大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』

2001年*1、2002年*2、2007年*3、2008年*4の対談を収録した本。
一晩で一気に読んで、地味に感動してしまった。
深夜に読んだので、そういう感情回路がブーストされていたせいかもしれないが。
第三章だけは、僕は初出の方でも読んでいて、これに関しては、当時と同様になかなかフラストレーションの溜まる対談なのだけど(そういう風に仕上がったということは、それなりに大事なことだと思うが)、全体を通して、面白いものになっている。


僕は後輩に対して、対談本なんて東か大塚のファン以外読まなくていいよ、と嘯いたのだけど、そしてそれは結構その通りだと思うのだけど、
そして一方で、ファンというか、それなりに東や大塚を読んできた人間が読むと、またいつもと同じこと言ってるよ、ということになるのだけど、
しかし、それでもこの対談本はすごく面白いものになっている。


東浩紀の『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズムの誕生』というのは、大塚英志に多くを依拠している。東本人が言うように、大塚のアップデート版であるし、人によっては、単なる焼き直しに過ぎないとまでいう。
しかし、大塚の物語消費論から東のデータベース消費論への移行において、やはり変化が起きている。その変化、違いというものが、この対談からは伝わってくる。
特に第一章というのは、『動物化するポストモダン』がまだ「過視的なものたち」という連載中のタイトルで呼ばれている頃に行われたもので、この2人がどこまで繋がっていて、どこから切り離されているのか、ということが既に見え始めている。
東のデータベース論というのは、色々な読み方が出来るけれど、この大塚との繋がりと切断という論点はそう無視してはいけないところなのではないか、と思う。
つまり、大塚と切断されることで、東のデータベース論はその適用範囲を一気に広げたと思うのだけど、一方でそのことによって見えにくくなってしまった論点もある。大塚はその部分にかなり拘っている。その拘りは、さらに下の世代である僕たちから見ると、不可解であったりもする。しかし、それって全面的にスルーできちゃう問題でもないように思う。
それは、オタク文化サブカルチャーを巡る話で、例えば、アメリカ・日本・アジアの関係についての話であったりもるし、あるいは、それとは別に、おたくとオタクの違いのような話*5でもある。


あとがきにおいて東はこう言っている。
「大塚氏を支持する読者は大塚氏を支持するだろうし、ぼくを支持する読者はぼくを支持するだろう。」
あまりにもそのまますぎる言葉だが、しかし僕は、この対談を読んで、一概にどちらを支持するとも言い難い*6
僕は東の現状認識、特にインターネットなどを巡る認識は、大塚に比べてかなり現実的だと思うけれど、では大塚の見せる苛立ちが、全くの言いがかりかといえば、決してそんなことはないと思う。
この2人は、限りなく近くにいながら、限りなく遠くにもいる。


パブリックとプライベートに関して言えば、インターネットがその境界をかなり曖昧化させてしまっている。
東は、だからパブリック領域というものがいつでもすぐにプライベート領域に飲み込まれていってしまうということを語るし、
大塚は、だからこそ、その両方の領域との緊張関係において、パブリックの成立する可能性を探り当てたいということを言う。
このインターネット上で何かを書いたり発信したりする、ということと、パブリックとプライベートの関係というのは、僕にとっては、というか誰にとっても、まだまだよく分からないところがあるのではないか、と思っていて、それなりに考えなければならないなと思っている。


パブリックとは、何かがどこかに思いもかけず届いてしまうこと、なのかもしれない。
東は、あまりにも届きすぎてしまうがゆえに、パブリックの不可能性を感じているけれど、終章において、何かが届くことについて語り始めている。それはもちろん、大塚がずっと語っていたことでもある。
サブカルチャー」でも「文学」でも「批評」でも「思想」でも、呼び方は何でもいいのだけれど、それが届いたり届かなかったりすること、それを巡って色々語り続けていることが、何か僕が感動してしまったことの理由だったのかもしれない。

*1:初出、『小説トリッパー

*2:初出、『新現実

*3:初出、『新現実

*4:語り下ろし

*5:大塚は、単なるマーケティング理論だったのに、何で社会分析の理論になっているのか、と訝しがる

*6:例えば、『動物化する世界の中で』という東と笠井潔の往復書簡本を読んだとき、僕は基本的に東を支持しながら読んでいた。どちらの本も、「世代間闘争」が演出されているわけだが