リアリズムとリアリティ

正直、早くPCの電源切って本読みながら寝たい気分なんだけど、
「3つのリアリズム」(らいたーずのーと)を読んだら、そうも言っていられなくなった。


まず、リアリズムとリアリティという言葉を区別したいと思う。
リアリズム、というのは、リアルに描くことを目指そうぜ、ということなので、
ここでは、どんなふうに描写するのか、という方法について述べていると理解したい。
一方、リアリティ、というのは、現実感、リアルっぽさのことなので、
何を持ってリアルに感じるか、という要素について述べていると理解しよう。


さて、大塚英志が提示した二つのリアリズムとして
自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」というのがある。
前者は、現実のこの世界を「写生」するものであり、
後者は、まんが・アニメの世界を「写生」するものである。
先に挙げた「3つのリアリズム」(らいたーずのーと)は、「自然主義的リアリズム」に基づくマンガもあるだろう、と述べているが、それはやや不自然な事態である。
自然主義的なマンガはあるかもしれない*1
しかし、この「まんが・アニメ的リアリズム」という語に含まれる「まんが・アニメ」には、そのような自然主義的なまんがも含んでいると考えた方がよいだろう。
そしてそもそも、この言葉には大塚のまんが観が反映されていると見るべきだ。
つまりそれは、「傷付かない身体」が如何にして「傷付く身体」になりうるのか、という問題意識である。
大塚が「まんが・アニメ的リアリズム」というとき、そこには既に「傷付かない身体」であり同時に「傷付く身体」としてのまんが・アニメ表現が含まれているが、ここではその二つを分離して考えよう。
まずは、「傷付かない身体」である。これは、大塚によって「記号的」などとも呼ばれる。
それはつまり、単なる絵であることを意味している。
このことは、伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』にも見られる問題設定である。
マンガに描かれている登場人物は、単なる絵であり、線の組み合わせにすぎない。当然のことながら、絵も線も傷付くことはない。
ところが、私たちは、その単なる線、単なる絵に対して、感情移入してしまう=リアリティを感じてしまう。


ここで、リアリティという言葉をさらに分類しておく必要がある。
これは伊藤剛によるものであるが、「現前性」と「もっともらしさ」である。
「現前性」とは、単なる線に過ぎないものが、あたかも本当に存在しているかのように見えることである。
「もっともらしさ」とは、いわゆるリアリティと呼ばれるもので、設定が現実的かどうか、というものである。
ところで、伊藤の論は「現前性」を対象とするので、「もっともらしさ」についてはこれ以上の言及がないが、こちらもさらに分析可能である。
一つは「人間についてのもっともらしさ」、もう一つは「世界についてのもっともらしさ」である。
前者は、「〜ことがあったら人は普通笑う」とか「〜されたら人は普通怒る」とか、そういったものである。
地球人とは全く異なる行動と感情を持っている異星人が主人公の物語に、僕たちはリアリティを感じないだろうが、仮に主人公が異星人だとしても、普通の地球人と同じような行動と感情を持っていれば、リアリティを感じるだろう。
心の哲学やら心理学の言葉を使うなら「心の理論」が適用できるか、ということだ。
後者は、各種設定の問題で考証などとも呼ばれる。「リアリティがない」という批判は、大抵この領域においてなされる。


伊藤剛によれば、「キャラ」というものが、単なる絵に「現前性」を与えている。
そして、手塚が「キャラクター」性を導入することで、「キャラ」性を抑圧してしまうわけだが*2、この「キャラ」抑圧は同時に単なる絵が「傷付く身体」になったことと同義である。
「マンガのおばけ」は血を流すことがないだろうが、「うさぎのおばけ」は血を流すことができるだろう。
そして、「傷付く身体」を手に入れることによって、「成長」を描くことが可能になる。これを大塚は「アトムの命題」と呼ぶわけだが、これは同時に、「人間についてのもっともらしさ」を獲得した、といえるだろう。
単なる線は、それだけではリアリティを持っていない。
しかし、「キャラ」性と「キャラクター」性を手に入れることで、「現前性」と「人間についてのもっともらしさ」というリアリティを獲得するのである。
こうしたリアリティを獲得したまんが・アニメ(その中には、自然主義的なまんがである劇画も含まれる)を「写生」するのが、「まんが・アニメ的リアリズム」である。


ちなみに、同種の考察は、映画でも可能である。
映画は、単なる平面であり、非連続的なコマの集合であるが、構図やモンタージュによって、立体感や連続性といったリアリティ*3を与えられている。


ところで、「3つのリアリズム」(らいたーずのーと)では、「自然主義的リアリズム」の作品においては、現実世界を描いていることがリアリティの担保になっている、というが、実際にはそのことで得られるのは、「世界についてのもっともらしさ」だけである。
また「世界についてのもっともらしさ」は、「自然主義的リアリズム」でも「まんが・アニメ的リアリズム」でも、ジャンルによっては以下のように構築されることがある。「3つのリアリズム」(らいたーずのーと)から引用しよう。

ファンタジーやSF、またはいくつかの漫画やアニメ作品の場合は「現実」とは別にある「虚構」を自ら構築し、それを「世界」としてそのうえに物語を構築している。ただしこの場合の「虚構」としての「世界」も、「現実」に劣らないくらいのリアリティを膨大な記述によってカバーするし、ときには「考証」という形で「現実」を基盤にした「虚構」を作り上げる。たとえばアニメ『機動戦士ガンダム』は「宇宙世紀」という架空の歴史を舞台にした物語ではあるが、その「宇宙世紀」の年表は「現実」の歴史に近いくらいの精密さと書き込みがされている。そしてこの書き込みの量が多く緻密であるほど物語にはリアリティが付与され、人々は感情移入しやすくなる。逆に「虚構」を舞台にしていながらこの「世界」構築のための記述量が少ないと「世界観の構築が充分ではない」といわれ「リアリティがない」ことの理由とされてしまう。「


「現前性」に関していえば、明治期の言文一致運動によって、自然主義的な文体は「現前性」を獲得していったように思われる。つまりそれが、「描写」である。しかし、石川忠司が指摘するように、このような「描写」はすでに「かったるい」ものであり、それを軽やかにしていく動きが近年では見られる。
古川日出男や円城塔の新しいタイプの日本語は、単なる言葉に「現前性」を与えるための、言文一致運動以来の新しい試みといえるのかもしれない。


人間についてのもっともらしさ」は、「自然主義的リアリズム」を採用しただけで得られるわけではなく、テーマ、物語や登場人物の言動によって得られるものである。
自然主義的リアリズム」の作品、特に純文学と呼ばれるジャンルで、それは大抵、暴力と性によって描かれる。
大塚は、まんが・アニメが「傷付く身体」を手に入れたことによって、まさにその暴力と性を描くことが可能になった、とする。つまり、彼は、まんが・アニメによって、純文学と同種のリアリティを表現することができる、と主張するのである。
これは、彼の「政治的」主張であると読み解くべきである。
彼にとって「まんが・アニメ」は、主流派(つまり純文学)から弾圧されてきた、まさしくサブカルチャーなのであって、彼はそのような弾圧を不当なものと考えて、批判しなければならない立場にある。それ故に、「まんが・アニメ」は決して低俗な表現ではなく、純文学と同レベルのものを描くことができることを示す必要があった。
また、ライトノベル(キャラクター小説)を「まんが・アニメ的リアリズム」の小説と位置づけた上で、マンガでも「傷付く身体」(暴力と性)が描けるのだから、ライトノベルでも「傷付く身体」(暴力と性)を描くことによって文学を書け、とアジるのも、同様だ。


そのような、大塚の「政治性」を脱臭しようとしたのが、東浩紀による『ゲーム的リアリズムの誕生』の「まんが・アニメ的リアリズム」についての整理と「半透明の文体」であると考えられる。
東は、「傷付く身体」(暴力と性)を描かずとも、「もっともらしさ」を表現することはできる、と主張するのである。
その一つの例としてセカイ系があり、そのような作品群における「世界についてのもっともらしさ」と「人間についてのもっともらしさ」に関しては、「3つのリアリズム」(らいたーずのーと)の中の「半透明性とセカイ系」と「「戦闘美少女」分析とリアリティ」を参照してもらいたい。
前者では、「半透明な文体」によって描くことが可能になった「世界についてのもっともらしさ」を、後者ではセカイ系作品の「人間についてのもっともらしさ」を説明している。
前者の問題を、「世界についてのもっともらしさ」と述べたが、これは実は「現前性」の問題でもある。
つまり、普通の学校の校舎と巨大ロボットが同時に描かれているところを見たら、まず「世界についてのもっともらしさ」*4についてクエスチョンマークがつくだけでなく、同時にその「現前性」に疑問を抱く可能性もあるからだ。学校の描写から、学校が今目の前に建っているかのように感じることは容易だが、巨大ロボットの描写から、巨大ロボットが今目の前に立っているかのように感じることは、容易な場合と困難な場合がある。まして、学校と巨大ロボットが同時にあるという描写は、どうだろうか。
半透明な文体は、この「現前性」を担保してくれる。と同時に、その「現前性」が「世界についてのもっともらしさ」を、おそらく何となく、許容させているのである。
先ほどあげた、古川日出男円城塔、ないしファウスト系の作家たち、あるいはライトノベル、彼らは、「自然主義的リアリズム」が体現していた「現前性」とはまた異なる「現前性」を表現しようとしているのではないかと思われる*5*6*7
さて、後者、つまり「「戦闘美少女」分析とリアリティ」においては、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』を引くことで、セカイ系にどのような「人間についてのもっともらしさ」(リアリティ)があるか論じられている。
戦闘美少女=ファリック・ガールによって喚起される享楽と、その享楽への欲求=萌えに、SuzuTamakiはリアリティ(「人間についてのもっともらしさ」)を見出している。
ところで、この議論は、伊藤剛による『GunslingerGirl』分析とおそらく接続可能である。
つまり、「キャラクター」性=「傷付く身体」によって隠蔽されていない状態の登場人物を使って、「人間についてのもっともらしさ」を得ることはできるのか、という問題である。
マンガにおいて繰り返し主題となる亜人種が、「傷付く身体」によって「人間についてのもっともらしさ」を表せば大塚英志の評価・擁護するようなマンガ作品にいなるだろうし、「傷付かない身体」によって「人間についてのもっともらしさ」を表せば伊藤剛の評価・擁護するようなマンガ作品になるだろう*8


長くなった。
だが、最後に挙げなければならないのが「ゲーム的リアリズム」である。
自然主義的リアリズム」も「まんが・アニメ的リアリズム」も、その方法論で描かれるのは単一の世界である。
しかし、そのような世界の単一性にもはやリアリティは感じられないのではないか。世界の複数性こそ描かなければ、リアリティを感じるような作品にはならないのではないだろうか。
これが東の問いだ。
大塚に言わせれば、近現代小説もまんが・アニメも、「傷付く身体」(暴力と性)を描くことによってのみ「人間についてのもっともらしさ」を表現できるのである。だが、ゲームはその複数性のために「傷付く身体」を描くことができないから、「人間についてのもっともらしさ」もまた描くことができない。
しかし、東はそれに反論するのである。
ゲーム的リアリズムの誕生』における作品論編は、複数性(ゲーム的)を描いた作品が如何にして「人間についてのもっともらしさ」というリアリティを表現しているのか、を論証している。
単一の世界のみが描かれるのであれば、そこに描かれる登場人物はみな、キャラクターであろう。そこにおいて「人間についてのもっともらしさ」を担保しようとするならば、暴力と性は有効だ。
だが、複数の世界が描かれるとき、キャラクターに訪れる暴力と性は、必ずしも「人間についてのもっともらしさ」を担保しない。その限りにおいて、大塚の指摘は正しい。しかし、世界の複数性が前提になっているとき、そこには必ずプレイヤーレベルがある。「ゲーム的リアリズム」作品は、このプレイヤーレベルにおける「人間についてのもっともらしさ」を表現するのである。
単一世界を舞台にした、いわばキャラクターレベルのみで成り立つ作品において、何でもできるヒーロータイプの人間が主人公の作品もあれば、優柔不断な人間が主人公の作品もあるだろう。このどちらのタイプの主人公がより「もっともらしい」か、より「リアリティ」を感じるか、は、具体的にどのような作品なのか、あるいは読者によっても異なってくるだろうか、とにかくそうやって主人公のタイプによって作品を分類していくことが可能だろう。
東は、「ゲーム的リアリズム」な作品群において、そのような分類を行っている。

『ONE』『AIR』(加えて美少女ゲームではないが『AllYouNeedIsKill』)と
Ever17』『ひぐらしのなく頃に』である。
どちらも、プレイヤー(メタレベル)をキャラクター(オブジェクトレベル)へと召喚する、という点でよく似ている。
だが、前者はプレイヤーはキャラクターに対して無力であるのに対して、後者はプレイヤーによってキャラクターが救われる。前者はメタレベルからオブジェクトレベルへと移行することによる喪失を描くのに対し、後者はメタレベルからオブジェクトレベルに介入することによる全能感を描く。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070326/1174895714

上の例でいえば、ヒーロータイプの主人公はご都合主義的だと思われるかもしれないが、人気ができるかもしれない。これとほぼ同様に、東は『ひぐらしのなく頃に』を、あくまでもプレイヤーレベルで、この全能感について非現実的ではないかと疑問を呈しつつ、人気があることを認めている。
そして、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と『九十九十九』の比較を行うことで、プレイヤーレベルにおいてどのようなあり方が可能であるか、ということを論じていく。
ある時期まで、小説ないし純文学というものが、ロールモデルとして機能していたように*9、『九十九十九』が、世界を複数的に捉えるポストモダンな時代におけるロールモデルとして機能するのではないか、と考えられそうだ。
ちなみに、「ゲーム的リアリズム」作品の「現前性」というものは、「コミュニケーション志向メディア」によって、間接的に担保されるものと考えられる。


「現前性」についてへつづく。

*1:おそらく劇画がそうだ

*2:「キャラクター」になったとしても「キャラ」が可能にした「現前性」は変わらず有している。しかし、他のいくつかの性質は失ってしまう。「キャラクター」と「キャラ」は相反する概念ではなく、同じ対象が両方の性質を持つことはありうる。「キャラ」の上に「キャラクター」が覆い被さっていると考えるといいだろう。「キャラクター」は「キャラ」によって支えられているが、「キャラ」のいくつかの部分を隠してしまっている

*3:それは「現前性」である場合も「もっともらしさ」である場合もある

*4:巨大ロボットの設定やそれが何故学校のそばにあるのかという設定

*5:ただし、何を現前させるか、というその対象において、古川、円城、ファウスト系・ライトノベル作家陣はそれぞれ異なっている

*6:「文学フリマ感想その1」でてん竺に対して述べたことは、このことを言おうとしている。つまり「自然主義的リアリズム」で描かれたなら決して「現前性」を感じられなかったような描写に「現前性」を与えているのである

*7:あるいは前田司郎はどうだろうか。彼の文体はかなり「自然主義的」だが、それだけでは捉えられないものを「現前」させようとしているようにも思える

*8:ただし、『GunslingerGirl』の少女達は単純に「傷付かない」わけではない。ここでは、図式的に「傷付く」「傷付かない」によって分けたが、むしろ「傷付く」「傷付かない」の両義性で揺れるところにこそ、マンガ表現の面白さがあるだろうし、伊藤剛はまさにそこに着目している。だから、「キャラクター」による「キャラ」の隠蔽、などと言うときも、「キャラクター」はダメだけど「キャラ」はいい、などという単純な話はしてないはずだ

*9:それはもちろん「人間についてのもっともらしさ」がそのような作品から感じられたからに他ならない