「知っている」とはどういうことか

この前、twitter上でこんなことを書いた。

sakstyle: 信念というのは、心とか頭のなかで思ったり考えたりしている事柄。日本語で信念というと、もっと強い意味が込められているけど、哲学界隈ではその程度の意味で使われている。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/792376724
sakstyle: 知識というのは、確か、真であって、かつ正当化されている信念のこと。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/792377072
sakstyle: 「昨日、つくばは雨だった」という信念を抱いている人がいたとする。でも、その人は昨日つくばにいたわけでもなく、誰かに聞いたわけでもなく、天気の番組をみたわけでもなく、ただ当てずっぽうでそう思っていただけだとしたら、その信念は真ではあるけど、正当化されていないから知識ではない。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/792377631
sakstyle: さて、その信念が正当化されている、とは一体どういうことなのか。その信念が、あてっずっぽうではなくて、ちゃんとした方法で得られたということなんだけど、そのちゃんとした方法とは一体何か。それを探求するのが、「知識の哲学」とか「認識論」と呼ばれる分野。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/792379755
sakstyle: 直接見聞きしたことによって生じた信念は、正当化されていうると見なしてよいだろう、という考え方が一つある。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/792380208
sakstyle: それから、正しい推論によって得られた信念も正当化されているとしていいだろう、という考え方もある http://twitter.com/sakstyle/statuses/792380357


さて、ある種の言明や信念は、どうも「知識」だとか「知っている」だとか言ってはいけないだろう。そういう例に、この前遭遇した。
それは『哲学者は何を考えているのか』における、スタナードの信念である。

ラッセル・スタナードが置かれているが、ウィルソンの直後だと何ともしゃんとしない。彼はいわば、神を科学的に証明しようとしているのだが、何というかうまくいっているようには思われないのである。彼は、神がいることを知っていると語るのだが、この場合の「知っている」というのは非常に特殊な用法で、科学的知識を「知っている」とは同列に扱えない「知っている」だと感じた。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080404/1207317443

sakstyle: そういえば、『哲学者は何を考えているか』の中で、「私は神がいることを知っている」と発言している人がいた(確か物理学者だけど)。宗教的啓示によって知ったと言うのだが、果たして宗教的啓示は、正当化されている方法といえるだろうか。これは哲学的な課題となりうる問いだと思う。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/792381539
sakstyle: 個人的には、宗教的啓示で得られた信念は、信念であっても知識ではないと思う。仮に、神が本当にいて、その信念が真だとしても、宗教的啓示で得られた信念は正当化されているとはいえないのではないかと。 http://twitter.com/sakstyle/statuses/792382204


宗教的啓示によって得られた信念は、何故「知識」と言ってはならないのか。
神がいることを、宗教的に体験した者は、「私は神がいることを知っている」と言ってはいけないのか。
僕は、そういう宗教的啓示といった体験をしたことがないので何ともいえないところがあるが、この体験が、果たして知識を得るための正当化されたやり方といえるのかどうか、疑問がある。
それは多分、客観性にもとるところがあるということだと思う。
例えば、「この机の上にパソコンがある」といった観察であれば、他の人にも見てもらえば確認してもらえる。普通の観察には、その程度の客観性はある*1
だから、「私はこの机の上にパソコンがあることを知っている」というのは、確かに「知っている」と言っても構わない例だと思う。
ところが、宗教的啓示は全く同じ状況に置かれたとしても*2、他の人が同じ体験をするとは思われない。
あるいは、「どうしてあなたは、この机の上にパソコンがあることを知っているのか」と問うたとき、「直接見たから」と答えることができる。そして、「直接見る」とは一体どういうことであるのか、多くの人は分かっている。
だが、「どうしてあなたは、神がいることを知っているのか」と問うたとき、それを知っている人はどのように答えるのだろうか。「啓示を得たから」と答えるのかもしれないけれど、その啓示というのが一体どういうことであるのか、多くの人には分からない


「客観性」とか「多くの人が分かる」とかいった概念は、厳密な懐疑に耐えうるほど確固とした概念とはとてもいえない。
しかし、「宗教的啓示」というのは、それ以上にあやふやな概念であるように思われる。
ここでは、宗教的啓示が信頼するにたるものかどうか、ということはこれ以上問わないことにする。
とりあえず、「客観性」という基準をもってすると、宗教的啓示によって得られた知識は知識とは言えなさそうだ、という話である。
さてそうなってくると、それ以外にもどうも知識とは言えなさそうな知識が出てくるような気がしてならない。
それが、「我思うゆえに我あり」である。
これはデカルトが方法的懐疑を行った結果、結論づけられたテーゼであるが、そもそも方法的懐疑は何故行われたのか考えてみる。
デカルトは、確かな知識を得るための方法として演繹的推論があると考えた。
演繹的推論は、前提→結論で進み、前提が真であるならば結論も真である。ということは、この推論によって真となる結論を得るためには、まず真となる前提を見つけなければならない。
もし、Aであることを知っているとする、そうすると、AからBが演繹的に導かれるとき、「Bであることを知っている」とも言うことができる。
このようにして、知識を増やしていくことができるわけである。
その究極的な前提を探すために行われたのが、方法的懐疑である。
その結果として、「私は、私が考えていることを知っている」ことは確実に真であるとデカルトは考えた。そして、「私が考えていること」から「私がいること」を演繹的に導いたのが、「我思うゆえに我あり」というわけだ。
ここで問題にしたいのは、「私が考えていることを知っている」という言い方は、確かに「知っている」と言っても構わないのか、ということだ。
実はこのことは、昨年度、僕が受けた、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』を読む演習授業でも扱われた。
この授業において、デカルトのこの「知っている」という用法は、破格に過ぎるのではないかという話になった。
その授業で、何故この「知っている」という用法が問題ありということになったか。
例えば「私は、この机の上にパソコンがあることを知っている」という場合、「この机の上にパソコンがある」ということを知らないことも十分にありうる。
つまり、「Aを知っている」という場合、「Aを知らない」こともありうる、というのが、「知っている」ということの用法だというわけだ。
一方で、「私が考えている」という場合、どうだろう。「私は、私が考えていることを知らない」ということはありうるだろうか。なので、「私は、私が考えていることを知っている」という言い方は、「知っている」の用法として問題がある、とのことであった。
ところで、今ここでは、「知っている」というために「客観性」という概念を使って考えているのであった。
「何故、あたなは、自分が考えているということを知っているのですか」と問うたとき、デカルトは果たしていかに答えるだろうか。
デカルトがそのことを知ったのは、まさに「私が考えている」という体験をしたからに他ならないだろう。
問題は、その体験はデカルトにしかできないのではないだろうか、ということだ。
「この机の上にパソコンがある」ことを、僕は直接見て知った。例えばもし仮にこの部屋にデカルトがいたとしたら、デカルトも同じことを直接見て知ることができるだろう。
でも、「私(デカルト)が考えている」ことを、デカルトが直接何らかの方法で知ったとき、僕は同じ方法を使ってそれを知ることはできないし、そもそもどんな方法でも、デカルトが考えているかどうか知ることはできない。
人間としての思考回路を持っているだろうことを推論することができる。でも、今まさに「考えている」体験をしているかどうかは分からない。一方デカルトは、その時まさに「考えている」体験をしていることが分かったからこそ、「私は、私が考えていることを知っている」と言っているわけだ、多分。
*3


大体同じ論法によって、問題となってくるのがクオリア体験だと思う。
クオリアが実在することを証明する方法として、知識論法というものがある。
ここに、色盲*4の天才神経科学者がいたとする。この神経科学者は、色というものが脳内でどのように感覚されているのかというものを完全に知っている。あまりにも天才なので、自分がある特定の周波数の光を見ているときに、自分の脳内でどういことが起こるかも完全に知っているとする。
ところでここで、天才的な手術によって色盲が直って、その学者はそこで初めて、色を見るという体験をしたとする。
この学者は、神経科学的なことは全て知っていたが、直った時になって「色を見るとはこういうことである」ということを知るはずである。だから、神経科学だけでは説明することのできないものとしての、クオリアというのがあるのだ、というような話が知識論法である。
知識論法自体にもまずいところがあるようだが、とりあえずそれはさておく。
ここでは、神経科学的なことを知っていることと、色を見るということを知っていることという、二つの「知っている」が出てくるが、この「色を見ることを知っている」というのは何なんだろうか。
色を見ることだと、分かりにくいので、「今まさに自分は赤を見ている」に言い換えよう。
「今まさに自分は赤を見ている」という体験は、確かにあるだろう。
ところで、「今まさに自分は赤を見ていることを、私は知っている」とは一体どういうことなのだろうか。
「今まさに自分は赤を見ていること」を「知っている」と言っていいのか、その信念は果たして「知識」と言ってもよいのだろうか。


宗教的啓示、「私は考えている」ということ、あるいはクオリア
これらは、個人的な体験である。
こうした体験が実在するのか否か、ということはさておく。
問題は、そうした体験に基づいて、何ごとかを「知っている」と言ってもよいのだろうか、ということだ。
それは、「知っている」とか「知識」とかいった概念からはみだしてしまうのではないだろうか。


僕は以前、「あらゆるものが科学で説明することが出来るか」という記事を書いた。
そこで僕は、「感じ(クオリア)」を「説明」することはできないと述べた。
これをパラフレーズすると、「感じ」は「知識」とは言えない、ということになるだろう。
「知識」ではない、ということから、だからそれは「説明」できないとか、だからそれは実在しないとか、いう結論をすぐに出すことはできない。
なので、神とかクオリアとか、あるいは「今まさに私は考えている」などの自分の心的状態ないし意識*5が、実在するかどうかは、この話だけでは分からない。
ただ、どうもこうしたことについては、ある種の体験をベースにして言う以上は、「知っている」ということができないのではないだろうか、ということである。


追記(080512)
知識とは、公共的な信念である、という立場に自分は立っている。
言い換えれば、私的言語はないに倣って、私的知識はない、とでもいえばいいのかもしれない。
問題は、どのような信念が公共的なものであり、あるいは私的なものであるのか*6 *7
そして、私的なものは、(知識ではないから)科学的探求の対象たりえないし、またほとんど語りえないのではないかと、考えている。
ただし、芸術やら何やらで示すことはできるのかもしれない、とか何とか。


追記(081201)
なるほど、そういうのもあったのかと思ったのではっておく。

ギリシア教父の時代以来、キリスト教神学には理性による知識と啓示による知識の二項対立がある。
(...)
理性による知識と、何かしら啓示のようなものによる知識の区分は、現代の欧米の世俗の哲学者にも影響を与えているように思う。
(...)
理性による知識と啓示による知識の二項対立を背景とすると、従来のキリスト教的な世界観では啓示による知識の分野だとされていたものが、
それは、そもそも擬似問題、あるいは回答不能な問題だと考えるか
理性による知識によって解明されると考えるか
やはり、なにか啓示のようなものによる知識によってとらえられると考えるか
という三択になる。この三択に、焦燥感、切望感といったものがあるのではないかと思うが、非キリスト教文化で育った私には分からない。聖餐における実体変化とはいかなる意味かという問題にそもそも関心がないように、歴史の終焉という問題にも関心がない。
理性と啓示 - mzsmsの雑記

*1:間主観性といった方がよいというのであれば、そのように読み替えてもらっても構わない

*2:この全く同じ、というのがどれくらい全く同じなのか、というのも問題になるけれど

*3:ウィトゲンシュタインはのちに、「ムーア言明」と呼ばれる、「私は自分に二本の腕があることを知っている」というような言明に悩まされることになったらしい。似ているかもしれない

*4:クオリア盲?

*5:これについての知識が自己知とか呼ばれる

*6:それは時代によって変わる可能性がある。僕は、啓示は私的なものであると上述しているが、中世においてはそうではなかったのではないかという指摘を受けた

*7:自分についての知識もどう捉えればいいのか難しい。というか、その問題が全て