LIVE ROUNT ABOUT JOURNAL 2009

建築家藤村龍至率いるTEAM ROUND ABOUTが主催するLRAJへと行ってきた。
これは、建築家らのレクチャーセッションとディスカッションからなっているのだが、特徴的なのは、そのセッションがリアルタイムで文字起こし・編集され、イベント終了と同時にフリーペーパーROUND ABOUT JOURNALが完成しているという趣向になっていることだ。
以下、公式ブログ
http://www.round-about.org/2008/12/live_round_about_journal_2009.html
http://www.round-about.org/2009/01/lraj2009_1.html
http://www.round-about.org/2009/02/live_round_about_journal_2009_1.html


それにしても、このイベントは熱い! 熱すぎる!
11時に始まり、終了したのは21時をとっくに回って、22時近かったかもしれない*1
100席はとうに埋まっており、立ち見も一杯だ*2
僕は最初からはいることはできず、17:30からのディスカッションから見たが、それでもあれだけの熱気を感じていたのだから、最初からいた人たちはくたくたに疲れ果てて帰ったと思う。もちろん、それは心地よい疲れだったはずだが。
ディスカッションも、相当にすごいものだった。
レクチャーセッションを担当していた16人に、コメンテーターが2人、モデレーターが1人、それに主催者の藤村を加えた20人がずらりと並んだその光景だけで、一体何が始まるのかという感じである。
ちなみに、レクチャーを担当したのはほとんどが建築家ないし建築家集団であるが、例えばmosakiは建築家ではなく、編集者とデザイナーのコンビである。コメンテーターには、濱野智史社会学者の南後由和だ。
さらにその後ろには、2枚のスクリーンが下ろされ、11:00から17:00までに行われたセッションが編集されていく様子が投影されている。左側はPCの画面が直接映し出されている。
編集にはmashcomixという漫画家集団も参加しており、彼らが今日のセッションをもとにして2コママンガを描いていく様子が、カメラに映し出されて右側のスクリーンに映し出されている。
彼らは、会場の後方で作業をしており、振り返れば彼らの作業の様子は直接見ることも可能だ。
写真が横向きになっていて見にくいが、一応。
http://image.movapic.com/pic/m_20090131170716498406b45d94d.jpeg
http://image.movapic.com/pic/m_20090131170826498406fa96749.jpeg


さて、今回のイベント、ある程度メモはとっていたのだが、あの場で行われたディスカッションを復元することのできるようなものではなかった。また、レクチャーを受けてディスカッションしている部分もあったので、レクチャーセッションを見ていなかった自分にはフォローできないところもあった。
レポートとしては、大雑把で、かつ僕個人の考えなども含んでいるものであることを先にお詫びしておきたい。


ディスカッションは、コメンテーター濱野智史のコメントから。
ここで、「人の行動を誘発する仕掛け」としての「アーキテクチャ」という観点から、今までのセッションの中からいくつかコメントしていく。
ここでの濱野の興奮ぶりは、このイベントの熱気を表していた。
それだけワクワクさせられるような場所だったのだ。
乾久美子が浅草観光センターのコンペに出品した作品を、エロサイト的と形容して、会場を沸かせていた。誤解を避けるために注記しておくが、エロサイト的というのは、エロいという意味ではもちろんなくて、視覚的な行動動線の限界を探っているようなアーキテクチャになっているという意味である*3
さて、ディスカッションそのものも、自然と「アーキテクチャ」を巡って行われていく。
例えば、目的を達成するために「作らない」ことを選んだ山崎亮は、「アーキテクチャ」という言葉を知ることができてよかったと述べていた。彼は建築家であるものの、必ずしもモノを作るばかりが建築ではないと考えている。例えば、住民参加の場のようなものをいかにデザインしていくかということも、建築家の仕事なのではないか、と。
参加させる建築ということでいえば、dot architectも面白い。彼らは施工に関して、施主にも関わってもらったりしている。例えばペンキが塗れそうだなと思ったらペンキを塗ってもらう。そうすることで、「俺が作った」と思えるような建築になっているという。
「ユーザーの行動を誘発する」「ユーザーをクリエイティブにする」「ユーザーも関わる」
そのようなことが、いわば「アーキテクチャ」としての建築の目的・特徴として見えてくる。また、原田真宏からは、そのような概念は建築では「場」とか「場所」などと言われて、最近「空間性」とは違った意味で着目されていることも指摘されている。
それは、日建設計の勝矢武之による、1000人規模のオフィスの設計にも現れる。このオフィスはほんの数人単位のチームで動いているが、他のチームとのコミュニケートを可能にするように、仕事の空間を密集させてやや不快な空間とし、周辺の快適な空間にコミュニケーションのとれるスペースを作った。これは明らかに、環境管理的なデザインと言えるかもしれない。
藤村は、こうしたアーキテクチャを巡る議論を、二つの軸によって成立する。
すなわち、有形か無形か。そして、デザイナーの意図をどう捉えるか、である。
前者に関していえば、例えば「作らない」ことを選択してしまった山崎のような無形の「アーキテクチャ」もまた、建築といえるのかどうかという問題である。
後者に関していえば、藤本壮介によって提起されたことである。つまり、完成したあとにデザイナーの意図が強く出てしまう(「〜してほしい」ではなく「〜せよ」となっている)デザインはどうなのか、ということだ。意図せざる結果を機能させるためにはどうあればいいのか。
あるいは、藤村が考えようとした問題は、デザインの権力化・規制化という問題である。
それに対して、mosakiの田中元子は、そのような権力化を怖れるべきなのかと疑念を呈する。建築家の自意識の問題ではないと藤村は応答するが。
濱野が「意図」を問題化しても仕方ないところがあるとコメント、モデレーターの倉方俊輔も、建築家の倫理は禅問答のようになってしまうだろうとコメントし、その議題は打ち切られることとなった。
ただ、ディスカッション終了後、会場との質疑応答の際に、再びその問題が取り上げられ、原田が、「建築家の主体があること」、デザインを意志する主体の存在によってのみ倫理はありうるのではないかとコメントしていた。


ディスカッションの後半は、方法論を巡って議論された。それはこのイベント全体のタイトルが「手の内側」とされていたことにもよる。
方法論を巡ってのこれらの議論は、いわば創作論に関する議論なのだと思われた。
建築家というのは、クリエイターである。
クリエイトという行為を、方法論(言語)にすることは可能なのか、あるいは方法論とは一体いかなる位置づけを持つのか、ということについての議論が交わされていた。
軽く驚きだったのは、方法論に対して反発を持つ人たちが一定数いたことだ。言語化できない創造性といったものを素朴に称揚している感じの発言もあった。無論、そのような創造性は確かにあるだろうから、そのような発言を一顧だもせずに切り捨てることはできないが、それをかなり素朴に言ってしまうことに驚きがないでもない。
あるいは、方法論とは事後的に作られるものではないのか。作っている最中に、そのような理論のようなものが参照されるわけではない。だが、作ったあとに言語化されることで、それは次の制作に活かされることになるだろう。
方法論というのは、次の方法論を生み出すための触媒のようなもの、といえるかもしれない。
藤村は、こうした議論に対して、形式知暗黙知集合知という言葉を持ち出す。確かに、クリエイションというのは暗黙知によって成り立っていてるが、それをいくらかでも形式知にすること(言語化)で、集合知にすることはできないのか、と。
ここで、藤村の方法論としてのログを残すということに関しても、様々な議論が交わされる。
ログを残すこと、あるいはそのログをオープンにすることには、一体どのような価値があるのか。
建築とは必ず物質性を伴うが、そのような物質性はログには残らないのではないか。
あるいは、オープン性というのは、意志決定という面では、あるいはポリティカルコレクトネスという面では価値があるかもしれないが、クリエイションという面で価値があるのか。
しかし、オープンにすることによって、デザイナーが思いも寄らない新しい要素が入り込んで、まさにクリエイティブな造型が生まれることがあるだろうし、意図を越えた建築が生まれる可能性もあるのではないだろうか。
その点に関しては、「ログを残す」という言い方自体が誤解を招くのでよくないのではないか、という指摘もあった。


このイベントの来場者のほとんどは、おそらく建築関係者であったのではないかと思う。
ディスカッションの後半、質疑応答が始まってからは、この場が建築業界だけで閉じてしまっているのではないかということを危惧する発言を、主催の藤村は繰り返していた。
しかし、ディスカッションで話された内容は、建築業界の内輪ネタにとどまるようなものではなかった。
アーキテクチャ」を巡って、あるいは「創作と方法論」を巡って、建築にとどまらない有意義な議論が交わされていたと思う。
水曜日に行われた思想地図シンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」で、磯崎新濱野智史の間に交わされた議論を、引き継いでいくような場所だったのではないかとも思う*4
建築家という人たちは面白いなと思ったのは、一方では理論的なことを考えながら、一方では実践的なことを同時に考えなければならないということだ。それは一つには、実際にモノを創っているということもあるが、もう一つには建築に関しては全く素人の一般の人たちと絶えず関わり合っているということがある。だから、このディスカッションに参加した人の中には、難しい言葉は使いたくない、あるいは難しい言葉は知らないと言う人たちもいた。しかし、なかなかどうして、そういう人たちこそがかなり鋭いことを言うのである。
そういう意味でも、「アーキテクチャ」を巡っては、批評家や社会学者が交わしている議論とは全く別の議論が交わされていたように思える。
今後、こうした議論がいかに接続されていくのかこそが、課題になるだろう。
しかし、とにかくまずは、このような熱い「場」があったことを記録しておかなければと思った。
ディスカッション最後での柳原照弘の発言を受けるならば、このLRAJというイベント自体が、藤村龍至の作品なのである。藤村によって、20人近くの建築家らが、普段は行わないような議論をさせられている。まさに彼らの「行動を誘発させる」アーキテクチャが、LRAJであったのだ、と。


完成したRAJVol.9
渡される時に、黄色いシールを貼って完成となる。来場者もちょっとだけ、制作に「参加させられる」という仕掛け。

他のページはこちらを参照。

*1:終了予定時刻は20時だった。議論が盛り上がったために時間をオーバーしたという面もあるが、一方で編集作業が終わらなかったからという理由もある。とはいえ、6時間の内容を3,4時間でA4で12ページにまとめるわけだから、かなりの速さだと思う

*2:立ち見スペースがかなり広めにとってあった。もう少し椅子を用意してもいいのではないかとは思った

*3:繰り返すが、僕は発表の方を聞いていないのでその作品がどのようなものか分からない。エロサイトに関していえば、バナーが大量に並んでいて、エロファイルへのリンクが巧妙に隠されて、スパムをクリックさせるような構造をしていることを指している

*4:そして、そちらのシンポジウムよりもずっと刺激的であったということを、個人的な感想として付け加えておきたいと思う