タイプとトークンから考えるデータベースと同一性

タイプとトークンというのは、ちょっと僕自身も正確に把握しているのかどうか怪しいところがあるのだが、例えば音楽に喩えるならば、楽譜と演奏のような関係にある。
あるいは、ここに「あ」という文字がある。その時、これが明朝体であろうとゴシック体であろうと活字であろうと手書きであろうと、同じく「あ」という文字である。それは、「あ」は、タイプのレベルで同一だからである。明朝体とかゴシック体とか活字とか手書きとかいったのは、トークンのレベルでの相違である。
グッドマンは、タイプとトークンという言葉を使うわけではないが*1、訳者による用語解説を参考にすると、タイプとトークンという言葉を使っても読むことができる*2。グッドマンによれば、絵画というのはトークンをもたない。一つのタイプには一つのトークンしかないともいえる。
例えば「あ」という文字であれば、Aさんが書いてもBさんが書いても(トークンが異なっても)、同じ「あ」という文字(タイプ)として認識できるが、絵画の場合、違う人が書けば(トークンが異なれば)、違うもの(タイプも異なる)と見なされるだろう。例えば、AさんとBさんが共に富士山を描いたとする。それは共に富士山の絵であるが、その表現の仕方は異なり≒トークンが異なり、異なる作品(異なるタイプ)と見なされる。
文字は、トークンの区別があるが、絵画には、トークンの区別がない。では、音楽はどうだろうか。
既に述べたように、楽譜をタイプ、演奏をトークンと考えてみるとどうだろうか。クラシック曲であれば、同じ曲でありながら、別のオーケストラによる演奏というものが数限りなく出ている。
絵画の場合は、トークンの区別はそのままタイプの区別となるので、作品の同一性やオリジナリティを定めるのも、比較的容易。
音楽の場合、タイプが同じでもトークンが異なる場合がある。つまり、同じ曲であっても違う演奏がある。この時、同じ作品であっても、異なるオリジナリティの考え方が生まれうる。
あるいは、さらに強調していうのであれば、絵画はタイプをより重視して、音楽はトークンをより重視する芸術形式である、ということもできるかもしれない。


さて、ここに、増田聡「データベース、パクリ、初音ミク」を重ね合わせてみる。
増田論文は、オタク文化におけるキャラの萌え要素と、DJ文化におけるサンプリング素材の相違を指摘してみせた。
そしてさらに、労力削減のパクリと、パブリシティについてのパクリという差異も指摘していた。
オタク文化におけるキャラは、パプリシティについてのパクリは行っているが、労力削減のパクリは行っていない。つまり、ハルヒならハルヒの絵を描くとしても、のいぢの絵をそのままコピー機で転写するわけではなくて、各々がハルヒの絵を描くのである。
これは、上述の議論と結びつけるのであれば、ハルヒというタイプは同じであるが、トークンが異なるということになる。
先ほど、文字にはタイプとトークンの区別があるが、絵画にはないと述べた。ところが、キャラは、絵画であるのにもかかわらず、文字と同じようにタイプとトークンの区別があるのである。
一方で、サンプリング素材はどうだろうか。
これは録音された演奏をそのまま使い回す。だから、トークンも同じなのである。
普通の音楽であれば、同じ楽譜であっても、新たに演奏し直す場合、必ずしも「パクリ」と呼ばれない。それは労力削減のパクリを行っていないからである。つまり、タイプは同じでも異なるトークンであるからだ。
しかし、サンプリング素材の場合、トークンはそのままであって、新たなトークンを作っているわけではない。
ところで、ここではむしろ、タイプの同一性の扱いが微妙なこととなる。DJは、同じ音であっても、異なる文脈の中に乗せることによって、その意味を変えようとするからだ。またそれは、同じ曲であることを分からせないようにするということでもある。意外な曲の意外な使い方が、DJの腕の見せ所ともいえる。
そうなると、トークンが同じであったとしても、タイプが同じだといえるのかどうかがなかなか微妙である。つまり、同じ意味をもった記号として見なすことができるのか、ということである*3
先ほどの議論に従えば、音楽というのは、タイプよりもトークンの違いにオリジナリティを見いだすタイプの芸術である。ところが、DJ文化の場合、それが逆転しているように見える。つまり、トークンよりもタイプ(?)の違いにオリジナリティを見いだしているようにだ。同じトークンを使っていたとしても、異なる意味作用を持たせることができれば、(そのDJには)オリジナリティがあると見なされるわけだからだ。



グッドマンは、引用について考えるために、様々な記号について分析した。
文字の引用、絵画の引用、音楽の引用とはそれぞれ異なるものであり、それらがどういうものであるのかを明らかにするために、タイプやらトークンやら言っているのである*4
現在において、引用というものが、何らかの作品を分析する際に重要なのは、ほとんど論を待たないところだろう。
だが、そもそも引用とは何なのか、というのはよく分からないのではないだろうか。
文字の引用は分かるとして、絵画を引用するとか音楽を引用するとか、あるいは映画においても引用というのは見られるが、それらは一体何なのか。
これは何も、オタク文化やDJ文化、現代アートなどを持ち出さなくても、浮上してくる問題のはずだ。もちろん、オタク文化やDJ文化、現代アートなどではさらにそれが重要視されてくる。
上では論じていないが、直接引用と間接引用の違いもある*5
音楽や絵画、映画において直接引用はそれほどないように思われる*6が、そうであるならば、何故それは引用とされるのか。つまり、引用であるからには、引用元と引用先に同一性が見られるはずだからである。タイプが同一なのか、トークンが同一なのか、それともそれらとはまた異なる同一性の要素があるのか。


関連
グッドマン『世界制作の方法』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080214/1202990846
『思想地図』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080507/1210141350

*1:タイプとトークンの区別は、パースがもとっぽい

*2:グッドマンの場合は、意味論的、構文論的ないし綴りという言葉を使う。ここではおおよそ、前者をタイプ、後者をトークンに対応させている

*3:無理矢理、文字で説明してみよう。「あ」という文字は、明朝体だろうがゴシック体であろうが「a」と読む。これが、タイプが同じでトークンが異なるという状態だ。もし仮に、トークンが同じでタイプが異なるという状況があったとしよう。その場合、「あ」という文字と全く同じ形状をしている「あ」が、「い」の隣にあるときは「a」と読むが、「う」の隣にあるときは「o」と読むなどということになるだろう

*4:繰り返すが、グッドマン自身はトークンという言葉を使っていないが、訳者による解説からトークンという言葉を使って理解できる

*5:彼は「僕はあなたが好きだ」と言った。という文章は、彼の台詞を直接引用している。彼は私のことが好きだと言った。という文章は、彼の台詞を間接引用している。

*6:DJやポップアートなんかは、直接引用といっていいだろうが