿って解釈できるようになっていた。
最後の最後、論文の主語「わたしたち」にまで触れているのが、うまいなと思った。なんか批評系の文章って、慣習なのか何なのか、主語が「わたしたち」とかになっていることが多いけれど、僕はこれがよくわからなくて*1、このことに言及しているのにはやられたなって感じがあった。

*1:極力、そういう主語を使わないようにしている