「わたし」とは何か

順列都市、パーフィット、人格の同一性(らいたーずのーと)
順列都市、パーフィット、恐怖の在り処(らいたーずのーと)
以上のエントリに加え、さらにその後も、SuzuTamakiとtwitter上で話したことを踏まえつつ、概念の整理としてエントリを起こす。
この文章は、特に結論なく終わる可能性が高いが、あしからず。


「わたし」とは一体何か、という問いは、ちょっとあまりにも漠然としすぎていて、何のことか分からない。
ここではとりあえず、「デカルト的自我」とやらを持ち出してみることにする。
これは、「主観」とか「心」とか「意識」とか「主体」とか、そういった言葉と置換されることもあるが、この諸々の言葉はそれぞれに少しずつ意味が違う。
また、「信念」や「記憶」、「意思」とか「感情」とかいったものも、一応、「わたし」に含まれるものなのかもしれない。
では、この腕は「わたし」だろうか。この顔は。あるいは、この身体の中にあるはずの胃袋や心臓は、「わたし」だろうか。
少なくともこの「わたし」、つまりシノハラユウキは、肉体も信念も感情もトータルに含んだ、一個の生物個体である。そこから例えば、腕だけを切り出してきたり、記憶だけを切り出してきたりしても、それはシノハラユウキではない。
つまり、シノハラユウキとは何か、という問いへの答えは、まさにこのシノハラユウキという個体を指し示せばよいこととなる。


しかし、この答えはおかしい。
最初の問いは、「わたし」とは何か、であったはずが、シノハラユウキとは何か、にすり替わってしまっているからだ。
そして実際には、シノハラユウキとは何か、という問いに対しても、十全に答えられているとは言えないのである。
それは、生物個体が絶えず変化する存在だから、といえる。
確かにシノハラユウキというのは、腕も心臓も感情も記憶もトータルに併せ持った個体であるが、一方で、それらの要素を全て持っていなければならないというわけでもない。
変化することによって、失う要素もあれば、加わる要素もあるだろう。
そもそも、シノハラユウキがシノハラユウキであるためには、何が必要最低条件となるのだろうか。


上にリンクした記事のタイトルの中には、「人格同一性」なる言葉が出てくるが、「人格」というものは、シノハラユウキの同一性における必要最低条件の候補といえるだろう。
つまり、シノハラユウキ的な人格を保持している限りにおいて、それを保持している個体はシノハラユウキであると言える、というわけである。
ここで問題になってくるのは、ではその「人格」とは一体何なのか、ということである。
それは明らかに、物質的な物体ではない。人格は、脳や心臓とは異なる様態で存在する。
いや、そもそも、人格は存在とはいえないだろう。
人格というのは、性格のことであり、傾向や性質である。
そうした何らかの傾向や性質を一にしている限り、同一の個体と見なす、と考えることはおそらく可能である。
そして、社会制度の多くは、まさにそのような前提のもとに営まれているのだろう。
例えば刑事罰。殺人犯が、(人を殺すときに振るったであろう)腕を失ったとしてもやはり殺人犯として扱われるだろう*1。だが、殺人犯が、人格*2を失ったならばもはや殺人犯としては扱われないだろう。


同一性を巡る思考実験としては、例えばスワンプマンがある。
ある男が死んでしまうのだが、その男と原子レベルで全く同一のコピーが出来てしまう、というものである。
あるいは、人格までも共有する、コピーのようなクローンがいたら、というような思考実験も可能であろう。
この場合、全く同じ性質を持つような個体が、二つ在ることになる。
もしもう片方の個体が抹殺されるのであれば、社会的には大した問題は発生しないだろう。同一個体だと見なしておけばいいからだ*3
しかし、社会的に、つまりその本人以外から見るならばともかくとして、本人の側から見た場合はどうなるであろうか。
ここに再び、「わたし」とは何か、という問題が持ち上がってくる。
つまり、ある種の性質を有することを個体の同一性の基準としたとしても、「わたし」が「わたし」であることの基準にはなりえないのである*4


今、「わたし」の目の前に、「わたし」と全く同じ性質を有するもう1人の人間が立っていたとする。そいつは、「わたし」なのであろうか。
この後、「わたし」とそいつのどちからが抹殺されるらしい。死ぬのは、「わたし」なのか、そいつなのか。それとも、もしかして誰も死なないのか*5
ここで、自己知という概念を導入しよう。
これは非常に特殊な知識のことを指している。
金杉武司『心の哲学入門』によれば、自己知とは、不可謬性、自己告知性、直接性といった特徴を持つ。
「わたし」は、自分が嬉しいと感じている時、自分が嬉しいということを知っている。*6
これは間違いようがない。また、嬉しい時には、自動的に嬉しいと知ることになる。また、それは何らかの解釈を介するのではなく、直接的である。
「わたし」は、例えばわたしの友人が悲しんでいる時、彼が悲しんでいるということを知っている。
ただし、それは間違いである可能性もあるし、彼の姿や彼を巡る状況を確認することによって知られることである。
このように、「わたし」についての「わたし」の知識*7と、「わたし」以外の誰かについての「わたし」の知識*8には、その形成過程と特徴において、大いに違いがある。
「わたし」は、「わたし」のコピーについての知識をどのように得るのだろうか。
つまり、「わたし」は、「わたし」のコピーが今どのような状態にあるのか(何を感じているのか、何を見聞きしているのか、何をしようとしているのか)、ということを如何に知るのだろうか。
この問いに対して答えることはできない。
そのような状況に陥った者がいないからだ。
とはいえ、もっとも簡単に想定されるのは、それは、自己知のようにではなく、他人についての知のように知られるのではないか、ということだ。
おそらく、このように想定しているからこそ、「わたし」のコピーというのは得体がしれないように感じられるのではないだろうか。
また、「わたし」が死ぬのか、「わたし」のコピーが死ぬのか、という問題も同様である。死、というのが、究極的には本人にしか知覚しえない出来事であるならば、これは重要な問題である。
しかし、自己知というのは、どういうものかよく分かっていない以上、他の想定も可能だ。
つまり、全く何もかもが同じである以上、自己知の性質もやはり同様に有するのではないか、という想定だ。
この場合、「わたし」は「わたし」と「わたし」のコピーの状態を両方とも、同じように知ることができる。
この場合、「わたし」には、腕が2本付いていて、その2本を自由に操れるように、いずれ、「わたし」と「わたし」のコピーを自由に操れるようになるかもしれない。


自己知と「わたし」は、密接に関係している、というのが個人的な直感である。
とはいえ、自己知と「わたし」がイコールであるかどうか、に関しては問題がある。
例えば先ほどの例でいけば、「わたし」と「わたし」のコピーの両方に対して自己知が機能するとしたら、その自己知は一体どこで機能しているのだろうか。つまり、自己知の主体は何なのだろうか。「「わたし」について知っている」の主語にあたるものは、一体何なのだろうか。
それこそが、「わたし」に他ならない、といえるかもしれないが、果たしてどうなのであろうか。
あるいは逆に、自己知の当てはまらないケースもある。
例えば、「わたし」は、「わたし」の小腸が今どう動いているのか、ということを、自己知のような形で知ることは出来ない。


今、自己知の主語に当てはまるものが、「わたし」ではないか、と述べた。
このエントリでは、まず、ある個体を様々な要素や性質*9へと分解した。そして、その中から必要最低限度の要素や性質を見つけ出そうとしたが、失敗した。
ここでは逆に、自己知の主語に当てはまる、何らかの存在者を見つけ出そうとしている。
これは冒頭で述べた、「デカルト的自我」とか「主観」とか「意識」とか「主体」とかいったものかもしれない。
しかし、僕はこれを何らかの存在者として想定することは退けたい、と思う。
自己知というのは、一つの機能ないし作用であるのではないか、と思っているからだ。
意識とは「ユーザーイリュージョン」であるとか、「受容意識仮説」とかいったものとも、近いような話ではないかな、と思っている。
つまり、「わたし」というのは、様々な要素や性質や機能が雑多に入り混じった個体なのであり、そうした様々な機能の中に、「わたし」というものを強く規定したがるような機能があるのである。
ただし、この機能をあまり大きく見積もることはできないし、この機能に従って「わたし」を規定しようとすると、取りこぼすものも出てくるのではないか、と思うのだ。
「わたし」というのは、まず第一にこの個体である。
そして第二に、この個体の中に仕込まれたある機能が、この個体を動かしやすくするために設けている何らかの性質、なのではないだろうか。


<追記080814>
以上のエントリをまとめてく。
まず、「わたし」の範囲をどのように確定するか、という問題。
この問題は、
わたしの記憶とわたしの心臓は、どちらがより本質的に「わたし」なのだろうか、というような問いににパラフレーズできるだろうが、これは何ともナンセンスな問いではないだろうか。
デネットが『自由は進化する』の中で、「延長のない実体はない」ということを述べているが、「わたし」の範囲をどれくらいのものとするかによって、問題は変化する。
「わたし」を必要以上に切りつめることによって、本来ならば悩まなくてもいいような問題、疑似問題に悩まされてしまうことは十分に在りうる。


次に、社会的ないし公共的な側面から考えるか、本人の側面から考えるか、という問題。
本人には、自己知というものが備わっている。
この自己知の持っている、不可謬性、自己告知性、直接性といった特徴が、「わたし」に「わたし」を特別な問題だと思わせる要因だと、僕は思っている。
クオリアや他我といったものがそうだ。
この点については、永井均の『なぜ意識は実在しないのか』が、クオリア問題を「わたし」の問題へと置き換えて論じている。
とはいえ、そもそも自己知という奴もまた、何やら怪しげである。
いや、自己知という概念そのものはともかくとして、その自己知が果たして「わたし」の基点となるのか、とか、自己知の特徴は100%成立するのか、とか、自己知とはいうがそれは本当に知識か、とか、そういった点において、怪しいのである。
特に、最後の問題。自己知は思っていて、そのことは既に何度か書いてきた。知識か、というのは、多分、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とパラレルなのではないかなどと
「あらゆるものが科学で説明することが出来るか」
「「知っている」とはどういうことか」


<追記080815>
書こうと思って書き忘れていたこと。
現在、アフタヌーンにて連載中の4コママンガ『臨死!江古田ちゃん』に出てくる「ぉねぇちゃん」の発した問いが、かなり哲学的だったので、引用しておく。

姉のなぜなにシリーズ
姉「ぁのさ…」
江古田ちゃん(以下江)「何深刻ぶって」
姉「ぃま…ぁたまの中で「ことば」でかんがぇてる…?」
江「…日本語で考えてるに決まってんじゃん」
姉「ぢゃあ…/ぁめりか人はぁめりか語でかんがぇて/ふらんす人はふらんす語でかんがぇてるの…!?」
江「まあ…そうじゃない?」
姉「まぢ!?/でもぉねぇちゃんはぁたまの中では「ことば」でかんがぇてなぃみたぃなの…/ぉねぇちゃんはぉかしぃのかなぁ!?」
江「さあ……」
共感できる人はきっと「ぉねぇちゃん脳」です(はあと)


<追記080922>
昨日、瀬名秀明デカルトの密室』を再読した。
そこででてきた、分岐と同期ないし収束という話が、自分の同一性ないし単一性の話だろうと思う。
同期ないし収束しないとどうなるのかな、という話。
まあ、これは意識がネットに解き放たれるというネタで、要するに攻殻機動隊の素子なんだが。

*1:腕は、彼の同一性に関与する条件ではない

*2:人を殺すような傾向!

*3:死体をどう扱えばいいのか、という問題はあるかもしれない

*4:はい、ここには議論の飛躍がある。本人の側から見た場合とか。「わたし」とかを持ち出さなかったとしても、この基準には問題があるからだ。ただし、このエントリは、同一性ではなく「わたし」を主題としているので、ここでの議論の飛躍を許していただきたい

*5:スワンプマンを参照されたし

*6:「知っている」という言い方が不適当であれば、自分が嬉しいという信念を持っている、と言ってもいい。自己知が、本当に知識の一種であるかどうかは、よく検討すべきことだと思う

*7:ないし信念

*8:ないし信念

*9:腕とか人格とか