『肝心の子供』『青色讃歌』

どちらも第44回文藝賞受賞作
とにかく『肝心の子供』の評判がよいので、読もう読もうと思っているうちに、『文藝』の次の号が出ちゃったりしたけれど、ようやく読めた。ああ、今号の『文藝』にはもうそれぞれの作者の対談が載ってるんだな、これもあとで読まないと。

磯崎憲一郎『肝心の子供』

保坂和志高橋源一郎も、よくわからないけどすごいと言っているこの作品。
ガルシア=マルケス百年の孤独』に似ているとも、ボルヘスに似ているとも言われている。*1


ブッダラーフラ、ティッサ・メッテイヤの三代*2に渡る物語が、100枚ほどの分量で書かれている。
「これはすごい」とか「めちゃくちゃ面白い」というほどまでには思わなかったけれど、面白い作品だった。
物語として面白いし、この作品世界の中にぐいっと引き込まれていく感じもした。
生と死について考えていて、いつもねむの木の下で考え込んでいるブッダ(シッダールダ)。
現実主義者で、国に農耕を定着させた、シッダールダの妻、ヤショダラ。
記憶力と認識能力が異常なまでに優れている、ブッダの子、ラーフラ
鉄の時代という歴史の中に自らの役割を見出す、隣国の若き王、ビンビサーラ。
ラーフラが面倒を見なかったために、貧乏で村八分の中育つことになった、ラーフラの子、ティッサ・メッテイヤ。
といった面々の、それぞれのエピソードが次々と語られていく。


これらをひとつながりの物語として把握するのは難しい*3
だが、あえてテーマらしきものを見出すとするならば、何らかの大きな流れの中に個々の人生は位置づけられている、というようなことだろう。
保坂和志の『<私>という演算』の中で、生と死は対立するものではなくて、死の一形態として生があるのではないか、という話があったが、作中で確かブッダ*4同じようなことを考えていたと思う。
ビンビサーラであれば、石、青銅、鉄と時代が移り変わっていくという歴史観を持っていて、人間はその歴史に奉仕するものだという考えを持っていた。
ヤショダラは、生活というものを何より重んじる考えを持っていて、シッダールダに愛情を持ってはいないが、シッダールダとの生活には愛情を持っている。生活というものが、個々の人格よりも大きいものとして位置づけられているのだろう。
そして、そうした大きな流れというのは、何よりも親子関係として描かれる。タイトルも『肝心の子ども』だ。
ある日、幼いラーフラと遊んでいたシッダールダは、突然人生の義務感から解放される。ラーフラというのは、束縛という意味で、シッダールダは彼が生まれたときに彼に人生を束縛されるような感じを持っていた*5のだが、自分の人生の中で子どもを作ったことで、人生の役割を終えたように感じたのだ。
ビンビサーラは、息子の反逆にあって牢屋に閉じこめられる*6。そこに会いに行ったブッダは、彼から息子の毒を吸った話をされる。
子どもが生まれた後もしばらく会いに行くことが出来ず、母子共に困窮しているところを訪れたラーフラは、自分の子どもを見つけることが出来ない。「肝心の子供は?」と問うと、藁の束だと思っていたのが息子だった。
ティッサ・メッテイヤが10歳くらいのところで話は終わるが、孤独なティッサ・メッテイヤは、カブトムシやクワガタを育てるのが好きだった。ちょっと無理があるかもしれないが、この「育てる」というところにも、親子関係的なものの一例を見ることができる気がする。


シッダールダの死生観や、ラーフラが異常な認識能力によって、ついに無生物にも生命を感じるようになってしまうところとかは、確かに仏教っぽいといえないこともないが、
後に出てくる、ブッダ率いる教団のイメージは、一般的な仏教のイメージとは何か違う気がする。
というわけで、ブッダが出てくるからといって、別に仏教の話ではない。


保坂和志は、ティッサ・メッテイヤが猿になる話と読んだと書いていた。
「肝心の子供」ティッサ・メッテイヤが、まさに大きな流れである自然の中に入っていくという感じか。
こういう風にまとめると、何だか、自然に帰れみたいな陳腐な話にも見えるのだけど、そういう説教臭さというのは全くない。
とにかくただただ、ブッダからティッサ・メッテイヤに到るまでの出来事が書いてある。
その文章というか物語というか世界観というか、そういうもののが広がってきて、それが面白い。

丹下健太『青色讃歌』

『肝心の子供』は『肝心の子供』で面白いけれど、なんかこっちの方が読みやすくて面白かった。
主人公の高橋はフリーターで、めぐみと同棲しながら、就職活動をしつつ、猫を探している。
フリーターのような非正規雇用の主人公の日常生活を描く、というと、最近特によくある感じではあるけれど、そんな日常生活を描きながらも、結構物語がしっかりとある。
日常が日常のまま過ぎていく、という感じではなくて、最後にわりと物語の筋に決着が着いて終わる。
あと、フリーター生活でもいいよねでもなく、働きたくねーでもなく、主人公はちゃんと就職活動をしていて、一応就職できるという点も、意外と小説としては珍しい気がする。
高橋はフリーターで、めぐみも夜のバイトをしていて、また高橋は、大学の同級で就職しなかった(できなかった)友達と「フロー会」という飲み仲間を結成している。そういうちゃんと働けていないのを「こっち」、正規雇用を「あっち」と呼んでいるのだが、
この「あっち」と「こっち」の境界がぼんやりとしていくのがこの話である。
主人公の高橋は無事就職できて、「フロー会」を抜けるわけだが、入れ替わるように新卒で就職した友人が会社を辞めて「フロー会」に入ってくる。
猫探しをする中で会った大西という男は、まっとうな会社員なのだが、なかなか嫌な奴で*7、しかも横領犯である。ところが、横領犯だと分かった後に、再会してみると、まあ嫌な奴なのだが何となく雰囲気が変わってくる。


同じく猫探しをする中で出会った、小学生のマコちゃんが、猫と話すことが出来るという嘘を白状して、めぐみ*8と仲良くなるシーンとか
めぐみが、思い出の品として集めていた石を捨てる、一番最後のシーンとか
物語がピタっと終わる感じがして、好きだった。

文藝 2007年 11月号 [雑誌]

文藝 2007年 11月号 [雑誌]

*1:百年の孤独』とこの作品のどこが似ているかという点に関しては、http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_8c43.htmlが参考になった。あらすじもまとめてある

*2:もちろんブッダは実在の人物だが、ティッサ・メッテイヤは実際にはブッダの弟子であって孫ではないらしい。

*3:例えば、これらのキャラクターが一堂に会したりすることなどはなく、また、少しずつ主人公となる人物が移り変わっていく

*4:別の登場人物だったかもしれない

*5:今まで子どもを可愛いと思ったことがないのに、子供が生まれて自分の子どもには突然愛情を持つようになったことを、そう感じた

*6:正確には、反逆の意を感じて自分から閉じこもった

*7:さらにめぐみの店によくくるしつこい客「ウミ」と同一人物であることが後で分かる

*8:めぐみは可愛い女の子が大好きで、マコちゃんの髪型をいじってあげる