カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』

1930年代のロンドンと上海を舞台に、名探偵クリストファー・バニングスが失踪した両親を捜す話。
主人公であるクリストファーの一人称で語られていくのだが、この語り口が何とも読み手を落ち着かない気分にさせる。
全部で7章に分けられているが、それぞれの章の扉には、例えば「1930年7月24日ロンドン」と書かれている。その章にはその一日のことが書かれているわけだが、回想に回想が重ねられるので、様々な時間の出来事がいくつも語られることになり、果たして今が一体いつなのか分からなくなっていく。
そもそも、「1930年7月24日ロンドン」と記された第1章はその冒頭からして「1923年の夏のことだった。」という一節から始まるのである。
そして、クリストファーの記憶というのは、時にいい加減である。いや、クリストファー自身は自分の記憶ははっきりしている(あるいはここは覚えていないなど)と断言する。しかし、昔の知り合いの記憶とは食い違っていたりする。どちらの記憶が正しいかは結局分からない。
もっとも、クリストファーはロンドンで名探偵として活躍し、高い名声を得ているのだから、彼の能力やそれに対する彼の自信はある程度確からしいとは言えるだろう。
それでも時折、いやにはっきりと断言するけれどこの記憶は明らかに怪しいだろと読者からすれば思われることをクリストファーは語るのである。
ストーリーの進行と共に、この語り口の不思議さ、不可解さを楽しんでいく(?)感じの小説である。
主人公は名探偵であるわけだが、実際に彼が何かの事件を推理して解決するというシーンは出てこない。なのでこの作品は、探偵小説というわけでは決してない。単に、主人公が探偵であるというだけである。
彼が少年の頃、彼の両親は上海で失踪した。彼が探偵、それも名探偵になったのは、この事件を解決するためであり、この物語もまさにこの事件に当てられているので、彼が担当した他の事件が描かれないのはまあ当然といえば当然である。
それにしても、この事件は、世界を揺るがすような大事件として描かれており、またこの事件を解決することであたかも世界が救われるように言われていることが、これまた面白いところである。
「孤児」にとって、親がいなくなった瞬間というのは、まさに世界が崩れ落ちてしまうようなものだ、と言われている。だから、親を捜し出すこととは、文字通り世界を再び立て直すことなのである。
それが日中戦争第二次世界大戦、あるいはイギリスと中国の関係と絡み合って描かれている。
クリストファーの両親の失踪を解決したところで、しかもそれは20年も前に起こっている事件なわけで、進行中の戦争がどうこうなるわけでは決してない。しかしそれでも、クリストファーは世界の危機を救うために、両親を捜し出そうとするわけである。
そのような彼の認識や記憶と現実との齟齬は、最終的に決定的に露わとなる。
いや、彼は確かに名探偵であり、事件の真相を探り当てることには成功するのである。しかしそれは、決して華々しい成功ではない。
日本と中国の戦闘が行われる上海で、クリストファーが歩き続けるシーンは、がらがらと崩れていく様子がまざまざと描かれている。
最後に、巻末の古川日出男の解説を一部引用しておく。

この本がイシグロの著作である以上、あなたは僕という語り手を信用してはならない。でも、僕には聞こえたのだ。孤児たちの悲痛な叫びが。声には出されていない、それが。(中略)クリストファーは、自分の回りに鏡としての孤児を集めて、たぶん記憶を共有しようとした。共闘しようとした。*1そして僕たちも。読者としての僕たちも、クリストファーの記憶を共有したのだ。だから、捏造された記憶に基づいて、断言する――わたしたちも孤児だった、と。

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

*1:サラとジェニファーという2人の女性だろう。ジェニファーはクリストファーの養子だが。さてこの共闘は果たしてうまくいったのか