イアン・ハッキング『表現と介入』

科学的実在論を扱った、科学哲学の本。
タイトルにあるとおり、本書は大きく分けて、表現についてと介入について扱っている。
この場合、表現というのは、科学の理論のことであり、介入というのは、実験や観察や測定のことである。
従来、哲学者があまり注目してこなかったであろう、実験に関しての哲学的考察でもある。


まず、ハッキングは、科学哲学のトピックを大きく二つに分ける。
すなわち、合理性と実在論に、である。
この両者は完全に区別できるわけではないが、本書では扱われるのは実在論についてであり、合理性については扱われない。
続いて、科学的実在論についても、大きく二つに分ける。
それは、理論に関する実在論と存在に関する実在論である。
理論に関する実在論は、理論というのは真理を目指すものであり、また、正しい理論は真理であると考える。
存在に関する実在論は、理論的存在が実在していると考える。
理論に関する反実在論は、理論というのは役に立つものであるのにすぎず、それは必ずしも真理であるわけではないと考える。
存在に関する反実在論は、理論的存在が有用な虚構であると考える。
通例、理論に関する実在論者は、存在に関する実在論者であり、逆もそうであるように思われるが、
理論に関する実在論者であり、かつ存在に関する反実在論者や、理論に関する反実在論者あり、かつ存在に関する実在論者というのもありうる、とハッキングはいう。
ハッキング自身の立場もまた、理論に関する反実在論者であるものの、存在に関する実在論者である。この本は、理論的存在が実在するということについて述べられていく。
またさらに、実在的とはどういうことかについて考察される。
オースティンは、実在的(本物の)という言葉について分析している。それは、常に同一の意味で用いられているわけではない。「本物の(実在的)」という言葉は、「本物ではない」との対比において意味をなす。
ここでは、カートライトの因果主義が紹介される。これは、実在的という言葉を、因果性によって捉えようとする立場である。


さて、第一部表現すること、では、反実在論者であるような科学哲学者が紹介され、批判されていく。
例えば、コント、マッハ、ヴァン・フラーセンに代表されるような実証主義
あるいは、パースもしくはジェームズやデューイのプラグマティズム*1
さらには、クーンやファイヤアーベント、パトナム、ラカトシュといった名前が挙げられていく。
ここでは、彼らの不可共役性であったり、指示の理論であったり、リサーチプログラムについてであったりが、科学史を詳細に検討することによって批判されていく。
ハッキングは、彼らの主張が、科学史的事実を必ずしもうまく説明できていないことを示していくのである。


やはり、第二部介入することが、この本の肝となっている。
ハッキングが、存在に関する実在論を主張するのは、科学においてこの介入ということが行われているからである。つまり、理論的存在に対する操作なり何なりが行われているからだ。
彼は、科学における実験というものを、見極めようとする。
つまり、科学哲学では長く、理論というものが重視されてきたが、彼は、理論と計算と実験のそれぞれを、そしてそれらが共同作業を行っていることを重視する。
決定実験というような考え方も批判していく。決定実験なるものはない。それは、補助仮説を増やしていけば決定実験による反駁が起こらない、というデュエムのテーゼともまた違う。つまり、後の世において、決定実験と呼ばれているような実験が、しかし実際にはその理論とは何の関係もなく行われていたからだ。実験が先に行われ、そのずっと後になって理論が生まれることもある。
また同様にして、理論負荷的という考え方にも批判を投げかける。
「観察」ないしは「見る」という言葉は、科学哲学者が考えるほど、一筋縄ではいかないものなのである。
そこで例としてだされるのが、顕微鏡である。
そもそも、顕微鏡によって「見る」とは一体どういうことなのだろうか。顕微鏡で見ることは、そもそも直接見ることとは全く異なる。それは、直接見るときとは、異なる光学的な性質が用いられているからである。
そして、様々に異なるシステムを使いながらも、同一のものが見えるとき、それは実在しているのではないだろうか。
また、ハッキングは、実験とは現象の創造であるともいう。
彼は、現象のことを規則性のことであると述べる。それは、私的なもの、感覚所与などではなく、もっと公的なものなのである、とも述べる。科学は、現象を説明するだけではない。現象を創造するのである。しかしそれは観念論というわけでもない。そもそも規則性を見いだすためには、実験室において、様々な条件を整えて実験器具を設定しなければならない。
科学とは、理論だけで成り立っているものではない。実験と理論の両方が必要なのである。これを、ベーコンの蜜蜂のたとえによって彼は説明している。
また、唯一の正しい理論があるのではなく、様々な理論が絡み合ってこの世界が出来ているといい、そのことをボルヘス的と言い表してもいる。
本書は、科学史についての記述が非常に多く、正直な話、ディティールについては僕には理解しきれなかった部分も結構ある。だが、とにかく、科学において実際にはどのようなことが行われてきたのか、ということに着目して、そこから実験というものの重要性を拾い出し、科学哲学者が思いこんでいたような実験や観察についての考え方を突き崩していく。
そして、実験によって作られ、そして操作される存在こそが、実在していると述べているのである。

追記(080828)

『RATIO』誌上にて、戸田山和久伊勢田哲治往復書簡という連載が行われている。
この往復書簡のテーマは、科学的実在論である。
自然主義者(実在論者)の戸田山と、経験主義者(反実在論者)の伊勢田による論戦が行われている。
Vol.5では、天文学者は、太陽の中心を「観測」するというが、それは一体どういうことか、というシェイピア*2の論文から話が始まる。
ここでいう「観測」というのは、経験主義者がいう「(直接の)観測」とは明らかに異なる。
さらには、重力レンズ効果とそれに関するハッキングの論文も紹介され、さらには、リサ・ランドールとそれに対する内井の批判にも言及が及び、かなり新しい話題ともリンクしながら話が展開している。
戸田山も伊勢田も、ハッキングの考えている、操作可能性という基準の重要性と、存在が実在するかどうかの線引きが固定的ではないことを認めている。
その上で、重力レンズというものの実在性について論じられている。
ハッキングは、件の論文において重力レンズの実在性に関して否定的なのだが、戸田山は、近年、重力レンズ効果を用いて系外惑星が発見された*3という事例を持ち出して、これは重力レンズの実在性を認めてもよいのではないか、と述べる。
ハッキングは、「現象を救う」タイプの「最善の説明」は実在性の基準として認めない。それは、過去に何度も覆されたことがあるからだ。一方で、「最善の説明」は程度問題だとも考える。ハッキングが実在性の基準として持ち出す操作可能性というのも、「最善の説明」の一種であるが、それは実在性として十分な基準であるというわけである。
戸田山はここに、「検出」というものも加えようとする。「検出」というのも、いわば介入的な操作なのであって、それが可能であるということは実在しているといってもよいのではないか、ということである。
また、戸田山は、科学者の用法を重視してそれらを整理するのが哲学者の役目だと考えており、科学者の用法を無視して哲学者が実在性の基準について裁断することはよろしくないと主張するのに対して、伊勢田は、科学者の用法を重視するのは当然としても、哲学者は時にそれらについて裁断することができると主張している。


この往復書簡、面白いので、終わったら新書かなんかにまとめてほしいところである。
RATIOVol.2
RATIOVol.3
RATIOVol.4


表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

別冊「本」ラチオ 〇五号

別冊「本」ラチオ 〇五号

*1:ハッキングは、パトナムをパースの道を行く者、ローティをジェームズやデューイの道を行く者としている

*2:名前をうる覚え

*3:それも名古屋大学の観測チームによって