問いの整理

ブログで書かなくてもいいのだが、ブログで書いてもいいので、とりあえず書く。
自分の興味・関心のあることを腑分けしてみる。

「何故生きてるのか」的問い

哲学的な問いの例として、「私は何故生きてるのか」というのが挙げられることが多いと思うのだが、この問いには2つの答え方があるはずで、それは結構異なるものだと思う。

原因追求型ないし存在論

この「私」が「いま、ここ」にいるということの原因が知りたくて問うタイプ。
「私は何故生きてるのか」という問いに対して、「生まれてきたから」としか答えようがないといえば答えようがない。
何故生まれてきたのかといえば、両親がいるからで、何故両親がいるのかといえば、と問いを遡行していくと、「この宇宙は何故あるのか」という問いにも辿り着く。
この場合、私の存在とこの世界の存在は密接に関わり合っているので、独我論や「独在論」とも結びつきやすい。
何故、他でもなくこの私が、何故、他でもなくこの時、この場所に生きているのか。
必然性とか偶然性とかも関わり合ってくる。
この私はこの私であってそれ以外の何ものでもあり得ないし、この世界もこの世界であって他の何ものでもあり得ないのだから、必然的であるともいえるし、
しかし、この世界ではなく他の世界が生まれてくる可能性や、この私ではなく他の人間が生まれてくる可能性も想定することが出来るので、偶然的であるともいえる。
ただ、これは言葉のあやみたいなものに過ぎないともいえる。そもそも、まずは必然性や偶然性をちゃんと定義しなければならない。
そもそも、「この私」って一体何か、どこからどこまでなのかということも問題になってくる。

目的追求型ないし人生論的

生きるための目的とか生きる意味とか価値を知りたくて問うタイプ。
「私は何故生きてるのか」という問いに対して、「〜をするため」とか「〜になるため」というかたちで答える。
何故といえば何故なのだけど、どのようにという問い方の方がむしろ適切ではないかと思う。
ここで問われているのは、むしろ価値観で、いわく善とか幸福とかについての問いと繋がってくる。
世の中で発せられる「私は何故生きてるのか」という問いの多くは、このタイプなのではないか、と僕は思っている。
ある種の文学とか、最近だとある種の社会学・社会論が、ひいては宗教が引き受けている問題であり、僕が思うところの狭義の哲学の問題ではないと思う。

芸術についての問い

芸術とは何かという記述的な問いと
芸術は何のためにあるのか、優れた芸術とは何かという価値的な問いの二種類に分けられる。
ここでいう芸術というのは、とりあえず価値語ではなく記述語である。
なので、ありとあらゆる制作物・表現一切合切全てを指す。
といっても、それではあまりにも広すぎるので、実用的な価値をほとんどあるいは全く持たず、基本的には作品という単位によって捉えられているもの、くらいに絞ってもよい。
もう少し具体的に言えば、絵画、文芸、音楽、映画、マンガ、舞台、建築、デザイン、現代アートなどといったものの総称である*1
人間の広範な文化活動の中の一領域のこと、と言っていいかもしれない。
文化活動には他に、スポーツとか料理・食文化とか観光とかがある*2
何が芸術であるか、あるいはいつ芸術であるか、というのは、その境界ではかなり揺らぐものであり答えることは難しいが、そういう制作行為・文化の一領域があることも確かであるはずだから、この問いかけにはそれなりに意義があるはずだ。
そして、人間はなんでこんなことをするのだろうか。
芸術などなくても人間は生きていくことができるし、芸術作品にはほとんど実用的価値はない*3
それでも何故芸術という行為があるのか。それはつまり、人間の文化の中で芸術が一体どのような位置を占めているのか、ということでもある。
先に、記述的な問いと価値的な問いに分けられるといったが、この点において、この問いの区別は曖昧となる。
僕が記述語として芸術という場合、どんなに下手な絵であっても、あるいは引き出しの中にしまってあって誰にも読まれない小説であっても、含むものとして使っている。
しかし、例えば絵であっても、道路標識であればそれは道路標識であって芸術作品ではないだろう。
そしてそのような区分は、あらゆる段階で設けることが出来る。その過程で、単なる事実ではなくて、価値的な要素が入ってくるだろう。
最終的には、芸術というのは価値語になるだろう。つまり、通常使われるような、優れた作品や表現を指す語となる。この際、何をもって優れたとするかの基準は様々なものが考えられるが、その基準は芸術とは何かという問いと密接に関わり合うはず。

知識・情報についての問い

「知っているとはどういうことか」「理解しているとはどういうことか」
例えば、「私は、雨が降ることとは神様の恵みであるということを知っている」という言明と
「私は、雨が降ることとは空気中の水蒸気が液体になって地面に落ちてくることだということを知っている」という言明の違いは何か。
そもそも、前者の言明は「知っている」といってもよいのだろうか。
ところで、前者は「知っている」ではなくて、後者が、しかも後者のような言明だけが「知っている」の正しい用法だとするのであれば、「知っている」というのはつまり、科学的に説明が出来るということだろうか。
あるいは、何か物事を理解しているということは、科学的に理解しているということだろうか。
もちろんここでは、科学的とは何かということも問題になるが、一方で、非科学的に知るとか、非科学的に理解するとかいうことがありうるとしたら、一体どういうことかということも問題になる。
「知っている」「理解する」「説明する」というのは、一体どういう状態・行為なのだろうか。


「赤い色を知っている」と「赤い色について知っている」は、おそらく異なっている。
前者は、何かを見てそれが赤いかどうかを判別することができることだろう。
後者は、例えば赤い色の周波数は何かとか、赤い色によって脳にはどのような効果がもたらされるかとか、そういうことを知っているということだろう。
それでは、「赤い色を説明する」と「赤い色について説明する」は、異なるだろうか。
これは異なっているような気もするし、同じような気もする。多分、クオリア問題はここにある。この2つが異なっているように思うと、クオリア問題は問題となるし、この2つが同じであると思うのであれば、クオリア問題は問題にならない、のではないだろうか。


科学的な知識、特に専門家でしか分からないような知識というものは、一体どのようにして社会に生かされるのか。あるいは、どのようにして社会全体に伝わるのか。


知識とは少し問題としては異なる領域になるが、情報というものについての問いもある。
知識があるというのは、情報をもっているということなのか。
説明するというのは、情報を伝えるということなのか。
そしてそもそも、情報とは一体何なのか。
それから、この問題は知的財産って一体何なのかという問いとも関わってくる。


追記(081203)

「情報の形而上学」という言葉を思い付いた。思い付いただけ。
多分、情報の存在論的身分を問う。
http://twitter.com/sakstyle/status/1034423773
http://twitter.com/sakstyle/status/1034425077

情報とか*4って外在的なものではないかと思う。
それがどういう様態で存在しているのか。
この宇宙は、物と情報でできているんだみたいなそういう話。でも、必ず何らかのメディアを必要とするわけでもあるので、うーん。

政治・社会・共同性・公共性についての問い

人は集団や社会を形成して暮らしている。
その中で、意志や価値観をどうやってすり合わせていくか、という問い。


この4つが、大きな関心領域であって、自分が哲学とか思想とか呼ぶものである*5
とはいえ、どれもが同じくらいの関心をしめているかといえばそうではない。
かつては、1番上の問いが一番大きな関心を占めていたのだが、今はこの4つの中では最も関心の度合が低い。
(追記しておくと、私とは何かとか、世界とは何かとかいった問題に関しては、哲学的考察よりは科学的解明によって解かれるところが大きいと思っているので、そちらへの興味が大きい)
芸術ないしフィクションと知識ないし科学というものについての問いが、関心の度合としては大きくなってきている。
それから、4番目の問いは、4つの中で一番書いていることは少ないが、関心の度合はそれなりに大きい。というか、気にせざるを得ない問いだと思うので、気になる。


追記(081203)
哲学について

ツンデレを哲学することもできる、というのは、ある意味で感動的だったな。哲学とは、問題領域ではなく、思考方法だということを示していたのではないかと。まあこの場合、分析系に限られるかもしれないけど。
http://twitter.com/sakstyle/status/1031822181

*1:それでは芸能はどうか。テレビドラマやコントはこれらのラインナップに並べても問題ないだろう。古典芸能は言うまでもない。それでは、バラエティ番組やクイズ番組なども含むだろうか。これはちょっと微妙ではないかと思う。あるいは、ゲームはどうか。これもまた微妙である。テレビ番組の芸能やゲームは、スポーツや食文化のように、人間の文化活動の中に位置を占めるが、芸術とは微妙に異なるのではないだろうか

*2:あるいは、科学や経済活動も、一種の文化活動かもしれないが(実際企業文化などといった言葉があったりするが)、科学や経済は文化とは別としておく方が普通だろう

*3:建築物などは実用的価値を同時に持ちうるが

*4:言葉の意味とか

*5:個人的な感覚に過ぎないが、存在論的な問いと芸術の問いと知識の問いを哲学、価値観に関わる問いや政治などに関わる問いを思想と大雑把に分けている。芸術の問いは美学、価値観に関わる問いは倫理学というふうにカテゴライズすることもある