稲葉振一郎『増補 経済学という教養』

貨幣的ケインジアンの立場に立って、日本の左翼のとるべき(?)経済政策について勉強する本。
『「公共性」論』と同じく、ブックガイドともなっており、稲葉流に論点がまとめられていて勉強のためになる。
日本の「構造改革主義」と「新自由主義」ないし「市場原理主義」がイコールではないことを指摘し、それ故に日本の左翼の足並みが揃わなくなってしまっている、とする。例えば金子勝のような左翼論者が、実は構造改革主義者と大して変わらないことも指摘。
また、一応この本は、左翼のための古典派及びケインズ経済学入門なのだが、古典派(というかミクロ)の解説はほんとに少ししかなくて、マクロの解説が一章さかれているが、実を言えばマルクス経済学にも一章割かれている。しかしもちろん、単にマルクス経済学の解説をしているわけではなくて、現代から見て、特にケインジアンの立場から見て、マルクス経済学の何が正しくて何が間違っていたのかということを検討するのに割かれている。例えば貨幣に対する考察はケインジアンに通じるところがある、ところが失業に対する考え方やケインズ的政策への評価に関しては、実はマネタリストと似ていることが指摘されていたりする。まあでも、史的唯物論も微妙だし、未来としての社会主義がなくなってしまったら魅力はもうないね、という話。
構造改革主義や金子的左翼は、市場原理を弱肉強食として捉えてしまっている、あるいは市場を目的と勘違いしてしまっている。しかし、市場は手段に過ぎないし、完全雇用下での市場はパレート最適なのだから弱肉強食ではなく共存共栄となっている(その意味で、マルクス主義的な古典派批判は実は批判たりえない)。そうであるならば、マクロ的経済政策によって完全雇用景気対策を目指すべきであるが、そのとき我々に何かできることはあるのか。稲葉は、構造改革主義は一種のモラリズムであり、過酷ではあるが、我々個人で何をするのかというのもはっきりして分かりやすいので受けるのだという。一方、ケインズ的な方は、政府や日銀に任せないといけない。しかし、稲葉はここで労働組合に注目する。労働組合の賃上げは、実質的な物価の切り下げとなるのであり、つまりはケインズ的な景気対策になりうる。ここで、我々がマクロ的な主体として公共性を担いうるのではないかと提案している。
また、補章では「「経済成長擁護論」再び」として、ジェイコブスの都市論やダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を引き合いに出してネットワークからの途絶が逆に危険であることを指摘するなどして、経済成長による問題よりも経済成長を止めることで起きる問題の方が大きいことを論じている。


ところで、この本に限らずよく思うのは、「左翼」って漠然に言われているとき、具体的には誰が念頭に置かれているのだろうかということ。この本の場合は、金子勝の名前が具体的に挙がっているけれど、あくまでも具体例の一人という感じ。


この本の続編的なものとして『「公共性」論』がある。
連載時には掲載したものの単行本化する時に削除されたというネグリ批判は、『「公共性」論』の方に載っている。

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)