文化と政治

今日、ブクマした3つのエントリが、それぞれ別のところで見つけた*1のにも関わらず、同じ問題系を巡っているように感じられたので、紹介してみる。完全に単なる偶然なんだけど。
最初は
橋本努「リチャード・ローティを脱構築する」
私的な領域(つまり文化面)ではアイロニストとして生き、しかしその領域を守るため、公的な領域ではリベラリストとして生きよ、というローティ。彼は、文化と政治をはっきり分けて考えるが、その上でその両方にまたがって生きることを求める*2
上の文章では、アイロニストとリベラリストは、本当に両立するのか、ということを問う。アイロニカルな世の中でアイロニカルに振る舞うと、むしろリベラルではなく全体主義に陥るのではないか、とか*3
続いて
「マンガ」と「政治」概論というか試論2(原野商法1997)
マンガ史の流れを踏まえて、マンガと政治について考えているが、ここではまさに、アイロニーに対してアイロニカルに振る舞うことで、小林よしのりナショナリズム秋葉原解放デモのようなものが生まれたのではないか、と述べられている。
で、最後に
中国のコスプレは国家事業である─コスプレ、外山恒一、初音ミクの「政治性」について(GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-)
文化と政治は別ものと思われがちだけど、実は不可分なのではないか、という話*4
ついでに、文化と政治の関係ということで、これも付け加えておく。
今年の夏は日本のロング・ホット・サマー?〜『STUDIO VOICE』の政治特集を読む(海難記)
確か、この号の『STUDIO VOICE』には外山も文章を寄せていたはず。
この仲俣の記事には、自己と個人という言葉が出てくるけど、上の橋本論文に出てくるself(私的な私)とsubject(公的な私)に対応するかな、いや、しないか。

*1:はてブのお気に入り、RSS、はてダのトップ

*2:だから彼は、政治から離れる左翼系知識人を「文化左翼」などといって批判する

*3:討議よりも合意を重視する、とも書いてあった。彼のいう「共感」とやらの落とし穴がここらへんにある気がする。宮台が、ローティだとイラク戦争を止められない、とか言ってたアレ

*4:ちなみにその主張は、外山のものでブログ主id:ggincのものではない