思想地図シンポジウムVol.3「アーキテクチャと思考の場所」@東工大

まず、感想の一つ目としては、何でこんなに沢山の人が来てるのか、と。
磯崎新浅田彰宮台真司東浩紀宇野常寛濱野智史というメンツゆえ、というところなんだろうが。
僕はかろうじて本会場の方で座ることができたが、第二会場すらも座りきれないほどの満員だったらしく、まあすごいとしか言いようがない。
終了後、ゼロアカの人たちやtwitterはてなの人たち*1と合流して、オフ会みたいな感じになった。今までも、東浩紀のシンポジウムのあとに、そういうことするのはわりとあったのだけど、僕がいったことあるなかでは、最大の人数だった(僕が知っている、この界隈の人が大体集まっていた感じ)。
来場者全体の人数も多かったし、友達や知り合いの数も多かったなあという話。
それ意外にも、あまりにも人が多すぎて、来てたはずだけど会うことのできなかった人もいる。
まあ何故こんな話からしているかというと、僕にとっては、シンポそのものもそれなりに面白かったものの、そのあとのこのオフ会のようなものが面白かったからだ。
特に、id:ggincさんやid:mine_oたちと、シンポの感想やそれに関わる話、あるいはそれとは関係ない話やらを沢山して、楽しかったし、得るものも大きかった。


このシンポのレポートは、既にあちこちであがっているし、これからもあがるだろうし、
いずれネットのどこかにファイルがうpされたり、あるいは後日、『思想地図』で活字化されたりするだろうから、どんな内容だったかを細かくレポートする気が湧かない。
あるいは、ネタ(浅田彰が先に帰ったとか)について書いたりする気もない。
なので、大雑把な感想とか何とかを書くだけにとどめる。
以下の内容は、シンポで話された内容よりも、それを聞いて僕が思ったことの方が大きなウェイトを占めているので、それぞれの論者が話した内容とは異なっているところが多いと思う。どんんな内容だったが、それなりに正確に知りたい人は他のレポートをあたったほうがよい。
ちなみに、第一回と第二回の思想地図シンポのレポートも書いている。
「国家・暴力・ナショナリズム」@東工大 - logical cypher scape
「公共性とエリート主義」@新宿紀伊国屋サザンシアター - logical cypher scape
今読み返してみると、結構楽しんでる感じがある。
今回は、最後の方はわりと面白かったのだけど、前半がちょっとなあと思ってしまう。
個々の話で、聞くべきところはあったような気がするのだけど、あんまりにも話があっていないので。
批評とか思考とか可能か、という問いが立てられていたわけど、何だか不可能だなあという気がしてしまった。
それは、身も蓋もないような宮台のツッコミ*2に、同意してしまいたくなるからだ。
つまり、このお喋りの目標は何なの?
社会に対して介入することが目標であるならば、政治家なり技術者なり起業家なりになった方が、よほどその目標へは近づけるだろう、と僕は思う。
もちろん、今の社会について、何某かの分析や研究を行ったりすることはできる。
ただし、それはある種の私的なおしゃべりの類にしかなりえないだろう*3
そしてそのことは、別に決して不毛ではないと思う。
ただし、それが何か有効な介入につながるとはなかなか思えないのである。だから、介入を目標とするならば、こんな話を延々繰り広げるのはあまり意味がないし、こんな話をするのであれば、介入というようなことを目標として定めない方がいいのではないか。
批評とか思考とかいう言葉で意味されているのが、言論による状況への介入ということを指すのであれば、それはほとんどの場合、不可能だと思える。
そしてそうであるならば、ゼロ年代の日本でもっとも影響力のあった批評家・思想家とはひろゆきである、といえるのかもしれない。*4


しかし、そんなことを言い出してしまっては、シンポジウム自体はそこで終了になってしまう。
このシンポジウムの中で唯一噛み合ったというか、面白かったのは、
最年長の磯崎新と最年少の濱野智史である。
「かたち」というのは、無数のバリエーションを逐次生成していくことができる。
しかし、物理的制約、素材の問題があり、その中から何らかの「かたち」にすぱっと決めなければならない。
「かたち」の生成を止める、ということ。そこにのみ、建築家の仕事はあると、磯崎は述べる。
濱野がwebアーキテクチャに見出したのは、そうした物理的制約や素材の問題がない世界では、ありとあらゆる「かたち」がありうるということだ。建築家がどっかで、それを止める必要がないわけである。
ここで、東が藤村龍至の設計思想というのを取り上げる。
それは「かたち」の生成について、ひたすらログをとっていくというやり方である。
この考え方においても、物理的な実現の目指すのであれば、やはりどこかで止める必要はある。
それを決めるのは、結局物理的制約条件や素材の問題であろう。
だから、磯崎のいう建築家とある意味で同じだともいえる。だが一方で、やはり違いもある。
つまり、その決定は、ひとりの「作家」によってえいやっと一気に行われるわけではなくて、制約条件を一つ一つ検討しながら、順々に行われていくのである。
ログを残していくというのは、つまりそういうことである。
例えば、制約条件3が変わったから、その時のログに戻って、そこだけ変えようということも可能だろう*5
あるいは、制約条件が増えることもある。というか、そもそも条件は最初から全て分かっているわけではなくて、「かたち」を生成させてログを残していく過程で、少しずつ分かっていくものである。
だから、一度生成を止めたとしても、それを再び再開することができる。
それはもちろん、原理的には磯崎的な思想でも可能なのであるが、それがより容易になるだろう。
そして、その再開というのは、同じ「作家」がやる必要はない。ログを読むリテラシーのある人間*6であれば誰でもその作業を引き継ぐことができる。
さて、もう一つの問題。
磯崎が濱野に最後に質問していたこと。webアーキテクチャは、素材がないからなんでもできるかもしれないが、それが物理的世界に変換される際には、一体どうなるのか。
素材のない世界から素材のある世界へ。
僕は、なるほどここにおいて、ARとか環境知能ロボットとかが意味づけされることになるなあと思った。
ARは、物理的条件のない(「重さ」のない)素材を作り出すことになる。
逆に、ロボット技術というのは、何らかの「重さ」を与えるものかもしれない。
あるいはそういった変換というのは、twitterとかストリートビューとかそういったwebサービスについて既に行われつつあるのではないかとも思った。


同じ週の土曜日に、藤村龍至主催で、コメンテーターとして濱野智史の参加したイベントがあった。
LIVE ROUNT ABOUT JOURNAL 2009 - logical cypher scape

*1:言うなれば、東浩紀ゼロアカウォッチャークラスタとでもいうべき人たち

*2:宇野も似たようなことを言っているが、まあ宮台に完全に包括されてしまっているというか

*3:ここでいう私的というのは、内輪だとかコミュニティだとか言い換えてよい。つまり、このシンポで問われているような、社会に介入する類の公共性・全体性の反対語として

*4:浅田彰が、マルクス主義が失効して以来、批評に場所などなかったというのは、そういう意味で正しいのかもしれない。理論と実践が繋がらなくなった

*5:原理的には、実務的にどうなのかはわからない

*6:ここでは建築家