キャラ=亜人間について

筑波批評2009冬』に載せた亜人間論について、id:kugyoくんからコメントを貰っています。
コメント欄でちょっとやりとりがあったのですが、それに対する簡単な応答を。
別に、このまま向こうのブログのコメント欄で続けても構わないのですが、まあひとつのエントリにしてもいいかな、と。

sakstyle
亜人間論
伊藤の用語法に問題があるのは確かですね。
特に、「マンガのおばけ」と「うさぎのおばけ」は、あの本を難しいと思わせている理由のようです。僕としては、「表現レベル」と「作品世界レベル」に区別することで整理できたかと思っているのですが。
しかし、「キャラ」が一体何を指しているのかは、確かに分かりにくい。というか、「キャラ」を「記号」だと言ってくれればいいのに、「人格・のようなもの」とか言うから、分かりにくくなります。
でもそこがポイントで、記号なのか人格なのかはっきりと区別できなくなってしまうのが「キャラ」なのかなあと。で、その区別できなさがいわゆる「キャラ萌え」の要因なのではないかと思います。
キャラクター論のほとんどが、多分ここで行き詰まっているのではないかと思っています。記号と人格が混じり合う瞬間はいったいいつ、どこなのか。
http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20091212/1260556331#c1260672643

kugyo
 亜人間論については、ちょっとコメントがよくわかりません。単に、伊藤の「キャラ」概念があいまいだから、記号なのか人格なのか区別できなくなってしまう、というのではありませんよね。我々の持つキャラクタ概念のほうも、記号と人格とが混じり合っているのでしょうか?
 おっしゃりたいのはたぶん、記号に人格を見出すとはどういうことなのか、という問題なのだと思います。私の考えでは、この問題は(本文で論じたように)、記号にものを見出すことと、もの(そこらへんを這っている人間とかでも)に人格を見出すこととの2つに分けるべきです。前者はまさに表象の哲学(哲学的記号学!)で、グッドマンや清塚やが論じているところです。後者はたぶん、心の哲学にかかわる問題で、どういうことを指して我々は心(人格)があると呼んでいるのかを分析するのがよいのではないでしょうか。
 たとえば、山岸涼子のマンガに登場する端役なんかは、(伊藤や大塚やが考えるような)心があるようには見えない。これは、主役との描きこまれかたの違いも影響しているでしょうが、言動が(物語の要請によって)ほぼ完全に予測可能だからではないでしょうか。まあ、予測不可能なら心があるかのように見えるかというとそんなことはないんで、この説はうそっぱちですが、このように、心があるように見える虚構キャラクタと、ないように見える虚構キャラクタとを比べてみることで、伊藤らのマンガ論から、心の哲学を立てることができるかもしれませんね。
 (山岸マンガと伊藤の論とについては、紙屋高雪の発言を参考にしました。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tezuka-is-dead.html
http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20091212/1260556331#c1260698589


まあ、普通に考えてみれば、kugyoくんのように問題を分けるのは正しいのですが、「キャラ」についてはこの問題が分かちがたく結びついてしまっているのではないだろうか、と思っています。
つまり、伊藤の概念があいまいだから問題が区別できなくなっている、のではなく、問題が区別できなくなっている(ことに伊藤が何となく気付いていた)から伊藤の概念は曖昧なのではないか、と。
kugyoくんは、「ものに人格を見出す」ことの問題を扱う方法として心の哲学をあげています。そして山岸マンガの話を挙げています。僕は山岸マンガはよく分かりませんが、上で言われている話は山岸マンガに限らず多くのフィクションに当てはまる話だと思います。
しかし、この主役と端役とでは描き込まれ方が違うので、人格(心)を感じられたり感じられなかったりする、という時に言われている人格(心)は、伊藤の用語法でいうところの「キャラクター」にあたる問題ではないのかと思うのです。
伊藤が「キャラクター」とは区別して「キャラ」という概念を作りだしたのは、そうした人格(心)を感じさせるような詳細な描き込みがなくても、時に人は「人格・のようなもの」を感じ取ってしまうことがあるからです。
これはマンガだと分かりにくいのですが*1、伊藤の考察の原点に「伺か」などがいること*2を考えるともう少し分かりやすいかも。
今だったら初音ミクでもいいし、meたんのようなOS擬人化キャラでもいいかもしれません。
そうした「キャラ」は、詳細な描き込みがあったから「人格(心)」が感じられたのではなく、「人格・のようなもの」が感じられたからこそ、その後に詳細な描き込みがなされるようになっていったのではないか、ということです*3
伊藤が考える「キャラ」の成立要件は、絵に名前があってそしてそれが複数のコマに連続して現れることです。これは記号としての特徴だけを言っているようにしか見えないし、そもそもこれえだけで「人格(心)」が感じられるようになるとはなかなか思われない。
ところが「キャラ」においては、その時、「記号にものを見出す」だけでなく、ほんのちょっと進んで「人格・のようなもの」まで見出してしまうのではないか、と。
心の哲学を参照してみることは有益だと思いますが、その時に見出されているのは、人間の「人格」とはちょっと違う。
僕は上のコメントで「キャラ萌え」と書いたのですが、これについてもう少し考えてみます(ここでいう「キャラ萌え」はいわゆる「萌え」ではなくて、もう少し広い話で、別に「萌え」という必要はないのですが、他によい言葉が思いつかないのでこのように書いておきます)。
初音ミクやOS擬人化キャラを見て、それに「萌える」時、それを単に何か人の形をした記号としてのみ捉えているわけではなく、何かそれ以上の感情を抱いているのは確かです。その何かそれ以上の感情を「萌え」と呼びたいわけですが、これはだからといって、その人の形に対して人と同じような「人格(心)」まで感じているわけではないのだろうか、ということです。
例えば、『5MVol.3』の月読絵空「空想の局所的具現化」では、「局所的に定義されたキャラクタ」が「大域的な人格の整合性」と対立することが論じられています。具体的に言うと、4コママンガのキャラクタは、その4コマという表現の制約で、「内面」を構成できていない。よって、いわゆる「人格」というものをうまく読み込めないというようなことです。しかし、だからこそ4コママンガのキャラクタには、そのような「人格」モデルでは捉えられない面白さがあるのだ、と論は進むわけですが、そういう「面白さ」がどのようにして生まれるかというのはまだうまく説明できない、としています。
ある記号の記号作用とはどういうものかという問題と、あるものに人格を見出すのはどういうことかという問題に区別して考えていくのは有用だとは思うのですが、
こと「キャラ」に関していうと、そこに見出されているのは「人格」というよりも、「人格未満の何か」=「人格・のようなもの」だと思うので、あるものに人格を見出すのはどういうことかという問題をうまく構成できるのかが、難しいような気がしています。
そういう意味では、「キャラ萌え」はあくまでも「キャラ萌え」としか言いようのない感情であって、「人間に対する愛情」とは明らかに異なるものでしょう。


ちょっと話がずれますが、
瀬名秀明が最近、「コミュニケーションできるかできないか」と「生きているかどうか」とは異なるものだということを言っています。
これだけ見ると、何を当たり前なって感じもしますが、ロボット研究の文脈で言われていることを念頭に置いて下さい。
つまり、人間のようなロボットを作れるかという研究においては、チューリング・テストという「コミュニケーションできるかどうか」という基準があったわけです。しかし、仮にチューリング・テストにクリアできたとしても、どうもそれを人間のようなロボット、生きているロボットとは見なすことができなさそうだ、ということが分かってきたということです。
「生きているかどうか」の基準を見つけることができるのかどうか分かりませんが、池上高志の研究はそういうもので、自発的に動く油滴に対して、彼は「生きている」と言って、擬人化して説明したりします。
僕はこの油滴に対する態度も「キャラ萌え」のようなものではないかなあと思います。正直、この油滴を「生命だ」と言える人はいないのではないかと思います。ただ、確かに生命のような何かかもしれないなあとは思える。モノ以上生命未満な何かに対する態度・感情としての、「油滴萌え」です。
(油滴に対する態度は明らかに「キャラ萌え」ではないのですが、僕が「キャラ萌え」という言葉で何を言いたいのかの比喩的な説明だと思って下さい)
(コミュニケーションできるからといって生きているわけではないように、生きているからといってコミュニケーションができるわけではない。もしかしたら、「人格」と「人格・のようなもの」にもそういう関係があるかもしれない)

追記(091216)

上で、「キャラ」に対しては「人格未満の何か」が見出されているので、心の哲学的な問題を構成しにくいと書きましたが、この点に関しては取り下げます。
「キャラ萌え」をアニミニズムの変種だと考えればよいわけです。既に、擬人化だの池上さんの油滴の話だのしているので、こういう話に行き着くのは当然かもしれませんが。
動物に対して心があるように感じる人たちはいるわけですが、それにしたって、人間と全く同じような心があると考えているわけではなくて、人間の心に比べると異なる、人間ほどは複雑ではない心が想定されているはずでしょう。
あるいは妖怪とか。自然現象に対して、「物理的因果」ではなく「心的因果」で説明しようとする試みが妖怪だと思うのですが、自然現象に対して、人間のような心ではないにしろ、何かそれに類するものを見出しているのでしょう。
まあこれが心の哲学の議論になるかどうかはわかりませんが、何にせよ、これらのことは記号作用よりは人の心の作用について考える方がよさそうです。*4
ただ、やはり「キャラ」における「人格・のようなもの」には記号作用も関わっているような気がするのです。
例えば、ある少女の絵を見て、気が強そうな女の子の絵だと分かる、だけでなく、釘宮の声が聞こえてくるということがあるはずです*5
この女の子の絵を見て釘宮の声がする瞬間というのは、「キャラ萌え」の瞬間ではないかと思うのですが、これは心の問題というよりも記号の問題のような気がする。
もっとも、これはその絵が釘宮の声を表象しているとまではいえないでしょう。せいぜい、その絵は釘宮の声を連想させるでしょう。
表象するは記号作用の問題の範疇ですが、連想するは記号作用の問題の範疇をさすがに逸脱しますかね。
ただ、少女の絵から釘宮の声を連想するという流れは、心の哲学を持ち出さず、記号の話だけでなんとかできそう。つまり、オタク・データベースを参照すれば、こういう顔立ちの子はツンデレっぽいということと、ツンデレっぽい子の声は釘宮の声というのが分かるわけで、その時にこの女の子が一体どういう人格(心)を持った女の子なのかは全く考える必要がない。
でもここに、ツンデレという人格を表すかのような単語が混ざり込んでいる。どうもここらへんで、人格と記号を混同させられてしまっているような気がする。

*1:マンガの登場人物は大抵、「キャラ」かつ「キャラクター」なので

*2:網状言論F改』参照

*3:「キャラの絵だけ描いていればいいと思うんだけど、なぜかわざわざマンガを描く」(『網状言論F改』p.94

*4:ところで、「キャラ萌え」を説明するのにアニミズムを持ち出してくるっていうのは、ちょっと胡散臭い感じがしたりしますw が、ここでは、アニミズムによって「キャラ萌え」を説明するのではなく、「キャラ萌え」をアニミズムの一種かもしれないとした上で、さらに別の何かで説明するべきだという話です。ちなみに、加藤幹郎編著『アニメーションの映画学』 - logical cypher scapeの第一章では、アニメーションの線画に「生命」を感じることの説明として、エイゼンシュテインがトーテミズムを用いたという話をしています。アニメーションを見て生きているように感じることと、ここで言っている「キャラ萌え」は多分近いんじゃないかなあと思うのですが、そのことをトーテミズムをもって説明できるかというと、なかなか怪しそうです。

*5:別に釘宮である必要は全くないんですが、なんか分かりやすい感じがしたのでw