内井惣七『進化論と倫理』

上とあわせて、今日は進化論漬け。
それにしても、ダーウィンはすごいなあと思う。
20世紀の天才はアインシュタインだとして、19世紀の天才は間違いなくダーウィン
進化論は、ダーウィン以後様々に改訂されてきたし、そもそもダーウィン分子生物学はおろかメンデル遺伝学すら知らなかったわけなのだが、それでも基本的な考えとしては彼の考えは全く間違っていないばかりか、現代の生物学や生物学哲学に対しても示唆を与えるようなことを述べている。
分からないところは、正直にわからんと述べているし。


さてこの本は、いわば進化論的知見から倫理というものをどのように考えるか、というものである。
第一部ではダーウィンそのものの著作が取り上げられる。
生物学者の書く入門書では、ダーウィンの著作そのものから引用されることはほとんどない気がする。ダーウィンの「考え」は引用しても、ダーウィンの「書いたもの」は引用されないというか。
ダーウィンの「書いたもの」を直接引用してきて*1論じていくというのは、やはり文系的方法論だよなあと思う。
しかし、これは滅茶苦茶面白い。
ダーウィンの倫理についての考えと、ミルの倫理についての考えなどが比較されていく。
人間がどのように進化してきたのか、あるいは進化のプロセスについての細かいことなどは、ダーウィンの時代にはまだ分かっていないことが非常に多い。それ故に、ダーウィンの書いていることも今からみると、隔靴掻痒なところはあるのだけど、内井がそれを解きほぐしていく。
動物と人間は連続的である。
それでは、倫理ないし道徳の起源は一体どこにあるのか。自然淘汰と文明(倫理・道徳)との関係(接続)はどうなされるのか。
第二部では、スペンサーとハクスリーが検討される。
スペンサーというと、今ではもうほとんど評価されていないが、内井はスペンサーについても丁寧に読みといていき、通俗的なスペンサー批判が浅いことを指摘する。
スペンサーは利己主義と利他主義を「進化」という考えをもってどうにかあわせようとしたのである。しかし、そもそも彼の進化論理解は誤っており、彼の論理の中には「進化」以外のものが混ざり込んでしまっており、彼の目論見は達成されていない。
ハクスリーというのは、『すばらしき新世界』を書いたオルダス・ハクスリーの祖父である*2
ハクスリーは、ダーウィン支持者であるが、スペンサーのように進化論から倫理を導き出すことには反対している。
進化論から論じられるのは、倫理の進化であって、進化の倫理ではないというのがハクスリーの主張である。
また、優生学についても強い批判を行っている*3
ハクスリーからすれば、スペンサー流の倫理は、明確な正当化ができていないのである。
しかし、内井はハクスリーの倫理観もまた、常識的な直観を持ち出すだけで、正当化がなされていないと批判する。
スペンサーは、倫理を進化によって正当化しようとした。この発想は、内井のこの本の目的に沿うものであったが、その内実はうまくいかなかった。ハクスリーはそのことを的確に指摘しているし、またそのような方法の危険性も指摘しているが、倫理の正当化はやはりできていない。
第三部では、社会生物学を取り上げる。
ここでとりあげられるのは、マイケル・ルースと呼ばれる倫理学者・哲学者である。彼はもともと、反社会生物学の立場に立っていたが、論争の中で社会生物学及び進化論への理解を深め、進化論から倫理を考えるのに至ったのである。そのため、生物学と倫理学双方の知見を持っているとして、内井は彼を検討の課題に載せる。
また、そもそも進化論に関する知見はそもそも倫理学に対してどのような貢献をもたらすのか。
内井は、ホッブズ倫理学を俎上に挙げて、実際に進化論に関する知見を用いてホッブズ倫理学を批判的に検討してみせる。
さらにここでは、ルースだけではなく、20世紀の倫理学者ヘアや19世紀の倫理学者シジウィックの知見などを取り入れながら、内井の進化論的倫理学を立ち上げていく。
結論だけを述べるのであれば、それは功利主義的な倫理である。
内井は、ある道徳的判断は道徳的営みの中でいかにして正当化されるのか、ということと、そもそも道徳的営みはいかにして正当化されるのかという問いを区別する。
前者への答えが、功利主義的なものである。
後者への答えは、道徳ないし倫理というものが、進化的に安定な戦略ではないのかということである。ただしそれは、利己主義とのミックスである可能性が高い。
また、事実判断から当為判断を導くことはできるか
つまり、そもそも道徳的判断を正当化するとはどういうことか、についても答えている。
確かに事実判断から当為判断を導くことはできないというヒュームの指摘は正しいが、事実判断についての推論から、ある人がある当為判断を受け容れるという推論は可能である。これによって、当為判断もまた正当化できるとする。
また、単なる当為判断は道徳的判断ではないが、道徳的判断に関しては、道徳的感情すなわち共感というものを正当化に用いる。この共感というのは、既にダーウィンが提出していたものである。


この本は、哲学的にあるいは論理的に考えていくとはどういうことか
そしてまた、様々な先人の知見をいかに批判的に検討していくか
ということが非常によく分かる本になっている。
内井の結論を肯定するにしろ否定するにしろ、彼の方法自体は非常に明晰である。
例えば、ハクスリーの考えなどは感情的には非常に肯定したくなるし、そのことは内井も認めているが、論理的な展開に問題があることを冷静に指摘する。
どこに問題があり、それをどのようにすれば解決することができるのか、解決するためにはどのようなふうに考えればいいのか、そしてそれに従って考えるとどうなるのか。
僕は倫理学自体にはほとんど興味がなかったわけだが、この論証のプロセスを見ていくこと自体は非常に面白く、興奮した。
テキストにあたり、論理的に検討していくというのは、内井が科学哲学者として身に付けたディシプリンなんだろうなあとも思う。
分野は違えど、『時間の謎空間の謎』とも似ているような感じがした。
哲学や倫理学ってなんか怪しげだなあと思っている向きに対しても、科学哲学っていうのはこういうふうに使えるんだよってことが示すことのできる本になっていると思う。


さてこの本も、絶版になっているため、ネット上でpdfで見ることができる
http://homepage.mac.com/uchii/Papers/FileSharing83.html

進化論と倫理 (Sekaishiso seminar)

進化論と倫理 (Sekaishiso seminar)

*1:日本語訳も内井によるものである

*2:ディファレンス・エンジン』の差分事典に二人とも掲載されている

*3:で、その孫がディストピア小説を書くのだから、ある意味でできすぎているw