保坂和志『という演算』

短編集。
今まで保坂は、『カンバセイション・ピース』しか読んだことがないけれど、いきなり短編集を読むよりも、長編を一本読んでから短編読むといいな、と思う。ただ、一回長編を読むと、長編よりは短編をぱらぱら読みたいな、と思う。
読み始めたときには気にしていなかったのだけど、3編くらい読んだあたりで、これは普通だったら短編小説というよりはエッセイとか呼ばれる類のものかもしれないと思った。実際、あとがきで、保坂自身が、これが小説かどうか気になる人もいるかもしれないということを書いている。


ものすごい大雑把に言うと、
私という人間が今ここに生きていること、かつても生きていたこと、これからも生きていること、そしてやがて死ぬこと、そしてそれが私だけでなくて、周りの他の人や猫やこの世界にもあてはまるということ、そういったことが持っているリアリティとは何なのか、
それが、この作品でテーマになっていることだ。
こういうテーマにひとたびとらわれてしまうと、考えずにはいられなくなってしまうのは、人間の性なのかなと思う。
ただ、それに対して一体どういうアプローチをとるのか、というと人によってそれぞれ異なっている。
哲学にはまって哲学の研究者になって論文とか書く人もいるだろうし、
設定や具体的な状況を作り込んでいってフィクションの形で現す人もいるだろうし*1
言語ではなくて、音楽や造形を使って作品を作り上げる人もいるだろうし、
そして、保坂和志は、自分の思考をなるべくそのまま言語化しようとする。
化学の論文とファンタジー小説とは、全く異質のものであると多くの人が同意すると思うけれど
哲学の論文と保坂のこの小説とは、それほど違いがないのではないかと思ってしまう。
例えば、この短編集に収められている「あたかも第三者として見るような」は、科学哲学の一種のようにも読める。科学とは何か、という考察として、なるほどと思いながら読んだ。
それは、タイトルにあるとおり、つまり「あたかも第三者として見るような」態度こそが、科学的な態度なのではないか、ということだ。そこから、「死」をそういう態度に則って考察するとどうなるか、ということも述べられている。
もちろんこの一編を哲学論文として提出しようと思っても認められはしないだろう。論文としての体は全くなしていないからだ。
いわゆる科学の世界であれば、論文の体をなしているかどうか、というのは、説得力を持っているかとか実証できるかということと関係しあって重要なポイントとなるだろうけど、
この「死」とは何か、みたいなテーマだと、論文の体をなしているからといって、説得力を持ったりしたりするわけではないと思う。
だから、そんなテーマ設定をした時点で、学問にはならないから、小説かエッセイにしかなりえないとも言えるだろうし、逆にそういうテーマ設定でも学問になるのだとしたら、こういう小説だかエッセイだか分からないような文章も、論文の一種のように扱えるかもしれない。
何を言いたいかというと、
この保坂の文章というのは、小説なのかエッセイなのか、そしてもしかすると哲学論文なのかもよく分からない文章だということだ。
人は何かを読むときに、これは一体何だろうか、ということを予め気にすることが多いと思うが、保坂のこの文章はそういう前提を設定させない。
そして、ただ文章を読むことで思考させるのだ。
僕は、哲学の本を読んでも思考するし、小説を読んでも思考するし、エッセイを読んでも思考する。だとすれば、それらのジャンルというのはそこまで重要ではないのかもしれない。
文章があって、文章に触れて思考する
そうすると、保坂というのは、ほんとにちょっとしたきっかけで思考し、そしてその思考を直接文章にしていっている、といえるのかもしれない。


上述した、「あたかも第三者として見るような」が、特に面白かったけれど
繰り返し論じられる、「私」と「時間」にまつわるリアリティの問題も、哲学っぽくて面白い。
過去があって、現在があって、その過去と現在の繋がりのようなものを何故リアリティをもって感じることができるのか。それは確かに不思議なことである。
あるいは、「二つの命題」で書かれていることは、反実仮想についての考察のようにも思える。
また、「閉じない円環」や「<私>という演算」で書かれている、「私」と「私」じゃないものがなんかメビウスの輪のように絡み合って「私」を構成しているというのも面白い。ここでは、ラカンが参照されているけれど、言語という他者がビルドインされることで「私」というものが構成されていくということなのだろうと思う。


初出は、『大航海』が多い。あの雑誌、小説も載せるのかー。

<私>という演算 (中公文庫)

<私>という演算 (中公文庫)

*1:保坂は、作中で、フィクションをひとつのシミュレーションだと書いていた。そしてこの文章は、そういうフィクションではないということも。