ライル「系統的に誤解を招く諸表現」、ストローソン「指示について」(『現代哲学基本論文集2』)

『現代哲学基本論文集1』も半分くらいしか読んでいないが、『現代哲学基本論文集2』。
この本は、ムーア、タルスキ、クワイン、ライル、ストローソンの論文が1本ずつ収録されているのだが、とりあえず今回はその中で、ライルとストローソンを読んだ。残りの3本はまた後日。
ライルとストローソンは共に、オクスフォードの日常言語分析グループに属するが、年齢は20歳ほど隔たっている。

ライル「系統的に誤解を招く諸表現」

これはとても面白かった。
哲学者の考える多くの概念が、誤解に基づいているのではないか、という指摘が行われている。
そこで、日常言語を分析してみせるのである。
存在や普遍者について、あるいは信念について。
それらが述語になったり主語になったりするために、あたかも性質として捉えられたり、存在者として捉えられたりしてきたが、そうした表現の意味するところをより分かりやすい形で言い換えをしてみれば、そうではないことが分かる。
つまり、哲学的な、抽象的な思考をしようとすると、誤解を招いてしまうような諸表現があり、そのために誤解してしまうと、無用な存在を増やしてしまうことになるのである。
ライルのやっていることは一見地味であるし、それ、本当に哲学なの? という感じもするが、そしてライル自身がそのことを認めているが、それでもやはり哲学の重要な仕事なのである。
哲学を始める前に、その準備をする。
この論文の先におそらく、『心の概念』があり、カテゴリーミステイクという話がでてくるのであろう。
『心の概念』が読みたくなってきた。

ストローソン「指示について」

ラッセルの同名の論文*1で提出された「記述理論」に対する反論。
「記述理論」による分析や、そこから導き出される「論理的固有名」なるものは、不要であったことを指摘している。
ストローソンは、表現と表現の使用を区別することを提案する。それは、表現の意味と指示を区別することでもある。
表現の意味とは、その表現の指示対象ではない。というのも、表現そのものは何かを指示しないからである。人間が表現を使用することによって、指示がなされる。
つまり、人間による表現の使用というところをきっちりと区別せずに、表現の意味=指示ととってしまったから、ラッセルは誤りなのだ、ということである。
ラッセルであれば、「フランス王は禿である」という文は、「フランス王が存在する」ことを主張していると分析するわけだが、
ストローソンは、そうではないという。文とその文を使った主張は区別されなければならないので、まずその文がそういったことを主張しているということが間違っている。「フランス王は禿である」という文は、「フランス王が存在する」ということを含意してはいるが主張してはいない。
ストローソンの主張は、それだけで十分成り立つし、確かに正しいと思うのだが、しかし、ラッセルへの反論として強いものなのかどうか、というのはちょっと疑問だった。ラッセルの場合、彼なりの形而上学や認識論へと繋がっていくからである。
もちろん、ストローソンが言いたいことは、そのスタートであるところの「記述理論」が間違っているから、それに連なる他の話もぽしゃってしまうということなんだろうが。


現代哲学基本論文集〈2〉 (双書プロブレーマタ)

現代哲学基本論文集〈2〉 (双書プロブレーマタ)

*1:ただし、原題は、ラッセルは"On denoting"であり、ストローソンは"On refering"である