「動機」をめぐって

「文芸評論」と「哲学」のタグをつけてるが、「理論社会学」というタイトルの講義について。
ミステリ小説の言説空間についての授業だった。
取り上げられた作家は、エドガー・アラン・ポー黒岩涙香、レーモン・ルーセル松本清張らである。
が、ここでは、授業で使われた、内田隆三「ミステリーが言説化されるとき――黒岩涙香『無惨』のディスクール*1を取り上げる。

推理の戯れを閉じる蓋

黒岩『無惨』は、日本初の探偵小説と言われている作品である。
実際にあった「筑地の人殺し事件」をモデルに描かれている。
実際の事件は解決していないが、作中では探偵が、見事に犯人を推理する。
探偵は、推理によってこの事件が「遺恨」によって引き起こされたものだと考える。
しかし、探偵は犯人の動機を「ミステリー」と呼び表す。
つまり、推理によって、「遺恨」意外には思いつかないが、本当の動機は犯人に聞いてみないと分からないからである。
これを内田は、テクスト内部からは導き出すことの出来ない「事実性」=テクストの外部だと述べる。
作中では、事件も推理も終わった後、当事者の告白によって、この動機が明らかにされる。
この最後の告白は、外部からテクストへ動機が挿入されたのであり、そしてこの挿入をもって、テクストは終わることができるのである。
動機という「事実性」をもってして、推理パズルは確定し、安定して閉じることができるということだ。


内田の主張はここまでだが、このことは、裏を返せば、このような「事実性」が与えられない限り、推理パズルはいつまでも不安定なまま続いていく、ということも言えるだろう。
正直、ミステリには全く詳しくないので、テキトーな話になってしまうかもしれないが、
新本格ミステリないしその極北と言われる清涼院流水ファウスト系の作家たちの作品は、そのような外部の不在を示しているのかもしれない。
推理パズルが不可解なまでに肥大化していく様は、つまり、それを安定させるための蓋がないからではないか、ということである。

動機は事後的に構成される

『無惨』は、実際にあった「筑地の人殺し事件」をモデルにしているとは先に述べたが、
この未解決の事件に対して、小説は、「遺恨」という動機をあてて解釈した。
さて、一方でこの事件は別様にも解釈されている。
事件から4年後、澤口謙次郎なる男が自殺する。この男は遺書において、強盗、放火、殺人、詐欺、脅迫、横領を繰り返してきたことを書いていた。
このことから、黒岩の新聞「萬朝報」は、実録シリーズを展開、「筑地の人殺し事件」の犯人はこの澤口ではないかと指摘する。
ここで、澤口は、犯行を冷静に行うことの出来る「兇漢」と呼ばれている。
つまり、この実録物においては、この事件は「兇漢」によるもので、いわば動機なき殺人*2として扱われている。
内田は以下のように述べる。
「動機とは行為者自身の思念というより、観察者による解釈ないし意味付与である」と。
さて、ここで再び『無惨』に戻る。
作中、最後の告白によって「動機」が明らかになるわけだが、これにしても犯行当時の思念が明らかになったわけではなく、(仮に本人によるものだったとしても)事後的な解釈に過ぎない。
では、何故そのような動機が真実だと見なされるのか。
それを内田は、「告白」という言語行為の規範に見て取っている。
「告白」という言語行為は、真実を語るものであるという了承があるから、それは真実と見なされるのである。


内田は、あくまでも事前の動機は不明だが、「告白」によって、事後的なものと事前のものが閉じる(やはりここでもテクストの安定が保たれる)ことを述べている。
しかしむしろ、そもそも事前に「動機」なるものはなかったのではないか。
ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の中には、まさにこの「告白」についての考察が述べられている部分がある。
私たちは、動機の告白の真偽を確かめることはできないが、そもそもそれは「動機」なるものが、真偽を確かめられるようなものとして「在る」わけではないからではないか。
「告白」の内容を正しいと考えるのは、その内容の真偽を確かめたからではなく、もっと別の基準によってである。
現在の心の哲学における一つの立場としてコネクショニズムがあるが、もし仮にこの立場が正しいとすれば、人間の心の中には、何か言語化できるような信念とか意図とかいったものが必ずしもあるとはいえなくなる。
信念とか意図とかいったものは、誰かに尋ねられそれに答えるとき*3、初めて現れてくるものなのではないか。
私たちは普通に行動している際、いつもいつも意図が先行しているわけではない。
むしろ、何の意図も動機もなく、行動することの方が圧倒的に多いだろう。それに対して、後から考えたときに、意図や動機が現れる。
最近の心理学の知見によると、幼児はまず、他者の心を推測する「心の理論」を獲得する。その後、それを自分にも適用することで自分の心を見いだす、とも言われている。


「動機」なるものは、そもそも存在しない。
せいぜいそれは、事後的に解釈しようとしたときに現れてくるものにすぎない。
例えば、これで僕が想起したりするのは、「ブギーポップ」シリーズであったりする。自動的に現れるブギーポップには、何の動機も意図もないだろう。
この作品がヒットしたことは、このような人間観が受け容れられたことを示しているかもしれない。
そしてまた、既に述べた、外部の不在によって推理ゲームが止まらなくなっているような作品群も、このような人間観を前提しているのではないだろうか。

*1:岩波講座「文学」6巻収録

*2:正確に言えば、口封じという動機があるが

*3:自問自答も含む