フィリップ・K・ディック『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』

この手の、夢かうつつかみたいな話は、ほんとに面白い。
幻覚から覚めたと思ったら、まだ幻覚だった、というシーンは、今となっては確かにベタかもしれないが、やっぱり面白いな。
ニューヨークの自分の事務所に戻ってきたはずなのに、そのデスクの陰に怪物が隠れていたところを見つけるシーンとか。
しかし、これの本当に面白いのは、幻覚だと思っていたのに、現実世界になってしまっているところがあるところだ。しかも、未来の世界に。未来世界の幻覚を見たのか、本当に知覚だけタイムスリップしてしまっているのか。
そして、パーマー・エルドリッチの遍在。それはまた同時に、神が世界に遍在していることでもある。
悪夢的でありながら、同時に希望でもあるような、幻覚と神の遍在。
未来予知能力者とか、E(進化)療法とか、話のメインとはあまり関係のないSFガジェットも、未来とか人類の進化とかいったことと、幻覚で見る世界が未来世界であることとが絡んできていてすごい。
主人公のバーニイが色々な可能性を見ていくところもある。こうあったかもしれない自分との遭遇。それにしても、この人はころころと態度を変えすぎだ。
この時期のディックがどういう媒体で作品を発表していたのかはよく知らないけど、前半部分は、安っぽいSF読み物。その安っぽい読み物部分でもそれなりに楽しめるわけだけど、後半の現実と幻覚が混ざっていって、エルドリッチがあちこちに現れていくあたりで、不可解な小説へと変わっていく。
目の前にいた奴が、実はエルドリッチだった!(あるいは実は幻覚だった!)っていうシーンのイメージそのものは、安っぽい読み物にありそうなんだけど。
それを何重にも重ねていくうちに、読者の側にも、今描かれているシーンが現実なのか幻覚なのか分からなくなってしまう。登場人物の語る「ここは現実(幻覚)」はもちろん当てにならなくて、作品世界内における「現実」の目印を読者は見失ってしまう。
夢かうつつか、という問いは、登場人物にとって、だけではなくて、読者にとっても同じ意味を持つ。
もちろんそこまで到れば、現実か幻覚か、彼が本当に彼であるのかエルドリッチではないのか、という問いは意味をなさない。現実の中に幻覚が、エルドリッチが遍在しているから。
現実がもはや堅固なものではない悪夢は、しかし同時に、神がすぐそばにいるという希望でもある。