薄いのだけれど、とても密度の濃い、科学啓蒙書。
これまた作者は哲学者。
『自由は進化する』について書いたときも書いたけれど*1、現在の哲学者の仕事というのは、何らかの思索というよりは、様々な科学の学説の整理という面が強くなってきているように思う。
そしてそこからは、個別的、専門的にやっているのでは見えてこない(かもしれない)問題点も発見されるのだろう。
ドーキンスの本は、結構前に『利己的な遺伝子』を読んでおり、また『自由は進化する』といったデネットの本も読んでいたけれど、一方でグールドの方はほとんど知らない状態だった。
非常によくまとめられている本なのだとは思うけど、グールド側の主張について全く知らないような状態だったので、やはりまだグールドの方の主張についてはよく分からない部分が多いなあという感想はある。
ただ、それをいえば、ドーキンス側の主張の中にも、まだ理解できていない部分はあるのだけど。
ドーキンスとグールドの対立点の一つは、淘汰の対象が遺伝子であるか種であるか、だ。
最初、いまだに種淘汰とかいってる奴がいるのかよ、と思ったのだが、これを読んでみると、群淘汰、種淘汰にもそれなりに言い分がある。
また、最近では、遺伝子淘汰と種淘汰が両立するということがいわれるようになってきて、この点でのドーキンスとグールドとの対立は緩和したらしい。
問題は、種淘汰とは一体どういうことか、ということである。
つまりそれは、種とは一体何なのかということでもある。遺伝子淘汰的あるいはドーキンス・デネット的な考え方にたつと、種というような概念はほとんど用をなくす。それはかなり恣意的なもののようにも思える。
種淘汰があるとするならば、それが作用するのは一体どのような性質に対してなのかが明らかにならなければならない。それは個体の性質ではなくて、種に特有の性質でなければならない。
もう一つの対立は、外挿主義に対する対立である。
人間に観察可能なスケールでの規模の、累積的な進化によって、巨視的なスケールでの進化も説明可能である、とするのが外挿主義であり、ドーキンスの立場である。
一方のグールドは、種分化の起こるプロセスは、累積的な進化によっては説明できないと考える。
グールドは、進化に関して淘汰だけでは説明できないとも考えている。
さらには、複雑さというものに対する考え方でも、彼らの間には対立がある。
グールドは、多様性と異質性というものを区別する。
彼によれば、時が経つにつれて確かに多様性は増大してきているが、異質性は増大していないという。それは、カンブリア紀の大爆発が証拠となる。バージェス頁岩で見つかった化石の中には、現存している門が一つを除き全てがあるばかりか、現存していない門も見つかっている。
種の数は今の方が多い(多様性)が、種の幅広さはむしろ減っている(異質性)のではないか、というのである。
これに対して、そのような異質性の基準は、人間の一種の主観によるものにすぎないのではないか、という分岐分類学者による反論もある。
また、様々な形質の可能性があるのにも関わらず、実際に今生きているのはその全可能性の中の一部でしかない。
これは、その系統が、過去においてその他の可能性をなくしてしまっているからではないか。
ドーキンスは、行動生物学者として、進化の機序に注目している。
一方のグールドは、古生物学者として、進化の歴史性に注目している。
もしかすると、そのようにまとめられるのかもしれない。
この2人の意見は、その多くにおいてむしろ一致している。進化論に関して、注目するところがお互いに違うために、対立しているように見えてしまうのかもしれない。
全然分野が違うが、チョムスキー言語学と認知言語学というのも、それぞれの激しい対立のわりには、その違いは注目している領野の違いにすぎず、お互いに補完しあえるのではないだろうか、と素人考えながら思ってしまう。
ドーキンスとグールドは、進化論という大きな枠組の中では一致している。
彼らの対立は、
「種とは一体何か」「複雑さとは一体何か」といった問いに起因しているところがある。
こうした問いに答えるのは、なかなか一筋縄ではいかない。
おそらく、こうした問いに答えようと試みるのが、生物学の哲学という分野なのだろう。