今月の『群像』と『新潮』

芥川賞川上未映子直木賞桜庭一樹になりましたね。
今回、どれも読んでいないので*1、特に感想はないけれど、メッタ斬りの予想が完璧に当たるという異常事態(?)が起きていたりする。
大勢の本命予想を、あえて外してくるようなところがある芥川賞なわけで、何かあったのかと思いたくもなるが、出版社を見てみると、どちらの作品も文藝春秋社なのでそういうことなのかもしれない。
急にid:abogardさんの無茶ぶり*2が来たので(QMK)、都知事の話は出来ませんでしたが、芥川賞の話をしてみました。

『群像』

創作合評

中原昌也が、文芸誌4誌制覇*3した4作品について、小谷真理とか。
3人とも中原昌也はほぼ初めてだったらしい。
小谷が、中原と中原作品の中で描かれる登場人物のことを「やる気のあるダメ人間」と呼んでいた。確かにそうかも。中原作品に出てくる人物って、妙にテンションやモチベーションが高かったりする割に、うまくいってない。
この合評では、中原自身に対しても、小説書きたくないとか言ってるくせに、4誌制覇してしまうとか、芥川賞の候補になったときにすごい盛り上がったり*4とか、結構やる気あるよね、という話に。
内容はカラッポなのに、高度なテクニックが詰め込まれているとか。
「事態は悪化する」かなんかが、最後にすごく長い一文が出てくる。
今回の3人の中の一人が、練習で長い一文を書こうとしたけれど、難しかったという話をしていた。
実は僕も、一文一文を長くして書いたことがあって、とても難しかった覚えがある。「事態は悪化する」は文長を意識して読んでいなかったので気付かなかったけれど。

座談会「いまなぜ同人誌なのか」

メルボルン1』『イルクーツク2』を出しているgoningumiの長嶋有柴崎友香福永信名久井直子、『エクス・ポ』を出している佐々木敦と戸塚泰雄による座談会。
メルボルン1』『イルクーツク2』はちょっとサイトを見たことがあるだけで、実物も見たことないし読んだこともないが、長嶋有の別ペンネームであるブルボン小林による『スポンジスター』は買って読んだし、佐々木敦の『ベクトルズ』は読んでないけど買ったし、『エクス・ポ』は昨日お金を振り込んだ*5のでもう少ししたら届く。
とりあえず、すごく楽しそうな雰囲気が伝わってきた。
面白いことなんかやりたいなあって思って、ほんとに面白いことができるってとても楽しいことだと思う。
さらにいえば、佐々木敦は、『エクス・ポ』を恒久的に続けるために、ちゃんと利益とかを計算してやっているみたい。
もちろん、もともとプロだから出来るところもあるだろうけれど、文学フリマとかって楽しいよねーとか言っているのを見ていると、何だか自分も近いところにいるような気がして、雑誌作りたいなあと思った。
今まで自分で作ったものというと、この前の文学フリマに出した奴と、それ以前に学祭のために作った同人誌の2冊しかないけれども、楽しかった。
自分で書いた文章が活字になるということも楽しいけれど、人に声をかけて一緒に作るというのがまた面白い。
goningumiの同人に名を連ねている、名久井という人はデザイナーらしいけど、普通だと装丁○○って小さく名前が入っているだけだけど一緒に本作っているんだから同人として同じ大きさで名前出したいと長嶋が言っていたこととかも、何となく分かる。表紙とか目次とかデザインっていうのは、本作りに置いて大きい部分だと最近思うようになってきた。
エクス・ポ』はとにかく、隔月刊でがんがん続けるらしい。
やめるのは簡単だから、やめないことが大事だとか、
16頁で1000円は高いとか言われたけれど、滅茶苦茶内容を詰め込んでいる。紙に金払っているんじゃなくて、内容に金払っているんだろ、という佐々木敦の台詞がかっこいい。
また、この座談会に出ている6人は全員、商業誌でも活動しているプロだけれども、特に柴崎や福永とかは、商業誌と同人誌で特に書くことを変えているわけではないともいう。
商業誌に対するアンチとかでやっているわけではなくて、面白いことをやりたいからやっている
商業誌、同人誌とかいう枠でなく、雑誌が沢山増えるのは健全なことなんじゃない?*6
そういうスタンス。
それが、大塚英志と比べて、肩の力が抜けてていいなあと思った。
もちろん大塚英志のスタンスなんかもそれはそれで納得できるけれど、『新現実』を創刊した理由について、『enTAXI』や『わしズム』なんかとも絡めて、「自前で発言できる場所を用意しておく必要があると感じた」というようなことを言っていて、危機感に基づいている感じがする。
でも、大塚英志文学フリマを作ったから、長嶋侑の同人誌や佐々木敦の『ベクトルズ』があったりするわけで。
そういえば、パイオニアとして『波状言論』が一瞬だけ言及されていて、あれも同人誌なんだなあと思った。僕が『波状言論』を読んでいた時、僕はまだ文芸誌とか論壇誌とか全く読んだことがなかったんだけど、今思うとあれはマジですごかったんだなあと思う。
東浩紀の仕事にリアルタイムで接したのも『波状言論』からなんだな、自分の場合。
最近、東の出版物が増えたし、波状は出版物じゃないということもあって、東の仕事の中で最も言及されることが少ないけれど、あれだけの大仕事ってそうそうないよなあ。

『新潮』大討論「小説と評論の環境問題」

とまあうまい具合に東浩紀の話になったので、『新潮』の座談会の方へ。
高橋源一郎田中和生東浩紀による鼎談。
群像の座談会とは雰囲気がまるで異なる。
どこかのブログで、東が田中をあしらっているというような感想を目にしていたので、そういう先入観が多少あったかもしれないけれど、とにかく東による田中フルボッコにしか見えなかった。
そして、田中が黙ったところで、高橋と東が意気投合するという。
なんか終わり方が中途半端だなあと思ったら、次号へ続くらしい。


本当に田中フルボッコなのかどうかはよく分からないし、興味もないのだけど、ざっと要約してみると、
ラノベって文学なんですか、どーなんですかって田中が詰め寄ったら、
ラノベラノベ、(いわゆる)純文学は純文学ってことを言いたかっただけだよ、ついでに言うと、小説は小説だし、評論は評論だよと東に切り替えされた、という話。


その一方で、小説とも評論ともいえるような文章が好きで、そういうのが書きたいという東。
魔法のように使える言葉があって、それで思考を表現していくというか。
今まで、ツールのような文章ばかり書いてきたけれど、奇抜な思想書みたいなものが書きたいとも。
高橋が、「キャラクターズ」で(東の追っかけたちの)期待を裏切れたんじゃないの、と問うと、それも彼らの予想範囲内だったみたい、と答えていたが、僕に関して言えば、あれは期待を裏切られた感じだった。
だから、思想書を期待。


小説と評論で何が違うかといえば、見た目はまるっきり違うわけだけど、
自分の思考というものを、なんとか文章にしてみたもの、という点では同じようなものなのかもしれないなあ。
研究と違って、評論というのは、まあテキトーというか滅茶苦茶なところはあるだろうし。
フィクションかノンフィクションかというと、実はノンフィクションではない、というか。
ただ、一概にフィクションというわけでもないし。
そして小説というのはほとんどの場合フィクションだけれど、別にフィクションでなくても小説ということはある。
同じことを考えていたとしても、小説にする場合の論理展開と、評論にする場合の論理展開は異なっている。
同じなのに、違うというのは、不思議なことだ。

群像 2008年 02月号 [雑誌]

群像 2008年 02月号 [雑誌]

新潮 2008年 02月号 [雑誌]

新潮 2008年 02月号 [雑誌]

*1:今回に限ったことでなく、むしろ候補作を事前に読んでいることの方が珍しい。一回くらいしかない

*2:http://d.hatena.ne.jp/abogard/20080117/1200558959

*3:参照、http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071214/1197640823。実は、4誌のうちで唯一買って手元にある『新潮』のだけ読んでないことに気付いた

*4:小説トリッパー』06年秋号参照。お祭り好きという説もある

*5:基本、ネット通販なので銀行振り込みなのだけど、手数料かかるのが嫌だなあ、銀行振り込みは。都内のいくつかの本屋には卸してあるっぽいんだけど

*6:こと、純文学ということでいうと今までは5誌しかなく、逆に言えばその5誌に載っていることが純文学であるということにもなっているわけだし