評論・フィクション・画像・映像(圏)

2/11、2/12のフィクションと評論に関わる部分(一部2/4のpost含む) - Togetter
岡和田さんのpostした「評論の文体」という言葉に反応したpostと
hiroyuki_inさんのpostした「批評のアニメ」という言葉に反応したpostをまとめた*1 *2
特に後半は、言葉と映像の機能の違いについて書いて、フィクション論をやるときに小説から始めるのは実は難しいんじゃないかという思いつきをpostした。
言葉は、色々な機能を持っているので、フィクションについて考えようとすると、フィクションに関係ない機能のことが混ざってきて混乱するんじゃないかと。
一方、映像・画像というのは、フィクションと密接に結びついているのか否か(単にrepresentationなのか)。
視覚 知覚 思考 境界 やがて光 - Togetter
ウォルトンの写真論を巡ってのpost群。
写真「で見る」ないしリテラルな知覚としての写真、というのは、写真が事実の報告(透過性)として扱われるということじゃないかと思う。representationじゃない使われ方*3
.@naoya_fujita 「世界内戦とロスト・ジェネレーション」 笠井潔×白井聡×鈴木英生 司会:藤田直哉 - Togetter
こっちは後半に、藤田さんと清塚さんが映像的フィクションについてどう論じていたかについて議論した際のpost群がある。


今、ウォルトンを勉強中。
いずれ、このブログでもなんか書く。
画像・映像は、メイクビリーブに使うこともできるし、そうじゃないように使うこともできる。
ところで、渡邉大輔の「映像圏」というのは、どういう時にメイクビリーブに使い、また使わないかという規則・慣習がどろどろに崩れてしまったことを示している概念なのではないかと思う。
渡邉さん、藤田さん、そして僕で関心が共通しているとしたら、そういうところかなと思う。
ただ、それぞれアプローチの仕方が異なるので、どう互いに翻訳していくのかという問題があるが。
渡邉さんのtwitter論では、RTやbotが混じったTLというのが、独特の「リアリティ」を持っているとしているのだけれど。実在しているかどうか、時間の流れ方といった点で異なるものが、同じ所に並べられており、それらを区別するための規則・慣習がどろどろ、というのがTL独特の「リアリティ」かな。
蒟蒻畑コラ写真が本物の蒟蒻畑写真として、あるいは西成暴動写真が新宿の写真としてRTされていってしまうことに、この「リアリティ」は関わっていないだろうか。まあしかし、こっちに持っていっても、今のところはあんまり面白くない。何年も前に繰り返された、ネタベタ話にしかならんので。


って、この記事を書いているときに、こんなpostが目にとまってしまったw

アニメで死んだキャラがbotでつぶやき続けてるのはなんか微妙な気分だな。
http://twitter.com/tatsuw0/statuses/36409268265689088

こういうよくわからなさって、どうフィクション論の中に位置づけることができるのか。
アニメの次回予告ってのも似たようなよくわからなさを持っている気がするが、しかし割と普通に受容できてしまうのが面白い。

*1:さらにもうひとつ、渡邉さんの映像圏に言及したものとあわせて3つの話題を、面倒なので一つのtogetterにまとめた。ところで、僕は普段togetterやる習慣がなく、区切り線postの持ち合わせがなかったので、ぺろぺろpostで代用したが、決して一日に3回もぺろぺろしたいとpostしたわけではない。

*2:区切り線専用のアカウントがあったのか!

*3:ここでrepresentationは、ウォルトンの用法で使っている。ウォルトンがどう使っているかの説明は後日。メイクビリーブに使うもの、ということ。メイクビリーブは明らかに事実の報告ではない。また、写真を使ってメイクビリーブすることもできる