今日立ち読みした雑誌

立ち読みしつつtwitterしてたのを抜粋。

今月の日経サイエンス。茂木インタビューの相手は、三中信宏。新書に載ってた顔写真と顔が違うw(多分髭)
系統樹コレクションの話、「種」概念の話、ダーウィンの話をしてる
種の話は、分類学はもっと認知心理学とか取り入れた方がよくない? みたいな話。
種の起源』は実は要約版で、それのもとになった、さらに大著のビックブックという著作があるとか

帰ってから新書を確認したところ、髭はそんなに変わっていなくて、むしろ眼鏡の方が印象を変えていたようだ。
系統樹コレクションというのは、彼が家系図とか宗教の系譜図とかそういうもののコレクターで、それの一部を持ってきていたから。
人間は、把握できるものごとの数が決まっているので、オブジェクトの数が増えてきたら、カテゴリー分けをしないと把握できない。
系譜というのは、多数のオブジェクトを整理する方法の一つだが、互いの関係を理解するのには便利だけれど、数を減らしてくれるわけではないので、分類もまた必要*1
で、「種」概念。これは生物学の基盤をなす概念なので、生物学者はあまりそれに対して懐疑の目を向けたりはしないのだが、三中は種は、認知的な、ないし主観的なものだと主張する。
この種についての話は、結構面白い話だなあと思う。
種の定義は、色々とあるのだけれど、完全にうまくいっている定義はなくて、それぞれ問題点があったりする。異なる種同士では繁殖できないというのがよく言われるけれど、植物とかには関係ないし。定義しようと思ってもうまくいかない部分がぽろぽろと出てくるわけで、人間が生き物を整理するために作り出したものと考えた方がよいだろう、と。
それでも、イヌにはイヌのイヌ性があったりするんじゃないかとかも考えることができるが、そういう形而上学的な話も、やはり生物学者はしたがらない。
あとは、科学者としてダーウィンから学ぶべきところはまだまだあるよねって感じで終わり。

今月のニュートンには、マルチバースの話が載ってた。多宇宙。佐藤勝彦は無量宇宙と訳してるらしい
インフレーションが終わらずに続いていて、観測領域外に他の宇宙がある説
インフレーション終了後に、他の宇宙が多重発生した説の二つが紹介されてる
マルチバースは「無数の」宇宙という意味なので、マルチバースというわけではないが、ブレーン仮説も紹介されてる
マルチバースはそれぞれ物理法則が違う。とりうる物理法則のパターンは10の500乗あるとか。
ランドスケープとか載ってた
特集は太陽系。ティコブラーエは、決闘で鼻をそがれて、金と銀の鼻をつ けていたらしい

ユニバースに対してマルチバース
他の宇宙があるという意味にとどまらず、他の宇宙が沢山あるという考え方。なので、無量宇宙と訳しているよう。
マルチバースのモデルには二つあって、上で書いたように、永久インフレーションモデルと多重発生モデルの二つ。多重発生モデルというのは、子宇宙とか孫宇宙とかがどんどん出てくる奴で、見たことあるようなイラストだったけれど、永久インフレーションモデルは初めて見た。
どちらにせよ、この宇宙とは異なる他の宇宙は物理法則が違うだろう、と。
あと、ブレーンワールド仮説。これもこの宇宙とは異なる他の宇宙を想定している点で一緒に紹介されているが、「沢山」あるわけではないのでマルチバースではないらしい。
超ひもの先端がこの三次元のブレーン上にあって、他の部分は余剰次元の方にある、と。で、他のブレーンと接触するとビッグバンやらインフレーションやらが起きる、とかそういう説。
こうした説は、原理的に実証不可能である。
しかし、理論を突き詰めて考えていくと出てくるのが、こういう考え方。
さて、物理法則というのは、他の宇宙ではこの宇宙とは異なるものとなっている。上述したとおり、それは10の500乗あるらしいが、それはこの宇宙の原子の数よりも多いらしい。
で、ランドスケープという図があって、様々なパラメータを三次元の地形図のようにしていて、どの谷底に落ちるかというので、どの状態に落ちつくのかということを示している。このランドスケープという図自体は、以前複雑系の授業を受けたときに見たことがあった。この場合は、超ひも理論で用いられるパラメータを使って、ある宇宙がどの物理法則になるのかということを示す図だった。本当はパラメータがもっとたくさんあるので三次元図形じゃ表せないらしいが。
最後に、人間原理の話をしていた。
著名な科学者にも賛同者が多い考え方だが、この記事の監修である佐藤勝彦は否定的。「なぜ」という問いに対する思考停止になってしまうから、と。


ユリイカ諸星大二郎特集の、夏目房之介都留泰作対談だけ読んだ。
諸星初心者だけれど、面白い話だった。
形で描くのに対して線で描く。考古学のスケッチみたいな感じ。それがいわゆる異形を描くのに適しているスタイルなのではないか。大友克洋であれば、もっときっちりはっきりと描いてしまうだろうとあたりを、不定形なまま描く。
小説でしか描かれないようなことを、言葉ではなく絵で表現しようとしているのではないか。
言葉と絵のどちらでもないあたりの表現をしようとする。ゆえに、言葉に問題を抱えた登場人物が出てくる。
都留は、マンガ家でもあり文化人類学の研究者でもあるので、実作者としての話と文化人類学側の話を両方していたのも、面白かった。


『RATIO05』
戸田山・伊勢田の科学実在論を巡る往復書簡最終回。
戸田山が、科学哲学の経験主義的な縛りをもっとゆるくしないかということを提案する。
例えばハッキングの介入による実在の基準であったり、さらには統語論的捉えや理論偏重なところなど。
それに対して伊勢田は、戸田山の提案したアイデアが、誰の言っていることと近いかということを示しながら、統語論的捉えから意味論的捉えに変えることや、理論偏重ではなく実験・実践を重視することへの変化は、むしろ反実在論者によるものだということを指摘する。
さらに戸田山は、確かにそのような変化が直ちに実在論者に有利になるわけではないことを認めつつ、そもそも今の科学哲学は実在論に対して厳しすぎるのではないかと問う。
さらに、そもそも科学哲学というのは一体どのような営みであるのかという根本的な問答が、2人に間で行われる。
それは科学的実在論という科学哲学の1ジャンルでの話を越えて、科学哲学や哲学者の役割、あるいは合理性についての対話となる。
そもそもほとんどの科学者は実在論にコミットしているだろうに、何故哲学者が実在論にコミットすることは合理的じゃないですよ、などということができているのか。それは哲学者の僭越なのではないか、と戸田山は問う。
伊勢田は、科学者による合理性とは別の合理性による判断を哲学者はしているのだと答える。科学と科学哲学の関係は、野球とメタ野球の関係のようなものであるという。メタ野球というのは、野球のルールや条件について考えることだ。例えば、今のはホームランだったが、この球場の大きさや形が違ったらホームランではなくなったであろう、とか。そのようにして、野球のプレイがどのような条件に規定されているのかを考えるのが、メタ野球だ。そして、プロ野球選手が必ずしもメタ野球についても通じているとは限らない、というのが伊勢田の考えである。
一方戸田山は、野球とメタ野球の喩えについては完全に認めつつも、科学と科学哲学は野球とメタ野球ほどには分離できるものではないのではない、と自らの立場を述べる。
あと面白かったのは、戸田山が、悲観的帰納法をハッキングや伊勢田のように重視することはないのではないかと述べてるあたり。
悲観的帰納法というのは、科学はかつて何度も間違ってきたのだから、今の理論も正しいとは限らない、あるいは間違っているというものである。
この例としてよく挙げられるのがフロギストンだったりするわけだが、それに対して戸田山は、フロギストン説を唱えていた学者は、しかしフロギストン以外の元素に関しては現在に繋がる考えを持っていたのであって、酸素理論vsフロギストン理論といった単純な構図ではなかったことを指摘した上で、本当にまずい間違いというのはそんなに大して起こっていなかったのではないかと述べる。
この往復書簡はとても面白かったし勉強にもなったので、書籍としてまとめてもらいたいなあと思っているのだけど、しかし一冊の(一般向け)書籍とするにはマニアックでピンポイントな話題かもしれない。
そもそもこの往復書簡、『RATIO』の多くの読者は果たして読んでいたのだろうか。この雑誌の他の記事とは分野が多少離れているし、そこそこ専門的な話題でもあるし。僕は逆に、この往復書簡以外は『RATIO』読んでないしなー。

日経サイエンス 2009年 04月号 [雑誌]

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Newton (ニュートン) 2009年 04月号 [雑誌]

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ラチオ06号

ラチオ06号

*1:三中さんは系統樹さえあればいいと思っているんでしょ、などと言われることがあるので、分類も大事だと思っているよという話