罪を償う/赦す

取り返しのつかない欠落を抱え込んだ者であっても、その欠落を抱えつつ、その後も生き続けなければならない。
欠落のあとの生活を可能にするための手続が、弔い・償い・赦しである。


このエントリは、id:SuzuTamakiによる以下の記述に対して、twitter上でSuzuTamakiと僕の間で行われた論争を背景にしている。

私は、少年が積極的に罪を犯し、代償としての罰を受け、その上である程度の救い・更正の機会を得るという物語を好む(「犯罪小説」)。しかしその際の救いは、少年が自らの力を持って手に入れるべきものであると思っている。
〔中略〕
少なくとも、自分の罪を告白した被害者から同情に基づいた救いの手を差し伸べられてそれに縋るという行為は救いでもなんでもない。救いとは、罪を知らぬ新しい仲間たちから、罪人自身の努力に基づいた正当なるコミュニケーションの結果として差し伸べられるべきだ(その際に、その救いを差し伸べる側は、それが救いであることを自覚していないこと、すなわち罪人が罪人であるゆえん、罪を犯したということそれ自体を知らない、ということを条件としていなければならない。そうでなければ容易に同情に基づく偽善やそれに縋る醜態へと繋がってしまうだろう)。

http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080602/1212415549#20080602f1

また、twitter上で行われた論争は、id:klovがタンブラーにまとめてくれた。感謝*1
以下、部分的に引用する*2

SuzuTamaki: 少年が「許され」て世界に戻った後、「やっぱり許さない」と言われてしまった場合、少年は反論できないと思います。「許してくれたジャン!」って泣き言言えない。すごすごと世界から撤退するしかない。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825256680
SuzuTamaki: それって、「許す」という言葉によって束縛された生き方だと思うのです。それは、更正じゃない。再犯防止のために ID タグをつけられたような生き方に思えてしまう。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825257261
SuzuTamaki: 自分の罪を盾に行為を強制されるような脅しを受けたときそれに抗するだけの論理を常に持っているべきだと思うのですよ。だから本質的に罰と許しは他人から与えられるものであってはいけない。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825271759
SuzuTamaki: 「許し」も「罰」も少年は少年自身からのみ与えられる。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825264855


sakstyle: 自分で自分を許すことってできるのかなあ http://twitter.com/sakstyle/statuses/825263877
sakstyle: ゆるしと罰は、ウロボロスのようにずっとぐるぐると回る。でもそれは、加害者1人の中でぐるぐる回るものではない。それは、加害者と被害者あるいはさらにその外部ともぐるぐる回らないと、罪と罰にはならないんじゃないか http://twitter.com/sakstyle/statuses/825269068
sakstyle: あと、相手のいることだから、1人の内部だけで完結しちゃいけないだろうという感じもある。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/825298443


SuzuTamaki: 自分の中だけで完結するっていうのは、別に楽な道じゃない。むしろ、許しと罰という責任を自分ひとりが背負うという苦行ではないのか。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825301509
SuzuTamaki: 自分の中だけで完結しちゃうっていうより、自分の中だけで処理しなくちゃいけない。 誰かが許してくれるから、とか、あの人はぼくに罰を与えなかったから、とかそういう責任転嫁への道を封じる。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825301981


sakstyle: 楽じゃない。というよりも、それは過酷すぎて端的に不可能だ。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/825304164
sakstyle: そもそも時間が不可逆でやり直しが効かない以上、起こったことを書き換えることは不可能。そういう意味で、罪は決して許されないし、責任全体を負うことも不可能。でもその不可能を、一次的に解除させるかのように錯覚させるから、「赦し」は尊いhttp://twitter.com/sakstyle/statuses/825308953
sakstyle: 許されないし責任も負えないけれど、その人も周りの人たちにとっても生活は続く。だから、それ(責任を負うことと生活を続けること)が可能であるように錯覚させなければならない。それは明らかに、当事者本人だけで完結することではない http://twitter.com/sakstyle/statuses/825311769


SuzuTamaki: 尊い…まあ確かに尊いですよね。ロマンはある。フィクションの中でロマンの供給源として機能する分には申し分ない。ぼくのいうコミュニケーションの快楽ってそういうことだし。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825312746


sakstyle: ロマンじゃねーよ。加害者の生活も被害者の生活も、どっちもその後も続くんだから、それが続くようにしなきゃいけない手続なんだよ。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/825314281


SuzuTamaki: 錯覚させなければならない、というのは、犯罪者を飼いならして無害化しなければならない、というふうにも受け取られるのですが。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825314560


sakstyle: 「というふうにも受け取れる」というかまさにその通りで、人間と人間が一緒に生きていく場合には、そういう危険な部分をうまくなだめてやっていくしかない http://twitter.com/sakstyle/statuses/825317386
sakstyle: 被害者から切り離された人間関係の中で、自己責任・自己完結的に罰がうまくいくっていうのは、やっぱりおかしい。被害者の生活が続いていることに、何の責任も負ってないんじゃないか、それは。そしてそのことは、加害者本人にとってものしかかること http://twitter.com/sakstyle/statuses/825315644


SuzuTamaki: うん、加害者が被害者に責任を負う、っていうことは不可能だと思っています。加害者が負うべき責任は、罪を犯したという事実に対する責任のみ。だって加害者は被害者の本当の苦しみなんてわかるわけないのだから。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825317727


sakstyle: 責任を負うことは不可能。でも、被害者に対してのそれと罪を犯したという事実に対するそれって区別できるの?罪を犯すって、当然相手のいることでしょ。罪の意識というのは、相手に対して感じるものではないの。相手のいない罪の意識はないと思う http://twitter.com/sakstyle/statuses/825320681


SuzuTamaki: 被害者に対する責任っていうのは、被害者の苦しみに応じたリターンを与える責任ってことで OK ですか? 本当の苦しみがわからないと発生しない責任なのだからそういうつもりで言ったのですが。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825322448
SuzuTamaki: 罪を犯した事実に対する責任というのは、その罪が誰にも露見していない場合でも感じる責任です。そういう意味では、相手がいない。そして、その程度の罪は世界中の誰もが行っているだろう。 *Tw* http://twitter.com/SuzuTamaki/statuses/825323047


sakstyle: 誰にも露見していなくても、相手はいる。つまり、傷付けた相手がいる。
sakstyle: 相手のいない罪ってあるのか。罪というのは、相手を傷付けてしまうということだろう。そこから、「相手」をなくして「傷付ける」ことだけにフォーカスするというのは、あまりに抽象的すぎるというか思弁的すぎる気がする。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/825331844
sakstyle: 不可能なことや不可能なことを起こしてしまう奇跡が尊いわけじゃない。可能なこと、実践されていること、事実の方が尊いhttp://twitter.com/sakstyle/statuses/825339931
sakstyle さっき、 @SuzuTamaki に対して「ロマンじゃねーよ」と半ばキレかけたのは、ロマンというものが不可能な対象だから。「赦し」は不可能ではなく、可能だから尊い。理想なのではなくて、生活を続けるためにそれをしなければならないからこそ、驚異的 ...
http://twitter.com/sakstyle/statuses/825352371

http://klov2.tumblr.com/post/36951951


罪と罰は、罪を犯した者だけのものか。
僕はそうではないと思う。罪と罰とは、コミュニケーションの一種でもあり、自分と相手の双方を必ず必要とする。
言い換えるならば、罪を負う、罰を受ける、罰を与える、赦す、などといった行為は、自動詞的な行為なのではなく、他動詞的行為なのである。
すなわち、主語と目的語の双方を必ず必要とする行為であるということだ。
他動詞的行為としては、例えば「愛する」がある。
愛する対象が必ずある。恋人か家族か人類か、あるいは何でもいいのだけれど、とにかく「愛する」と言ったとき、必ず何かを愛しているのである。愛する対象はないが、愛しているという状況はありえない。
だからこそ「愛する」ということは、愛している本人だけのものではなく、愛されている対象のことも必ず含む。
AさんがBさんのことを愛している時、Aさんは心の中で、Bさんのことを想っているのであって、Bさん抜きの「愛」について想っているわけではないし、そのような「愛」はあり得ない。
罪もまた同様であると僕は思う。
罪は必ず、何かに対しての、いや、誰かに対しての罪である。
AさんがBさんに対して罪を抱く時、Aさんは、Bさんのことで苦しむのであって、Bさん抜きの「罪」について苦しむわけではない。もし仮に、Bさん抜きの「罪」について苦しんでいるのであるとすれば、Aさんはまだ罪を自覚していないだろう。
自分の行為や感情などが、自分以外の人に対して向けられ、自分以外の人を何らかの形で変化させてしまったこと、それこそが罪な行為を罪な行為たらしめているはずだ。


人は、1人で生きているわけではない。
自分と相手がいる。そしてその相手にも相手がいて、人間と人間は相互に関わり合って生活している。
例えば、AさんがBさんを殺したとしよう。
この時、Bさんという欠落が生じることになる。
誰にとってか。
もちろん、まずはAさんにとって、であろう*3。これが罪である。
しかし、Bさんという欠落は、Aさんにとってだけでなく、CさんにとってもDさんにとっても、そしてこの人間関係にとってもそうである。これは言うなれば被害だ。
このような欠落をCさんやDさんや人間関係全体に及ぼしたという点で、AさんはCさんやDさんや人間関係全体に対しても罪を負うこととなる。
この欠落を補うことは、絶対に不可能である。
それは一つには時間の不可逆性に負うところが大きいだろう。一度死んだ者は甦らない。
僕は先ほど、「罪は必ず、何かに対しての、いや、誰かに対しての罪である。」と、罪の対象を人に限定したが、それはつまり同じような時間感覚(時間の不可逆性)を持ち合わせていることが条件になると思えるからである。時間の不可逆性が一体どこから生じているのか、をここで論じることはできないが、おそらくその一端を担っているものは、記憶であろう*4
それ故に、罪は決して消えない。罪が許されることはない。
そしてまた、欠落を補うという意味で罪を償うこともまた不可能である。
「罪を償う(あるいは「責任をとる」でもよい)」という言葉の意味が、原状復帰であるならば、なおのこと不可能である。
時間が不可逆である限り、一度何かが欠落してしまった生活は、もとの生活に戻ることは不可能である。


しかし、生活は続くのである。
これもまたやはり、時間が止まらないからであり、欠落が生じようと生じまいと世界が止まらないからだ。
そしてそれゆえに「罪を償う」「責任をとる」という言葉・行為は、意味をもつし、可能になる。
また、罰を受ける/与えることも、赦す/赦されることも可能になる。
いやむしろ、可能になる、というよりは、条件であるといった方がよい。
つまり、生活を続けるためには、欠落を抱え込むしかなく、抱え込んだ欠落を無害化するしかないのである。
欠落は決して消えないがゆえに、欠落を抱え込んだ者*5は、永遠に苦しみ続けることになる。
しかし一方で、続いていく生活は、永遠に苦しみ続けることを許さない。
生活を続けるためには、苦しみを一時的にであれ、解除しなければならない。苦しみは既に終わったと錯覚しなければならない。
罰、償い、赦しは、そのための手続である。
罪を償うことや赦すことは、それゆえに決してロマンティックなものでもないし、理想的なものでもない。
罪が消えることも被害を忘れることも決してできない。だが、だからこそ、罪が消えたふりをすること、被害を忘れたふりをすることが必要となる。


償い、罰、赦しは、自己完結的ではありえない。
それは愛や罪がそうであるのと同様、これらが他動詞的行為であるからだが、それはとりもなおさず、生活するということが他動詞的行為だからではないだろうか。
もし、罪が消えることがあるのであれば、償いも罰も赦しも自己完結的でありうる。
しかし、償いや罰や赦しは、罪を消すためのものではなく、消えないがしかし生活に戻るための手続なのである。そしてそれは、罪人にとってのものだけではなく、被害者にとってのものでもある。被害者が生活に戻るためにも、償いや罰や赦しは必要となろう。
主語と目的語の両方が伴わない罪(愛)が罪(愛)ではないように、主語と目的語の両方が伴わない償い、罪、赦しもまたありえない。そして、(主語、目的語)の組み合わせは(罪人、被害者)でもありうるし、(被害者、罪人)でもありうる。

*1:SuzuTamakiによる該当のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080602/1212415549は『コードギアス』に関するものであり、それを受けてか、klovによるタンブラーのタイトルにもコードギアスの名が冠せられている。ただし、先に僕が引用したSuzuの文章は、『オナニーマスター黒沢』に関するものであり、Suzuと僕との間の対立も、まずは『オナニーマスター黒沢』の結末は是か非かというところから始まっている。一部で混乱している方もいるようだが、基本的にこの論争の中で出てきた「黒沢」は『オナニーマスター黒沢』を指す。ただし一カ所だけ、僕が自分の持論を支えるものとして黒沢清作品が参考になると述べた部分はある

*2:ただし、見やすさを考慮して、いくつかの文言(@SuzuTamakiなど)を削除したり、順番を並び替えたりしている部分がある。全文はhttp://klov2.tumblr.com/post/36951951

*3:Bさんにとって、とも言いうるが、彼は死んでしまっているのでちょっと除外する

*4:であるならば、さらに問題を進めていくことができる。すなわち、私たちは記憶喪失者に対して罪を負うことはできるのだろうか。これは『ダブルブリッド』や『アウシュビッツの残りのもの』あたりを使って考えてみると、面白いかもしれない

*5:罪人と被害者の両方