あらゆるものが科学で説明することが出来るか

心の哲学についてちょっと勉強してみて思ったことは、
心については、もう自然科学の領域に任せてしまえばいい、ということ。
哲学者ないし人文系の人間が何か携わることが出来るとすれば、個々の研究を繋ぐようなロードマップを作ったりインタープリターになったり、いわば整理整頓係だろう。
ところが、なお科学では心について解明することができないという意見もある。
だがそれは、心の哲学の問題というよりは、科学哲学ないし言語哲学の問題のような気がしている*1


科学では説明のつかないことがあるとか、全てが科学で説明できてしまったら面白くないといって言われる話よりも、
科学で説明される話の方が、よっぽど面白いと僕は思う。
これは科学では説明できない、などと言われると、そんなのつまらないなあと思ってしまう。
カール・セーガンは、あるタクシー運転手にオカルト話だか陰謀論だかされたときに、科学の世界にはさらに面白い話があることを知っているのだろうか、と思ったと書いていた。
面白いと思うかどうかは、個々の価値観の違いなのでどうでもいいといえばどうでもいいが、以上は僕の立場表明だと思ってもらえればいい。


科学では説明がつかない、という主張では必ずしもないけれど、似たような主張に茂木健一郎クオリアがある。
茂木は、「光とは電磁波である」という科学の説明では、自分が光というものに感じている様々な慣れ親しんだ「感じ」が抜け落ちてしまうという。
こういう主張は、何も茂木に限ったものではない。フッサールの生活世界論なんかも、近いものがあるだろうし、19世紀頃に出てくる、広い意味での実存主義的な科学批判というのはそういうタイプのものである気がする。
とにかく光であれば、
「光とは電磁波である」という「説明」と
光とはピカピカしていたり暖かかったりという「感じ」と
2種類のあり方がある。
この「説明」と「感じ」を混同することによって、問題が生じてしまうのではないか、と僕は考えている。
光をピカピカとか暖かいとか「感じ」たりするのは、経験である。
その経験が一体なぜ起きるのか、なぜそうなっているのか、という問いへの答えが「説明」である。
その「説明」というのは、時代時代によって異なるが、現代では科学と呼ばれている。
「説明」は、公共的に理解されるものでなければならないだろう。
例えば僕が何事かについて「説明」したとき、その「説明」を聞いて誰一人として理解することが出来なかったならば、「説明」をしたことにはならない。
一方で「感じ」は誰にも伝わることがない。
上で書いた「ピカピカ」にしても、それは既に「説明」である。そして、「ピカピカ」ということで、僕が光に対して感じている「感じ」の相当部分はなくなってしまっている。
「光とは電磁波である」と言おうが「光とはピカピカしている」と言おうが、自分が光というものに感じている様々な慣れ親しんだ「感じ」は抜け落ちてしまっているだろう。
「感じ」とか「クオリア」とかいうものは、科学で(あるいは従来の科学で)説明できていないないし説明することが出来ない、ばかりか、そもそも「説明」することができない。
このことは、永井均の『なぜ意識は実在しないのか』にも書かれている、というか、それを読んで分かったことである。


次に問題になるのは、そもそも「説明」とは一体どういうことか、ということである。
「説明」とは、「なぜか」とか「どういうことか」という問いへの答えであり、なおかつ、公共的に理解されるもののことだろう。
時代によっては、これは神話によってなされることがある。
だが、現代において、神話が自然現象の説明だとは考えられないだろう。神話は、かつて「説明」であったが、現代では「説明」の何らかの要件をクリアできなくなってしまったのだろう。
現代において、「説明」の要件をクリアしているものの代表が科学だと思う。
自然現象に限定するのであれば、科学以外に「説明」の要件をクリアしていない、というか、科学以外の方法で「説明」されていない。
現代では、公共的に理解される「説明」のためには、科学の語彙ないし手法を用いなければならないことになっているのではないだろうか。
科学的な説明は、僕の「感じ」を取りこぼしている、だから十全な説明になっていない
というのはおそらく批判になっていない。
そもそも「感じ」は、科学だろうと科学でなかろうと、「説明」できないからである。
そしてもし仮に、それを「説明」しようと試みるならば、公共的に理解される形で述べられなければならず、結局のところ、科学にならざるをえないだろう。


これは、科学万能主義ではない。
かつて神話が「説明」の地位にいたように、科学以外の何かが「説明」の地位にたつ可能性はありうる*2
そして、科学では説明することができないことがある、という主張は、どのような形でも「説明」することができないことがある、という主張であり、そもそも「説明」できない=公共的に理解できないものである以上、そのものが一体何であるか主張者以外には知ることができないだろう。
ゆえに、あらゆるものが科学で説明できる。


それでもなお、科学は十全な説明ではない、という主張はありうる。
しかしその場合、「説明」とは何か。
どのような方法ならば、科学に変わってその「説明」の要件をクリアできるのか、「説明」できなければならない。
また、以上の考えも、現代においては「説明」とは科学である、という、何の「説明」にもなっていない前提から導かれているので、その前提について「説明」しなければならないだろう。
こういうことこそが、哲学の仕事だと思う。

*1:もともと言語についての問題を解明するために関心領域を心へと移行させたことを考えると、再び関心領域を言語に戻すというのは、もしかすると皮肉な話なのかもしれないが

*2:現代に生きている以上、ほとんど想像もつかないが